2009年8月31日月曜日

言葉を集めて つづき

・ 「スッペエ、コッペエ」言う。
ああだ、こうだ、と言い張って。つれあいの郷では「すっぺり、こっぺり」と言うらしい。こうしてみると、どこにでもそんな輩はいるらしい。それはよしとして、こうして比べてみると、言葉をゴツゴツ使うのはやはり瀬戸内の方だ、と認めざるを得ぬ。

言葉を集めて つづく

・ 「ニダエル」
煮える、滾る(たぎる)、だろうか。蒸して暑いさま、「今日はぼっけえにだえる日じゃ」と使う。
・ 「コザル」
メモには「木戸の鍵のこと」。辞苑に、小猿鉤の略とある。おぼろな記憶によれば、敷居の溝に穴を開けてあって、木戸に仕掛けた棒状の木を木口から落とし込むようになっていたように思う。かんたんな「閉めてます」のメッセージだけの鍵。防犯力ゼロ。絶滅種。でもこれで戸締りを済ませていたんだよな。今は昔の話。と書いて思い出した、L字型に曲げた鉄の棒を木戸に空けたスリットに差し込んで落とし込んだ木材を引っ掛けて開けていた。あの鉄の棒(鍛造でつくった四角断片のものだった)を自在鉤と言ったかどうかは、憶えていない。

2009年8月30日日曜日

言葉を集めて つづく

・ 「アラテヲハク」
ため池に雨水が流れ込み、満水になっているようす。ため池には水が直接に堤防(つつみ)の上を越さないように一段切り下げた排水路がしつらえてある。これがアラテである。これがなければ土を固めただけの堤は水に洗われて、たちまち決壊してしまう。アラテヲコスとも言う。さて、どう書くのか考えた。ハクは吐く、コスは越す、だろうが、アラテはどうか。テはテイ(堤)でいいとして、アラは荒、粗、新では違う気がする、その排水路は堤防のなかでもいちばん丁寧に作られていて、石組みで底も側面もしっかり固めてある。荒、粗、ではない。まして新しいことはない、アラテは溜池構造の基本の部分であるから新しく付け加えることはありえない。煮詰まって、とりあえず衆院選挙の投票に行った。帰宅して、字引をめくっていると、「洗う」があった。これだろう。そういえば、満水の時にはあふれた池水で常に洗われているのがアラテである。アラテは洗い堤防のことだ。
話は違うが、土手(どて)は土堤(どてい)がすべっていったものなのだろうか。

言葉を集めて つづく

・「チュウノミズ」
中の水。メモには「梅雨半ばの大きな雨」とある。
・ 「ハンゲミズ」
半夏水。梅雨のおしまいに降る大きな雨。半夏生(ハンゲショウ、節季のひとつ)の頃に降る雨。集中豪雨になりやすいことはご存知であろう。

この地域では、田の水をため池に頼っている。雨水だけでは、棚田はとても維持できないのだ。そこで、山襞(谷)に、堤防をこしらえて、雨水を溜めてきた。代掻き(しろかき)、田植え、と水の需要期に降雨が少なく、ため池の水でまかなった年には、「チュウノミズ」も「ハンゲミズ」も心待ちにされてきたのである。カミナリとともに荒っぽい雨が降れば、今年の稲を秋には米にできる。と百姓は安堵(あんど)したのだ。今年の半夏生は7月2日であったと、暦にはある。

言葉を集めて つづき

・ 「ハチヲハラウヨウニ」言う。
蜂をはらう(祓う)ように言う。強く身振りをまじえて否定する。秋になれば蜂はいや増して獰猛になる。草刈機を使うときには、いつも頭の中に蜂の来襲をインプットして置かねば、それこそ痛い目にあう。2・3匹が周りを旋回し始めたら、草刈機は放り出して退散する。まるで銃撃戦さなかの兵士みたいに、腰をかがめて。20メートルも離れれば、それ以上蜂どもは追ってはこない、こちらから見ていると、巣があるらしいところの周りを10匹ほどでブンブン飛び回っている。やがて、彼らが落ち着けば草刈機を取りに行ける。今日の草刈はこれで お仕舞いにしよう。蜂の気持ちは解からないが、「蜂をはらうように」言う、ヒトの気持ちはよくわかる。「けんもほろろに」と同意。私は「蜂をはらう」が好きで、捨てがたいが、いかんせん使う者はまれである。

2009年8月29日土曜日

言葉を集めて つづく

・ 「クサヤマ」
草山。くさやまになる。草の始末は、百姓の永遠のテーマだろう。茂らせてしまった草が腰の高さぐらいになると、大袈裟なようでも山のように思えるのだ。

・ 「ロウソウ」
初めて耳にした時には、何のことか解からなかった、話の文脈から判断して、どうも年寄りの男性を意味するらしいと考えた。メモには「年寄り?」とある。老荘。老壮。であろう。古老の意。そこには、経験に対する尊敬がある。「後期高齢者」という、言い方に、尊敬の意味が含まれているか、あなたはどう思われるか。

言葉を集めて ふろく

ブログらしく、今のことも書こう、そう、またまたコトバについて、でスミマセン。けど、黙っていては腹が膨れる思いがスル。いや、血だってまだ頭から降りてきてないミタイダ。昨日、インターネット料金の振込み用紙を持って、コンビニに行ったと思いネエ。で、そこで「ダイジョウブデス」をやられたのだ。ココまで読んで、何のことかワカンナイやつはこれから先を読む必要ナシ。私は自他共に認める社会的弱者(金も名誉も地位もおまけに人望もない)であるから、軽い扱いには慣れている。いちいち浴びせられるコトバにカチンときて、ハエ叩きで蝿をたたくようにしていては腕がダル。どうしてこのコトバにかぎって、インターネット料金の敵(カタキ)をブログでトル、ミタクなことを思いついたのか、そのあたりのことを考えてみたい。
まづ、第一にこの言葉「ダイジョウブ」は他者との会話の中では、見下げコトバであるということだ。換言すれば、保護する者が、保護される者に使う言葉である。どうして、客が、対等の扱いを受けられないのか。
次に、「ダイジョウブ」でない場合、つまり、否定する場合どういうコトバがあるのか、「うけたまわります」「承知しました」であれば否定はむずかしくない。「~ですが」を付ければいいのだ。
まさか、「ダイジョウブデハアリマセン」というわけにはゆくまい、昔の兵隊であればそれでよかったにしても。いや、もうしばらく後にはこれを聞くことになるのだろうか。
それから。と書いてヤメタ。
いずれにしても、このイイカタは万人の間で切磋し琢磨されて選択されたものなのだ、と考えて、萎(な)えた。
しゃくにさわるから、いつ頃から、私は「ダイジョウブ」に違和をおぼえて来たのか調べてみると、ちょうど3年前の記録を見つけた。癪に触るしゃべり方についてこう書いている。
『しゃべり三態
1. 語尾上げ  ―➚
2. 問いかけ  ―じゃあないですか
3. 馬鹿にし  ――そうなんですか
番外、 店での対応、見下げしゃべり  ~をもらえませんかに「だいじょうぶです」
         06.7.12記』
こうしてみると、ユカイにも1.2.3.の項目は絶滅したみたいである。「だいじょうぶです」の絶滅も近いと思いたい。

2009年8月28日金曜日

言葉を集めて つづき

・ 「木に餅がなるように」
道理に反する。無理である。どうせ諭されるのなら「木に餅が生るようなことを言うな」と諭されたいものだ。比喩がシュールでいきいきしているではないか。

言葉を集めて つづき

・ 「あたりがけ」
気に入らないので、悪さをするようす。ヒトの世などは「あたりがけ」だけで出来ている様なものだ。とは思いたくないのだが。おそらく、叱られたネコがそこらの柱に小便をひっかけて逃げてしまうことから来た。ネコのそれはしばしば目にするものの、ヒトのそれにはおめにかかっていない。ネコのようにできればどんなにスッキリするだろう。

2009年8月27日木曜日

言葉を集めて つづく 

・ 「ヤグラヲアゲル」
メモをそのまま記せば、「植物の生育がさかんで、盛りあがっているさま」とある。当時はなにを大袈裟に言うか。と思っていたが、先日、本をよんでいると「くら」という言葉は古くは植物が茂っているさまの意、であったと知った。「櫓を揚げる」だろう。こうしてみれば、ここ数十年の社会構造の激変によって、そこに有るのだけれども見えなくなっているものが確かにここにもあるのだ。激変の埃(ほこり)をはらう仕事が今は必要ではないのか。たとえば、「グローバル」などという言葉に、思考停止してしまう習いは、「八紘(一宇)」という70年前に好戦的輩に言い言いされた言葉の呪縛と、どう違うのかの説明にまだ寡聞にしてお目にかかっていない。

言葉を集めて つづく

・ 「ミテル」
すっかり無くなること。「満てる」であろうか、「充てる」なのか。すっかり無くなることがミチているであれば、禅問答みたいだ。それとも「ハテル(果てる)」がすべって「ミテル」なのか。「命がみててしもうた」のように使う。むろん、お金がミテテしまいました。と使ってもいい。

言葉を集めて つづく

・ 「いんごうばばあ」
どうしてこの言葉をメモしたのか、憶えていない。メモにはそっけなく「説明の必要なし」とある。余程のことがあったのだろうけれど、歳月がきれいに消してしまったようだ。それにしても、(今は違うけど、)昔は居たな、因業な婆さんが。しおたれた前掛けをして、下はたいがいお決まり模様のもんぺをはいて、なんのまじないなのか、こめかみや首筋に膏薬をはって口をひらけば皮肉か悪口。しかし、こうして自分が彼女たちの歳に近づいてみれば、あんがい、得がたいキャラクター、だったのかとも思う。

言葉を集めて つづく

前回、ケシとアゼについて知ったらしい(これも方言か、解かったような口を利くという意)ことを書いた。もう少し、検討してみたい。
・ 「タカゲシ」
棚田を下から上に展開するためには、石を積む。場所によっては、背丈の何倍もの石組み(石垣)である。高いケシであるから「タカゲシ」。タカアゼとは言わない。
・ 「ケシガトブ」
・ 「ケシヲトバシタ」
水漏れを方っておくとケシが壊れてしまう。アゼがとぶと言っても通じる。
・ 「アゼヲトル」
アゼを塗ること。義兄にあぜをとりに行くと言って不思議がられたことがある。けしを取るとは言わない。
・ 「アゼミチ」
あぜ道。はよく使う、どうしてなのか、けし道、とは言わない。
さて、前回の私の仕分けはあれでよかったのだろうか。

言葉を 集めて つづき

・ 「ケシ」
メモによれば「田のはじの土を盛ってあるところ、アゼではない。」とある。では、と
・ 「アゼ」
を見ると、メモは空白になっている。
ことほどさように、当たり前すぎて説明しづらい物や事は多いよな。試みれば以下のようになる。
そもそも田は、稲それも水稲を栽培するために作られた生産設備であるから。どこからか水を引いてきて田面に溜める必要がある。いくら水平な田面を用意しても溜めるためには、漏れないように周りを何かで囲わなければならない。例えば、絵の額縁の部分を想像してください。それが「ケシ」である。「岸」から変化したと考えるがどうだろう。
さて、「アゼ」、である。ケシは土を盛って作るのであるが、それでも水は漏れるのである。(このあたりは棚田であるからよけいにそうなる)で、田植え前になると、田面の土を水でこねてケシの内側に塗るのだ。ちょうど土壁を塗るように。これがアゼである。海岸に例えると、防波堤部分にあたる。したがって、アゼは稲を育てている時だけに存在し、やがて雨風に叩かれて田面に還る、しかし、ケシは年中ケシのままだ。
余談であるが、土で作ったケシはそれに生えた草の根で持っている。ケシの草は生やしているのだ。このことを忘れてときにケシの草はじゃまものと除草剤をかける輩がいるが、あっというまに、ケシはボロボロに崩れてしまうことになる。元に戻すには、数年かかるだろう。田圃の構造も互いが互いを補い合う、弁証法によって成り立っている。
尚も付けくわえると、したがってケシは田圃の面積のかなりの部分をしめることになる。小作として借りるときに、これを勘定に入れるか、入れぬかは地主との駆け引きであった。本筋からずれた、今は昔の話である。

2009年8月25日火曜日

言葉を集めて また

・ 「ガイ」
たくさん。はげしく。「がいにゃいらんて」。という使い方が耳に残っている。名古屋の男の子が「たくさんはいらない」と言ったのだ。それを聞いた私もまた男の子であった。今になって、調べてみると、ガイという単位はあるのである。億、兆、京、その次に、垓なのだそうだ。

言葉を集めて つづき

・ 「ヤカニャアナオラン」
焼かなゃあ直らん。このあたりではいつ頃から火葬になったのか、子供の頃にはすでに村の火葬場で焼いていた。ほどなくして、市のそれで焼くようになった。今は昔のはなしである。死ぬまで直らないという意。他人事ではない、この私の悪癖もヤカニャアナオランのであろう。ちなみに、つれあいの育った所では、最近まで土葬だった。もう少し記せば、土葬にも、座棺、寝棺、とふたとうりの埋葬方法の違いがある。私はそのどちらをも体験した。義理の祖父、義理の叔父の時のことだ。

言葉を集めて つづく

・ 「ホンガラガス」
痩せて、ガリガリになって、軽いこと。数年前のことになるが、家の若ネコが外で仔を生んで帰ってこなくなった。半月もたった頃だろうか、もう死んだものと諦めていたところ、裏口にひょこっと座っているのを発見した(仔は連れてはいなかった)。「大変じゃ、○○がほんがらがすになってもどってきた。」と家の者に声を荒げて知らせたのは私だった。後日、あんた変な言い方をしていた。と言われて、初めて、これがこのあたりだけで使われている言葉であると知ったのだった。ちなみに、帰ってきたネコは、今ではすっかりゴッドマザーになってしまっていて、この夏も三匹の仔猫を相手に堂々の子育てぶりである。
あえて、余計なことを書き加える。
 ヒトもまたそうであると信じたいが、動物の仔育ては常に、我が命をも引き換えにしてでも、という迫力や覚悟があるのだ。このメスラメぶり(マスラオでは雄になる)を私は好む。

言葉を集めた つづく

・ 「カゲゴト」
「陰事」だろう。意味は仕事以外の用事。カゲゴトが忙しかったので~。と使う。

・ 「トコロアイ」
「所合い」であろう。同じ場所の意。同じ部落、同じ村、近所、であること。「おんなじトコロアイじゃけえ、仲ようしたらええのに」というように使う。

・ 「オレテマガル」
「折れて曲がる」。勢いのいいようす。たくさん有るということ。「おれてまがるほど儲けて、おれてまがるほど持っている」というように使う。

2009年8月23日日曜日

言葉を集めて つづき

・ 「クチナワ」
蛇のこと。縄に口が付いている。「判じ物」みたいなこの言葉は意外と使われている。(もっとも、私よりも歳を拾っているヒトに限るものの。)ちなみに、毒をもつ蛇「マムシ」のことは、「ハミ」あるいは、「ハメ」という。記憶をたどれば、私の少年の頃には毎年、何人かが噛まれ、なかには亡くなったヒトもいたようだ。「こおつと」の祖父も噛まれたし、百姓の師匠(主に言葉を教授された相手)は二度も噛まれている。最近、噛まれた話を聞かぬのは、野良にゆくヒトが少なくなったせいなのであろうか。ハミ、ハメは噛む輩であるところから来ているのであろう。

言葉を集めて つづく

・ 「ダイハンニャ」
いいかげんにする。手を抜いてする。「色即是空、空即是色」、の般若心経(ハンニャシンギョウ)は何を教えているのか私には実の所よく解からない、しかし、仏事には足の痺れに悩まされつつ、唱和するのである。ダイハンニャで。「だいたい般若心経」が滑って転んでこうなったとしか思えない。

2009年8月22日土曜日

言葉を集めて また

・ 「ヒロゲル」
意見を言う。公開する。公の場で発言する。レジスタンスの要素がこの言葉にはある。したがって、世間では否定として扱われることが多い。「ひろげくさって」という様に。このクニでは自分の頭で考えて、自らの意見を持つことを嫌っている。女のくせに、子供のくせに、年下にもかかわらず、後輩だろう、というような言葉をかぶせて。しかし、ヒロゲてみて初めて自らのことばと論理の稚拙をヒトは知るのである。初めて言葉を意識すると言い直してもいい。ともあれ、すべてはヒロゲルことからはじまる。たとえば、誕生したての赤子は泣くことによって、みづからの存在と意思を表現してきた。あなたはそうではなかったのか。

2009年8月21日金曜日

言葉を集めた また

・ 「コサゲル」
この言葉の意味を知らぬ者は私の身近にはいない。メモにもひとこと「削り取ること」とある。きれいに根こそぎに、取り除くこと。私にとっては、茶碗の底にこびりついた飯粒を、箸の先で一粒づつ口にはこんでいるイメージ。コスルとサゲルが合わさったのだろうか。当てる漢字は思い付かない。

2009年8月20日木曜日

言葉を集めた つづき

・ 「アオノケノツバ」
「天に唾す」という諺の変形版。天に~の方は、戒めの要素が強いが、アオノケ~の方は、意外なことになったという意味。当時のメモを写せば「良いと思ってしたことが逆になること」とある。あおむけ、と、のけぞる、を、あおのけ、と変形させるセンスは只者にはなかろう。先日、痛風であるにもかからず大酒を食らって痛い目にあった私に、つれあいが「アオノケノツバ」と言い放ったが、これは戒めの意味であったのであろうか。

ブログらしく、知人に送った手紙を記しておこう。反省のよすがとして。
『ところで、ここ数日は臥せっていた。痛風のせいだ。数日前から変だとは思っていたが、いよいよやってきたのは、13日だった。折悪しく、その日はつれあいの妹のむすめの結婚披露宴(半年になる赤ん坊もその父親も披露するという宴)の日で、ビッコを引き引き、参加した。しおらしくしていたのは座るまでで、ビールは良くないそうだから、焼酎にしよう、いやヒヤでゆくか、と隣の義弟と飲みだして、あっちの夫婦のなれそめをいじり、こっちの夫婦の諍いを暴露し、「子供も成人したし、もう好きにさせてもらう」と宣言し皆からブーイングをもらい。あまつさえ、腫れて曲がらぬ足指を「ほら、もう痛くない」とまげてみせたりした。ここまでやると、さすがの神様も黙ってはいなかった。後日、宴席に忘れてきたメモ帳を送ってもらった。同封の添え書きが妙にこころにしみた。「先日は、お越し頂きまして誠にありがとうございます。お忘れ物を同封させて頂いております。どうぞお確かめ下さいませ。暑い日が続きます。お身体どうぞご自愛下さいませ。」 09.8.20』

言葉を集めた つづき

・ 「トチケモナイ」
とんでもない時に。思ってもみない事を。「~がトチケモない時(例えば深夜)に来て~」「~がトチケモナイ事を言う(する)」。とんでもない、とんでもねえ、とちけもない、と滑って行くに連れて、アスファルトやコンクリートから次第に野良に帰って行くような思いがする。当てる漢字はおそらく無かろう。
 と書いて、しばらく後、「途轍(とてつ)」を思いついた。これが正解ならば、なんでもありだなと考えた。いや、トチケのおかげでトテツの意味が私の中でふくらんだような気がしている。
 と、書いてから二日の後、古語辞典に「何方風(ドチカゼ)」を見つけた。そういえば、「北風」のことを、つれあいの育ったとこでは、「キタケ」と言っている。ドチカゼはドチケに変身しトチケとなる。
 とここまで書いて「トチケモネエ言をヒロゲルナ」という声が聞こえる。そう、この次には「ヒロゲル」について書こう。

2009年8月12日水曜日

私の好きな詩

と書いた。さて、どうしたものか。思案した。ハドメをはづせば、とめどないことになる。止め処を守れば、私が楽しめない。こう御期待。と書いて、まだ思案している。

言葉を集めて つづく

・ 「ノエ」
おそらく「野辺」だろう。田や畑、あるいはそのあたりのこと。ノエのむこう(上に)にある山へ行くときには、ノエに行くとは言わなかった。ノエに行く。ノエに行ってくる。ノエにいっとる。と使った。私の子供のころ、じいさんは毎日「ノエ」に行っていた。田におったり、畑におったりはしたが、行くところは、いつもノエであった。薄暗くなっても帰って来ないじいさんを「ノエ」に探しにゆくと、花崗岩の砂で出来た白い野道が、降りてきた闇のなかに一筋に朧(おぼろ)に見えているのだった。

2009年8月11日火曜日

言葉を集めた つづき

・ カジシ
カジシという言葉を聞いて、それがなにを指し示すのか解かるヒトは少なかろう。小作料の事である。(もっとも、この小作料だってあやしいものだが)この言葉は、子供の頃から知っていたが、どう書くのか皆目わからずにいた。メモに書き加えた時に調べたら、これは方言ではない(れっきとした日本語?)ことに驚いた。「加地子」と書く。当時のメモをそのまま書き写つそう。「江戸時代・小作米の異称。 注―地子は律令制での地代」。こうしてみると、百性はずいぶんと古くからある職業なのである。ここまで来れば、カジシの子が、利子の子と同じであろうと想像されるのである。

・ 「ウンダモノガツエタ」
「うんだものがつえたとも言わない。」と古老は言う。そうであることは明白であるにもかかわらず黙っている有様を憤っているのだ。「ウンダ」は「熟んだ」であろうか「膿んだ」だろうか。「ツエタ」は「潰えた」だろうか、「終えた」であろうか。私には確かめるすべがない。どう思われますか。

2009年8月9日日曜日

言葉を集めて つづき

・ 「草引き」
ブログらしく、今日の新聞(朝日)をネタにしようか。細川護煕(元首相)へのインタビュー、「細川さん最近は」と聞かれて、「田舎暮らしで草引きをしています。」 ホウ、こおつーと。
なぜ、草取りではなく草引きなんだろうか、いや、そもそも草引きという言葉をどのくらいのヒトが理解するものだろうか。と考えた。
ともあれ、見るからに、ダンディでスマートな彼は、おそらく作務衣姿で政界にはびこる雑草を退治しているのであろう。私の周りでは、草取りは草取りと言う。

・ 「マニアイグチ」
間に合い口。その場かぎりのことを言ってのがれる。そのときはたいてい「言う」のではなく「きく」のである。

・ 「モクレル」
もくれる。という言葉は私の棲息している瀬戸内では通じない。しかし、中国山地では一般的だそうだ。ひっくりかえるという意。大きいもの、重たいものが斜面から転がり落ちるイメージ。まくる(捲くる)、まるめる(丸める)に近いのか。考えてみれば身近には、モクレルるような急峻な長い斜面など無いのであった。

・ 「あぶったりたたいたり」
散々な様子をこういう。「けったりたたいたり」の工夫版であろう。これを私に教授したM氏は残念ながら故人となった。私は「あぶったり~」の方をはるかに好む。 トッ・テン・カンの鍛冶屋のイメージがそこにはある。

2009年8月8日土曜日

言葉を 集めて つづき

・ 「ハリマ 」
張間。であるか、梁間であるか。一定の幅の畝(うね)をそう言う。畝にはむろん作物を植えるのである。ヒトハリマ、フタハリマと数える。例えば、サツマイモをフタハリマ植えた。いや、サツマイモなら「挿した」と表現するかもしれない。



・ 「テギワがよい」
手際がいい。百性仕事は手でする仕事が多い。テギワが良くなくては、はかどらない。

・ 「キレイヅクシャ」
綺麗好く者。きれいづきな者から見れば、半端百性の私やっていることは、我慢ならないことなのだろう。

・「 ツロッコウ」
漢字でどう書くのか想像できない。理屈に合っている。バランスがとれている。つりあっている。ようツロッコウしとる。

・「 フサウ」
惣う。と書くのか。良く似合う。という時に使う。たとえば、あの畑には、たまねぎがようフサウ。こういう畑でタマネギを育てれば、手間いらずで収量も多いのである。

・ 「カバチ」
理屈。カバチは言うものではなくタレルものであるらしい。「ありゃあ、かばちたれ、じゃけえ」と言えば、100パーセント褒めてはいない。

2009年8月6日木曜日

言葉を集めた つづき

・「出てくる」
定植した苗が居ついて、成長しはじめたようす。このあたりの棚田では、田植えの後、10日程、稲苗はじっとしている。そののち、根を伸ばし養分を吸い、「デテクル」のである。

・「ジノカワがミエナイ」
小さな草が一面に生えてきて地面が見えない。地の皮が見えない。ということなのだろう。地表は皮なのである、という表現(認識)に出会った時の驚きは今でも憶えている。

・「ワタジ」
畑のこと。「綿地」であればこの国のここ200年ほどの産業構造の変遷のなごりだろう。私の棲息する所には、いまだに、養蚕用の二階建ての家屋が残っている。綿花も栽培していたのだろうか。

2009年8月5日水曜日

言葉を集める 余談

言葉を集めるのだ(たのだ?)、と言いながら、こうしてみれば、せつない思いを集めてきたのかもしれない。
切ないのならば、どれぐらいにそうなのか。請うご期待という事だろう。

言葉を集める つづき

「ガネスボがハヨウル」
がねすぼが生えてきた。
私の言葉集めは、主に、百姓の先輩の言葉をメモしたものだ。私の先輩であるから、もうとっくに、百姓を引退したヒトが多い、なかには人生を引退された方もおられる。
この言葉は、雑草がはびこってきたときに使われた。いまだに「ガネスボ」なるものがどういう植物であるのか解からない。もう20年も前のメモであるから確かめるすべはない。

「ヒジワ」
夏に生えてくる雑草の大半がこれ。どんな草か調べてみて下さい。

「草もこんには負ける」
草も生えんところにゃあ何もでけん。とは百姓の口癖で(言い訳でもある)、それぐらい草とのやりとりはシンドイ。で、先輩は、こう言って私を励ました。いまだに、私の恨(魂だろうか)は草に負けている。

2009年8月4日火曜日

言葉を集める つづき

・「やれんな・・・・」
私のつれあいのおとうさんはこれが口癖。やれんな~と言いながら、物心付いた頃から百姓を70年近くやってきた。嫁をもらえばこの口癖で50数年。それだけでなく何人もの父親も50数年やっている。おとうさんが「やれんな~」といえば、おかあさんは「そりゃ~やれんで~」と答える。
「やってはいられない」が本来の意味であろうが、ここまで使い込めば、唄のようでもあるし、励ましの意味も付け加わっているようだ。会えばこの言葉を聞くのが私の楽しみ。

・「ちゃい」
きんちゃい、しんちゃい。来なさい、しなさい。命令コトバではない。ためしに指揮命令系統で出来ている組織(軍隊・警察など)で使ってみればよくわかるだろう。~~たらどうなん。という乗りなのだ。

2009年8月3日月曜日

言葉を集める つづき

・「・・・・とお~」

・・・・であるのだそうだ。

(ちょうでえ とお~)・・・・が欲しいのだそうである。たとえば幼児や赤ん坊の気持ちを代弁して傍らの女性が使う。平安(平凡)な団欒のひとコマ。中国山地のあたりにはやさしい言葉が多い。下衆な瀬戸内生まれには、耳を洗われる心地がする。

・いやしり
  連作障害・・・・・耕すことを忘れた現代では、死語になりつつある。同じ作物を同じ場所に植えるとこれがおこる、イヤシリのおきない作物は稲ぐらいのものだろう。そういえば、麦はどうなんだろうか。

・ひりつく
  乾燥してしまって、カラカラである。

2009年8月2日日曜日

言葉を集める

順番になんの規則もない、種類もまちまち。そう、素人のてすさびである。



・「みればみいとこ、よればよいとこ」

  見れば三従兄弟、寄れば四従兄弟

   田舎においては血縁関係にある者がまだまだ身近に住んでいる。それにしても「いとこ」を漢字に直そうとすると8種類あるのに驚いた、兄、姉、弟、妹、の組み合わせで表現する。そういえば、二従兄弟(ふたいとこ)、従兄弟半(いとこはん)、という表現もある、これはまた別のはなしであるが。09.5.8



・「この命あなたの税がきいてくる」

 「 この社会あなたの税がいきている」というある税務署の標語をもじった、他意はない。



・「こおつーと」
明治生まれの、じいさんが思案するとき、よく口にしていた。「こおつ」が甲、乙なのか、また「考」を含むものなのか。「-と」は勢いである。