2010年2月28日日曜日

ブログの孤独 つづく

ツナミ

時事に絡むとウンザリする。近づかぬ事にしている。しかし、よく考えると、ヒトの起したところの「時事」に絡んだときだけ疲れるのだと気づいた。ヒトに絡まず時事に絡んでみよう。

昨日(27日)午後、チリで地震があった。今日(28日)午後、津波がこのクニにやってきた。津波はちょうど池に石を投げ込んだときに出来る、同心円の波の巨大版らしい。まるい地球の水平線から波をチャプチャプかきわけて、一日をかけてこの波動はやってきた。地球儀でみれば、チリはちょうど地球の真反対にある。ヒトが中空にぽっかり浮かぶ地球の絵を手に入れたのは、たかだか、ここ数十年前のことにすぎない。そのポッカリ浮かぶ球の表面を、さざ波の波動がまる一日をかけて、静かに移動しているイメージ。それが、この時代の津波のイメージだ。地球は、大きいか、小さいか、それは個々のヒトの感性によるだろう。ヒト人類数万年の歴史を長いと思うか、短いと思うかそれぞれに違うように。

と、ここまで、思案して、数年前のこと、台風による高潮で、車2台をオシャカにした事を思い出した。塩水に浸かった車は廃車にするしかなかった。おいおい、いらんことを考えず、車を高いところにかわしてこよう。

2010年2月27日土曜日

ブログの孤独 つづく

オールサンデー

国民の祝日のこと

新聞を読んでいると「月曜日にならない祝日」のコラム欄があった。連休を作るために?祝日は適当に動くものと、思っていた私には、目から鱗だった。言われてみれば、成人の日は、いつのまにか連休の中に組み込まれている。土曜日が休みの者には三日の休みだ。ところが、去る「建国記念の日」は木曜日で、連休にはなってない。どうしてか、「コラム」では「戦前の皇室行事を引き継いだ祝日の多くが、月曜にならなかった」と指摘する。検索してみれば、「国民の祝日に関する法律」というものがあって、これがややこうしくて、一読して、私には理解できない。

つれあいからは、「オールサンデー」が何をひろげるか。と言われるに決まっているので、声低く、言えば、この国では、休みの扱いもややこうしいみたいである。

調べてみれば、その「日」を大切にしたい。という向きもあるようで、また、休みはまとめてが合理的という向きもあるようだ。

もしも、コラムの言うように、「皇室に関すること」でややこうしくなっているのならば、「私たちに関係なく祝日を考えてはどうか」と皇室が言えば、なんとかシンプルになりそうである。でも、これは、憲法原則からみて、越権行為なんだろうか。いずれにしてもややこうしいことである。

クニを統治するものが、暦を司るという原則があるらしい、民主党を核とした今の政権は、どう考えているのかしら。「いいのがれ」を考えていて、そんなこと考えても無いのかしら。

2010年2月23日火曜日

ブログの孤独 つづく

コトバの豪腕 4

これでお終いにしようと決めた。賢治のこの作品のどこがどう心地よかったのか、どこがどうなって心地よいのであるかを私なりに書いてみよう。それで、おしまい。あとは、あなたが読むか読まないかだけだ。検索すれば画面でも読めるみたいだ。

「なめとこやまの熊」の最初の三つのセンテンスの文字数は17・11・15で始まる。ところが、このリード部分を過ぎれば、いきなり文字数が100を超えるセンテンスが現れる。「なめとこ山の熊のことならおもしろい。なめとこ山は大きな山だ。」さあさあ、大きな山に棲む熊の話が始まるよ。興味のあるヒトはついておいで、興味のないヒトは帰ってちょうだい。もちろん御代はいらない~と始めて、こちらが、まごまごしていると、いきなり、鼻頭らをつかまれて物語の中をひきまわされる。これが、賢治の豪腕その一。

豪腕その二。隠喩・直喩・擬態語を総動員する。「なめとこ山は一年のうちたいていの日はつめたい霧か雲かを吸ったり吐いたりしている。まわりもみんな青黒いなまこや海坊主のような山だ。」「洞穴ががらん」「ごうと落ちて」「そこをがさがさ」「ごちゃごちゃ」「熊はなめとこ山で赤い舌をべろべろ吐いて」

思いつく限りの手練手管、すれっからし、業師。だと思う。そして、この技は目で読むよりも耳で読む方が効果をあげるだろう。

資料
「なめとこ山の熊」は、1927年(S2)30歳頃の作品。彼は「雨にも~」以外にも、優れた詩を書いている、彼の詩に興味のある方は、「永訣の朝」を検索してみてください。彼はまた優れた「方言」の使い手でもあった。

2010年2月21日日曜日

ブログの孤独 つづく

ジイジ

我が子が子を産んで、一年以上たった。当初「じいじ」と身近な者に呼ばれて、無視したり、嫌だと抗弁したりしたのが効を奏したのか、最近は呼ばれなくなっていた。

ところが、先日、親を連れて、子の子(孫)がたち現れた。これが人目をはばかることなく、人込みをものともせず、「じいちゃん・ジイチャン」を連発する。返事をするまで呼び続ける。相手が大人ならば無視も抗弁も出来るが、そうはゆかない。間違っては無いのだから、正すわけにもゆかない。これをどうしたらいいか。今のところ打つ手がない。


こうして、ヒトはいきなり「じいさん・ばあさん」になってゆくのか。

それはそうと、この孫、私の母親を「ばあちゃん」と呼んでいる手前、つれあいをどう呼んでいいか戸惑っているらしい。それをいいことに「ばあさん」を免れている彼女は心なしか機嫌がいいみたいだ。

ブログの孤独 つづく

仔犬


我が子なら、大なり小なり、後足で砂を掛けるようにして家を出て行くから、「ダメだったら帰ってくればいい。」と心の整理ができる。でも、これの後ろ足はまだ砂を掛けるまでになっていない。見合い写真を撮った。



つれあいは、これで新しい飼い主を探すと言っている。
「頼むよ。」と言っているのかしら、この眼は。
こうしてみても、我々が「動物」と呼ぶ連中は、我々よりも優れて美男美女ぞろいなんだな。

ブログの孤独 つづく

コトバの豪腕 3


「なめとこ山の熊」宮沢賢治の朗読をラジオで聞いて感動した事を発端とした、このブログのなかのブログは行き詰まっている。「本」はともかく読み通うそうと、私が惰眠をとる、枕辺に移動させられた。で私が昨晩読んだのは、『人口から読む日本の歴史』亀頭宏・講談社学術文庫1430、だった。どうしてそれをの答えは、それがそこにあったから、としか答えようが無い。

「コトバ」を相手にするのはシンドイ。特に賢治みたいな、言葉の秘剣、妖剣、使い。37年の生涯(1933年昭和8没)をコトバと心中したみたいな、人物を相手にすればなおさらそうみたいだ。

それはそうと、田村隆一(1923~1998)という詩人の詩を載せてみたい。最近読み直して感心した詩(1962)です。

「帰途

言葉なんかおぼえるんじゃなかった
言葉のない世界
意味が意味にならない世界に生きてたら
どんなによかったか

あなたが美しい言葉に復讐されても
そいつは ぼくとは無関係だ
きみが静かな意味に血を流したところで
そいつも無関係だ

あなたのやさしい眼のなかにある涙
きみの沈黙の舌からおちてくる痛苦
ぼくたちの世界にもし言葉がなかったら
ぼくはただそれを眺めて立ち去るだろう

あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるか
きみの一滴の血に この世界の夕暮れの
ふるえるような夕焼けのひびきがあるか

言葉なんかおぼえるんじゃなかった
日本語とほんのすこしの外国語をおぼえたおかげで
ぼくはあなたの涙のなかに立ちどまる
ぼくはきみの血のなかにたったひとりで掃ってくる」

センチメンタルにウンザリしましたか、でも、これがここ60年の時代の最良の「感性」なんだな。少なくとも、賢治はこんな泣き言はいわずに、書き続けたヒトでした。命と引き換えにするようにして。

この項は続けたい。

2010年2月19日金曜日

ブログの孤独 つづく

コトバの豪腕 2


さて、1、を書いたのは10日だから、ずいぶん間が空いてしまった。つづけてみよう。忘れていたわけではない。その間、本はモニターの前に広げられっぱなしで、一行目の「なめとこ山の熊のことならおもしろい。」が私を誘っていた。ページにして7ページ、紙にして5枚のこの話は、新聞を読む習慣のある者ならば5分で読んでしまうだろう。小難しい概念や言い回しはないから、立ち止まったり、後戻りすることもない。それが、なかなか読みきれない。理由は簡単だ、弁当をひろげて、美味しいもの(玉子焼きやソーセージ)を最後に食べる癖のあるヒトは解るだろう、食い惜しみをしているだけなのだ。

2010年2月15日月曜日

ブログの孤独 つづく

オリンピック


冬のそれが行われていて、「日本、ニッポン」と連呼するアナウンサーが嫌で見ていない。「にっぽん?なんぼのものなら。」の気持ちはいつでも私の中にある。熱狂に駈(から)れて「突っ込んでこい」みたいな不毛の歴史を誰ももう体験したくないだろう。私の内の愛国の気持ちは、暴走を自制しなければならぬ程あるのであるが。

オリンピックといえば、私は、1964年だったか「東京」のそれを、テレビで見た世代だ。アナウンサーはアフリカ諸国の入場行進を「1960年はアフリカ諸国の独立の年でした。」とやっていた。当時は感激した。今から思えば嘘ばかり、それから半世紀、アフリカ諸国の去就はどうだっただろうか。その記憶のある限り、私はアナウンサーの興奮には付き合わない。

前置きが長くなっている。こんな前置きを書くためなら、ブログなど書かない。黙っている方が心の平安にはよろしい。書きたかったのは次のことだ。

今朝、新聞を読んでいると、「フリースタイルスキー、女子モーグル上村選手が4位」の記事に、彼女のつれあい(夫)が「よくがんばった、エライ、結果は天気みたいなもの、ケセラセラ、と思う」(引用は正確ではない)と『いたわった。』とあって、これはいい、つれあいの、失意の時、こうすればと感激した。いや、私の下心を抜きにすれば、これは、彼の本心であろう、彼女は「突っ込んでこい」みたいなマスコミ攻勢に晒されていたから。

さて、ブログ書く私は、妻の失意を、不謹慎ながら「待ち望む」ことに成るのであるが。

それが、すでに過ぎてしまったものやら。これからのものやら、いや、今起きつつあるものやら、解らない。とりあえず闇雲に、「よくがんばった」とやってみるか。ウーン、たぶん、とんでもないことに、なると思う。

ブログの孤独 つづく

溜池堤を焼いた


昨日の事、一月の末に、よってたかって(総勢17で)、草刈をした池堤を燃やしにかかった。今回は消防団も加わったので、総勢30程で、よってたかって火をつけ、寄って集って消した。思うに、ヒト人類は、どうやら火を発見した時から、燃やす事に快感を覚えるものらしい(昨今の薪ストーブの流行もそのながれだろう、エコだの言っているが、燃やしたいのだ。)

現場に着くやいなや、5名程が火をつけて廻り、残る25名程が消しにかかった。以下、絵を貼りたいが、うまくゆくかしら、火をつけたみたいに。


昇りつつある太陽も隠れるほど焼いた

 

消防団は消す事をするのである。
絵の奥で水をかけている。
かくして、燃やすものは燃やした。
さあ、次にかかろうか。

2010年2月11日木曜日

ブログの孤独 つづく

「プリウス」を思う


時事には近づかない事にしている。でも、素朴な疑問なら少しはいいだろう。

この時代のリコールの処理について考えた。例えば、ある「ボルト」の強度が不足している、「ワイヤー」の取り回しが適当でない、ゴムホースが破れる恐れがある。今までのリコールは、部品を替え、目で見て納得できた、何よりその部品はピカピカになったから。ところが、コンピーターのプログラムを書き換えます。のリコールは、確認しようが無いのではないか、同じ条件で同じ動作を機械にやらせて、「おう、直っている。」とする以外は。いや、国土交通省は、プログラムの何処の何行目がダメでそれを、こう替えるとか、この行を付け足すとか、確認するのだろうか。

以前から、コンピュータ制御の弱点は言われていた。基本のソフトに付け足し付けたしして開発しているから、全てを一から書き直す事など出来ないこと。などなど。

報道によれば、今回のブレーキの癖は半年も前から指摘されていたようだ。トヨタが「プリウス」で手間取ってしまったのは、コンピュータ制御リコールについての戸惑いもあったのか。

先日、分解したコンバインのガラクタを鉄屑屋に持っていった。軽トラの荷台に積んだ鉄屑に向かって、直径2mもあろうかと思われる電磁石が近づいてきて、あっという間に吸い上げてしまった。「ヘー」と感心して、軽トラに戻ると、アイドリングにしていたエンジンが止まっていた。どうやら、電磁石のせいらしい。コンピューターの弱点はいろんな所にまだ有りそうである。

2010年2月10日水曜日

言葉を集めて つづく

コトバの豪腕 1


このあいだ、「ラエ」の先生の足になった。先生は病院巡りを日課としている。軽トラを駐車して待つ間にカーラジオを点けた。名を聞いたことのある俳優が、宮沢賢冶『なめとこ山の熊』を語っていた。引き込まれ、無聊(ぶりょう)の時を忘れた。

皆、家の片隅には、ホコリをかぶった、宮沢賢治の何かを、持っているのではないか。

どんな、みごとなコトバも、コトバの仕掛けも、飽きるのである、しかし、久しぶりに出会えば、それはスバラシイのである。

美人は三日で飽きるというが(そうでないヒトには、悪いが)、久しぶりに会えば、やはり美人なのである。残念ながら、イイ男がやはりそうであるように。

いつものように、前置きが長くなっている。

家で、活字を探したら、『もう一度読みたい宮沢賢治』別冊宝島(2007年)を見つけた。自分で買った覚えが無いから、つれあいが購入したものだろう。ここだけの話だが、彼女の文学は、藤沢周平と平岩弓枝なのだ(読破しているらしい)。どうして賢治を?この謎は放っておいて、本題にとりかかろう。そうしないと前置きがまた長くなる。

この項は続けたい。

2010年2月9日火曜日

言葉を集めて つづく

・ 「ベントウモチ」


「弁当持ち」メモには「勤めに出ること」とあり用例として「弁当持ちになろうと思ようる」「あのヒトは弁当持ちじゃから」とある。コンビニの駐車場でおにぎりを齧り、ペットボトルの茶で流し込もうと、現場の石の上で、菓子パンを缶コーヒーで流し込もうと、それは、「ベントウモチ」になる事なのである。

食わんが為に働くのが、我々だが、まさに、その食う事の中身が「貧しく」なってはいまいか、こんなのを「疎外」というコトバで昔は言っていたが、最近トンと聞かない。
偏差値の高い学生ほど、「疎外」を連発していた、あれはなんだったんだろう。

2010年2月8日月曜日

ブログの孤独 つづく

ブログのこと


朝起きた、歯を磨いて飯食って、遊んで(働いて)糞して、寝る、云々。それがブログならば、書かない方がよかろう。

少々、「時事」に絡みすぎたようだ、ここ数日、ウンザリしている。だれに、己に。

ひたすら、「効率と正確」を求められる、現代の働き方をヒトは免れられないにしても、それは、ブログの世界とは無関係なことなのだ。

当てっこゲーム、「ほれ、オレのいったとうりだろ」みたいに、時事にからんだ付けが、やってきた。「さようなら」と言いたいが、もう少し、「思い違い」「勘違い」を追究してみようか。

「アイハブ、ア、ドリーム」ではないが、私には「ヒトは勘違い、思い違いから始める」という信念がある。あらかじめ、「正解」や「答え」が出ている事柄など、そんなもんが好きな輩に任しておけばいい。

ところで、新米政令指定都市、岡山は一年前、最初の仕事に「ゴミ有料化」をやった。さて、一周年、「ゴミが減ったぞ、万歳」と市は言っている。「あんたの手もとに集まるゴミが減っただけでないの」と絡んでみたくなるが、これは宿題にしておこう。時事には少しうんざりしているのだ。

2010年2月5日金曜日

ブログの孤独 つづく

三題話


ブログらしく時事にからんで三題話をしてみたい。キーワードは「進退」。

「朝青龍」「小沢幹事長」「プリウス」いずれも、現在最強の者の進退が問われた。(過去形で言うのは、明日になれば、みんな忘れてしまうから)

「朝青龍」は、暴行の事実関係が明らかにならない前に「おれは、やめるよ」と相撲取りをやめた。世間は「えー、ほんとなんですか」と正直に反応した。相撲ジャーナリストはあわてて、「やめて当然」の論陣を張っているが、みっともない。思えば、彼は29歳か、歳を拾った物から見れば、まだ、右も左も定かならぬ歳だ。

「小沢氏」。彼は、党の役職を辞めません。と宣言した。それで、みんなは妙に納得している。でも、しかし、組織原則から言えば、進退は「党首」が決めるものだろう。少しトーン高く、「このようなことで、辞めさせるつもりはありません。」と党首は言ったのか。寡聞にして知らない。

「プリウス」。このヒット商品の品質が問われている。この車のブレーキは2回踏めば利きます。とか聞く。それはなかろう、この商品を使っているのは、プロではなくアマチュアなのだ。ブレーキは踏んだら利く。それでなければ売ってはいけない。
その上、公にしないで、裏でブレーキ設定を手直ししていたとも聞く。これを「隠蔽」というのではなかったか。いや、そもそも、「制御」の事は原発に代表されるように、ヒト人類にとっては未知で苦手な分野なのであろうか。と余計な事を考えた。

いずれのケースも、「なあなあ」の領域で処理され、事を処理する論理の道筋は不明なまま「このくらいのところ」で済みつつある。

数日前に「言語力」について、私はからんだ。このクニには「言語力」など要らないのかもしれない。

2010年2月3日水曜日

ブログの孤独 つづく

コメントが来ていた


ブログに「コメント」なるものが在るとは知っていた。「コメント」を送った事もある。しかしだ。しかし、この「野良通信」にコメントが訪れるとは想定していなかった。以前、「読め」と強制し、その上コメントを送ってくれと懇願しコメントを手に入れたことはあった。「読みました」だけ、とか散々な結果だった。

今日、編集欄を見、コメント欄を見てみれば、ふたつの「コメント」がそこにあった。「感動した」コイズミよりも感動した。

どうやって、返事を処理したらいいか、以前、強制した時には「ごくろうさん」と返事をコメントした経験があるのだが、それが、どうしてできたのか思い出せない。急いでいるので、とりあえず「ありがとう」をこの欄で言わせて下さい。そしてそういう理由で私は「コメント」なるものを、意識の外に置いていたのでした。「ゴメンナサイ」。

仔犬可愛いでしょう。今朝は遊んでもらいました。「いのち」をなぜ我々は「かわいい」と感じるのか、そんな理屈は「学者」にまかせて、とりあえずは、遊んでもらうことにしています。

2010年2月2日火曜日

ブログの孤独 つづく

言語力の不足


NHKを見ていたら、「言語力が足りない」というテーマで放送していた。先月の末の事だったか。サッカーで負けた事も、国際競争力が低下している事も、諸々のよくない事々の原因がそこにあるらしい。なんだか、クニ全体で叱られているみたいで不快だった。こんな番組を見せられて、「よし、明日から言語力向上に励むぞ、グローバルに乗り遅れるな」みたいなことに世間ではなっているようだ。

と、昨日ここまで書いて、それから先が書けない。この話題はボツにしようかと考えた。しかし、不肖私も「言葉を集めて つづく」などとやっている手前、もう少し進んでみよう。

まず、「言語力」なる言葉が耳新しい事に気づいた。調べてみれば、文部省あたりから出てきた言葉らしい、だからか、「言語力検定」なるものもあるらしい。なんだか「漢字能力検定」を思い出した。

次に、言葉、「言語力」の意味は、と文部省の発表文書をチャラ読みすると、論理的に考え、他人に解るように表現する能力。の事らしい。ありゃ!こんなことなら、「学校で」私も、私の子供たちも、やらされてきたぞ。あれはなんだったんだろう。もっとも、作文の課題に『自分の思った事を書け』などと自分も考えも無い教師が指導するのだから結果は散々だったのだが。

こうしてみれば、官民挙げてのチンケな「国民運動」みたいな帰結しかこの事柄の中身は無かろう。なぜなら、論理を使い考え、それを表明する事は「批判」を生み出す重要な要素であり。そして、それは、否応なしに、「権力と支配」に向わざるをえぬからだ。つまり、言いだしっぺには両刃の刃なのである。
考えたり調べたりその上書いたりするんじゃなかった。どうりで、放送が「ハウツー」に偏っていたわけだ。

それはそれとして、政府発の「自己責任論」にとびついて、異国で拘束された若者を袋叩きにするような国民には、文部省のいうところの『言語力とは、情報に関する知識と経験、論理的思考、情緒などを基盤として、他者とコミュニケーションを行うために言語を運用する(考える、聞く、話す、読む、書く)のに必要な個人に内在する能力』がどうしても必要だろうとは考える。

しかし、チャカスようでわるいが、この文部省の文章の言語力をどうにかしてもらいたい。

余計を付け加えれば、論議するならば、「この国の人々に元々言語力なるものがあったのか。」とか、「自分の意見を持たないでこの国で暮らす利点」とか。そんなことを論議すべきだろう。