・ 「ヤケノヒカンパチ」
「やけのやんぱち。」なのである。やけっぱちになってそう言っているわけではない。真面目なのである。「ラエ」の先生は不肖の弟子の私のように言葉で遊んだりしない。言葉はただただ、事柄や気持ちを伝える道具なのである。おそらく、先生は、7文字の収まりのいい数では、この自棄(やけ)は表現しきれないと考え、8文字にしてやっと相応しいところに落ち着いたのだろう。ところで、先生だけかと思っていたら、ちらほら、使う人物はいるのである。たとえば、「コタをカク」の女史。どうやら、ネイティブ地元はそう言い暮らしてきたらしい。
常套句は慣用度の高いほど、元々の気持ちから離れて行く。言葉は常にそれが妥当な攻撃力(衝撃力)を持っているか否か、検証される運命にあるのである。いまどき、常套句を疑問も無しに連発しているのは、言葉で飯を食っているところの、マスコミ(テレビ・新聞)、役人、政治家ぐらいのものなのである。
2009年12月15日火曜日
2009年12月14日月曜日
言葉を集めて つづく
・ 「ボニホットイテ」
メモには「放っておいて。いそいで。」とある。「ウロウロしょうったらボニホットイテ行かれた」(ぐずぐずしていたら置いていかれた)のように使う。ボニは強調の言葉だろう、ブン投げる、ブッ飛ばす、クソ暑い、バカでかい、のように。こうしてみると、「ハ」行が多いな。そういえば強調方言にも、ボッケー、ボーレー、デーレー、モンゲー、バンコ、と「ハ」関係が多い。この事について、これ以上詮索すると面倒だから、これは置いておいて。「ボニ」はどういう言葉(字)から来ているのか、しばらく、傍らを眺め考えた、ひらめいたのは、「傍(ボウ)」だ。「かたわらにおいておく」これではないか。わが故郷はどうやらやっている事はえげつないことでも、言葉においては古式ゆかしく、折り目正しくあるらしいのだ。
メモには「放っておいて。いそいで。」とある。「ウロウロしょうったらボニホットイテ行かれた」(ぐずぐずしていたら置いていかれた)のように使う。ボニは強調の言葉だろう、ブン投げる、ブッ飛ばす、クソ暑い、バカでかい、のように。こうしてみると、「ハ」行が多いな。そういえば強調方言にも、ボッケー、ボーレー、デーレー、モンゲー、バンコ、と「ハ」関係が多い。この事について、これ以上詮索すると面倒だから、これは置いておいて。「ボニ」はどういう言葉(字)から来ているのか、しばらく、傍らを眺め考えた、ひらめいたのは、「傍(ボウ)」だ。「かたわらにおいておく」これではないか。わが故郷はどうやらやっている事はえげつないことでも、言葉においては古式ゆかしく、折り目正しくあるらしいのだ。
2009年12月13日日曜日
ブログの孤独 つづく
これは、ソバ猪口である。世話になっている、写ってはないが酒が入っている。最初は5個程あったが、次々に割れて(落としたのはほとんど私)これだけになった。早朝に限りなく近い深夜、ネコ供も引き払い、新ためて模様をながめた。「模倣に模倣を重ねているうちに、オリジナルから遠く離れてここに至ったのであろう」と想像した。「そうとしても、思い定めて、抽象に変化しょうとする思いも無いようだ」と考えた。こうしてみれば、「日々の暮らしを彩る物、いや、我々そのもの、もこのソバ猪口みたいなものではなかろうか」、と思い至った。本当に新しいもの(オリジナルデザイン)は、100年に一度現れればいい。さて、一眠りしよう。
2009年12月12日土曜日
ブログの孤独 つづき
紫蘇(シソ)のこと
シソは青いものと紫のものがある。どちらも前の年の種が落ちていれば、放っておいても生えてくる。それを苗にして、一列にでも二列にでも何列にでも作ればいい。ただ、注意することは作り過ぎぬこと、丈はヒトの肩までになり、虫も病気も寄り付かず、おまけに丈夫ときているから、持て余すことになる。シソは香りのものだから、何にでも混ぜ込んだらいい、汁に飯に肉に梅干に。
さて、春に芽吹き、夏に茂り(その葉をもらい、散々食い散らかした)、秋に葉を落とし、冬にすっかり枯れてパリパリの枝と茎だけになったシソを片付けた。四つ目鍬で倒していると、夏に楽しんだシソの香りがあたりに漂う、シソはいつまでもシソなんだ、と妙に感心した。香木はその香りを何百年も保つという、話を思い出したりした。
シソは青いものと紫のものがある。どちらも前の年の種が落ちていれば、放っておいても生えてくる。それを苗にして、一列にでも二列にでも何列にでも作ればいい。ただ、注意することは作り過ぎぬこと、丈はヒトの肩までになり、虫も病気も寄り付かず、おまけに丈夫ときているから、持て余すことになる。シソは香りのものだから、何にでも混ぜ込んだらいい、汁に飯に肉に梅干に。
さて、春に芽吹き、夏に茂り(その葉をもらい、散々食い散らかした)、秋に葉を落とし、冬にすっかり枯れてパリパリの枝と茎だけになったシソを片付けた。四つ目鍬で倒していると、夏に楽しんだシソの香りがあたりに漂う、シソはいつまでもシソなんだ、と妙に感心した。香木はその香りを何百年も保つという、話を思い出したりした。
2009年12月11日金曜日
ブログの孤独 つづき
ネズミ騒動始末記 つづき
時ならぬ、騒ぎに階下におりてみれば、我が家の廊下でネズミに出会った、それも傍らにネコを従えて。私には威丈高を常とするつれあいが「ヒャー」と言って逃げまわっている。あんなに浮き足立って「ザマアミロ」と思うが、どうしたらいいものであろうか。何処で何を食ってそんなに大きくなったものか、こいつはネズミのイメージをはずれて大きい。「どこからでもかかっていらっしゃい」と身構えている様子だ。ネコを見れば、規格はずれの大きさにおじけがついたものか、目を細めて眠ったフリなどしている。犬猫に加えネズミを飼うわけにはいかない。しばらく前から天井裏を駆け回っていたのはこいつだったのか、そこにそのまま居ればいいものを。金バサミを持ち出して、エイと摘んで捨てた。(ネズミもこのくらいになれば、金バサミをカリカリと齧る)
眠ったフリのネコは、「ようやったな~、偉いな~」とつれあいに頭を撫でてもらったりしている。
とりあえず、平穏は戻った。二階でこれを書いている。と、いつもは下から大声で用事を済ませるつれあいがめずらしく上がって来る。「何事だ」と聞く前に、「犬が仔を生んどる」と言う。さて、どうしたものか。
時ならぬ、騒ぎに階下におりてみれば、我が家の廊下でネズミに出会った、それも傍らにネコを従えて。私には威丈高を常とするつれあいが「ヒャー」と言って逃げまわっている。あんなに浮き足立って「ザマアミロ」と思うが、どうしたらいいものであろうか。何処で何を食ってそんなに大きくなったものか、こいつはネズミのイメージをはずれて大きい。「どこからでもかかっていらっしゃい」と身構えている様子だ。ネコを見れば、規格はずれの大きさにおじけがついたものか、目を細めて眠ったフリなどしている。犬猫に加えネズミを飼うわけにはいかない。しばらく前から天井裏を駆け回っていたのはこいつだったのか、そこにそのまま居ればいいものを。金バサミを持ち出して、エイと摘んで捨てた。(ネズミもこのくらいになれば、金バサミをカリカリと齧る)
眠ったフリのネコは、「ようやったな~、偉いな~」とつれあいに頭を撫でてもらったりしている。
とりあえず、平穏は戻った。二階でこれを書いている。と、いつもは下から大声で用事を済ませるつれあいがめずらしく上がって来る。「何事だ」と聞く前に、「犬が仔を生んどる」と言う。さて、どうしたものか。
2009年12月10日木曜日
言葉を集めて つづく
・ 「ショウヤク」
やはりこれは方言なのだろうか、それももっぱら百姓の用いるところの。分厚い辞書にはない。『ほんにのうや』にもない、『方言辞典』には「処理する、整理する。」とあった。この説明では靴のうえから足を掻くような気持ちだ。具体的に書いてみよう。農作物を収穫する、土や枯れた葉や髭根はまだ付いたままだ。これを持ち帰り、「ショウヤク」しておいて、と家の者にたのむ、すると土は落とされ、不用の葉は外され、髭根はむしられるのである。つまりちょうど、八百屋の店頭に並ぶ野菜のようになる。この行為が「ショウヤク」なのである。思うにこうした、「整える」作業が廃れぬうちはこの言葉は身近からは無くならないだろう。
それはそれとして、どういう字を当てればいいのか、検索してみれば、岡山辺りでささやかに流通している言葉らしい事は解かったが、字までは解からない。「整約」「要約」「集約」「総約」「性約」「処約」と当ててみても、どれもいまひとつだ。解からないとしておこう。
ショウヤク、ショウヤクと頭の中で牛の如くに反芻していると、数学の教師が黒板に数式を書き並べ「ここまでをショウヤクすると、こうなります。つぎに~」と説明していたような気がしてきた、これは「証約」「小約」「抄約」だったのだろうか。方言の「ショウヤク」はこのイメージに近いような気がする。
それにしても、数学の記憶が言葉づかいの記憶だけだ、というのはいささか寂しい。
と、書いて半日。「嘗役」はどうかと思い至った。農作物栽培において、土と水と太陽による養い役は収穫によって終わり、後は手のみの役(約?)が始まるのである。
やはりこれは方言なのだろうか、それももっぱら百姓の用いるところの。分厚い辞書にはない。『ほんにのうや』にもない、『方言辞典』には「処理する、整理する。」とあった。この説明では靴のうえから足を掻くような気持ちだ。具体的に書いてみよう。農作物を収穫する、土や枯れた葉や髭根はまだ付いたままだ。これを持ち帰り、「ショウヤク」しておいて、と家の者にたのむ、すると土は落とされ、不用の葉は外され、髭根はむしられるのである。つまりちょうど、八百屋の店頭に並ぶ野菜のようになる。この行為が「ショウヤク」なのである。思うにこうした、「整える」作業が廃れぬうちはこの言葉は身近からは無くならないだろう。
それはそれとして、どういう字を当てればいいのか、検索してみれば、岡山辺りでささやかに流通している言葉らしい事は解かったが、字までは解からない。「整約」「要約」「集約」「総約」「性約」「処約」と当ててみても、どれもいまひとつだ。解からないとしておこう。
ショウヤク、ショウヤクと頭の中で牛の如くに反芻していると、数学の教師が黒板に数式を書き並べ「ここまでをショウヤクすると、こうなります。つぎに~」と説明していたような気がしてきた、これは「証約」「小約」「抄約」だったのだろうか。方言の「ショウヤク」はこのイメージに近いような気がする。
それにしても、数学の記憶が言葉づかいの記憶だけだ、というのはいささか寂しい。
と、書いて半日。「嘗役」はどうかと思い至った。農作物栽培において、土と水と太陽による養い役は収穫によって終わり、後は手のみの役(約?)が始まるのである。
2009年12月9日水曜日
言葉を集めて つづく
・「アラツカ」
実(まこと)にものを知らぬという事は辛いことではある。「糟糠(そうこう)の妻」を「アラツカの妻」とつい最近まで読んでいた。いつから間違えていたか、おそらく、つれあいと連れ合って後だろう。年月を数えることもはばかられる。
ところでこの「アラツカ」は方言なのである。『ほんにのうや』には、「あらつかな」の項目に「荒っぽい、粗野な。」とある。「何事にも雑であること」がその意。「荒」ではなく「粗」が相応しいだろう。分厚い辞書にはアラツの項目に「放つ」とあるがそれでも大勢は変わらない。家には、時として「粗つ神」が居たのかもしれない。私にはボーットした記憶しかない。
実(まこと)にものを知らぬという事は辛いことではある。「糟糠(そうこう)の妻」を「アラツカの妻」とつい最近まで読んでいた。いつから間違えていたか、おそらく、つれあいと連れ合って後だろう。年月を数えることもはばかられる。
ところでこの「アラツカ」は方言なのである。『ほんにのうや』には、「あらつかな」の項目に「荒っぽい、粗野な。」とある。「何事にも雑であること」がその意。「荒」ではなく「粗」が相応しいだろう。分厚い辞書にはアラツの項目に「放つ」とあるがそれでも大勢は変わらない。家には、時として「粗つ神」が居たのかもしれない。私にはボーットした記憶しかない。
2009年12月8日火曜日
ブログの孤独 つづく
「脱官僚依存政治」
呼ばれもしないのに、騒ぎがあれば顔をのぞけて一言口を挟む人物を「イッチョカミ」と云うらしいが、どうも私もそうらしい。民主党の新しいルール「陳情一元化」をめぐって、「イッチョカミ」してみよう。
最初から、調子が低くてゴメンナサイだけれど、残念な事に私は国に「陳情」した経験が無い。まして官僚ではないから、「陳情」を受けた経験も無い。したがって、これまでの自民党的陳情システムの弊害がまずピンと来ない、現場を知らないのだ。
一方、「脱官僚依存政治」を目指すという民主党が、そのためには「陳情一元化」がどうしても必要であるとする論理も今ひとつピンと来ない。「官僚依存」しないで政治をやりたいのはいいとしても、「窓口はひとつだけ」、というのは揚げ足を取るようで恐縮だが、あまりに「官僚的(お役所的)」発想と思われる。
さて、私の「窓口はひとつ」の経験を述べてみよう、相手は「市」だ。苦情、要望、お願い、言葉はあれこれでも「陳情」だろう。「市」に直接連絡すると、時としてしばしば、「町内会を通して」。と言われる。町内会を通してもいいが、いまひとつ市に届くものかどうか解からない不安がある。おまけに、直接「市」と交渉したりすれば、越権であると町内会の機嫌が悪い。「窓口はひとつ」は私にとって何もいい事は無かった。これが、私のささやかな「陳情一元化」の経験である。(単なる任意団体の町内会を、行政の末端機構のように扱うのは、「役所の手抜き論」を超えた問題がある、これについては、またの機会に)
これ以上書くことは無い。ただ一言付け加えれば、今、議論を呼んでいる、「事業仕分け」「陳情一元化」が彼らの弱さの表現で無い事を祈るのみだ。パホーマンスの成功体験を持つ者はまた、偽りのパホーマンスに躓くものだ、二度目は喜劇として。帝国で80年、ついで世界最強国の属国となって65年、人口1億2000万を擁し、世界でも指折りの工業国である国家をコントロールする難しさは想像を超えるものがあるとしても。
呼ばれもしないのに、騒ぎがあれば顔をのぞけて一言口を挟む人物を「イッチョカミ」と云うらしいが、どうも私もそうらしい。民主党の新しいルール「陳情一元化」をめぐって、「イッチョカミ」してみよう。
最初から、調子が低くてゴメンナサイだけれど、残念な事に私は国に「陳情」した経験が無い。まして官僚ではないから、「陳情」を受けた経験も無い。したがって、これまでの自民党的陳情システムの弊害がまずピンと来ない、現場を知らないのだ。
一方、「脱官僚依存政治」を目指すという民主党が、そのためには「陳情一元化」がどうしても必要であるとする論理も今ひとつピンと来ない。「官僚依存」しないで政治をやりたいのはいいとしても、「窓口はひとつだけ」、というのは揚げ足を取るようで恐縮だが、あまりに「官僚的(お役所的)」発想と思われる。
さて、私の「窓口はひとつ」の経験を述べてみよう、相手は「市」だ。苦情、要望、お願い、言葉はあれこれでも「陳情」だろう。「市」に直接連絡すると、時としてしばしば、「町内会を通して」。と言われる。町内会を通してもいいが、いまひとつ市に届くものかどうか解からない不安がある。おまけに、直接「市」と交渉したりすれば、越権であると町内会の機嫌が悪い。「窓口はひとつ」は私にとって何もいい事は無かった。これが、私のささやかな「陳情一元化」の経験である。(単なる任意団体の町内会を、行政の末端機構のように扱うのは、「役所の手抜き論」を超えた問題がある、これについては、またの機会に)
これ以上書くことは無い。ただ一言付け加えれば、今、議論を呼んでいる、「事業仕分け」「陳情一元化」が彼らの弱さの表現で無い事を祈るのみだ。パホーマンスの成功体験を持つ者はまた、偽りのパホーマンスに躓くものだ、二度目は喜劇として。帝国で80年、ついで世界最強国の属国となって65年、人口1億2000万を擁し、世界でも指折りの工業国である国家をコントロールする難しさは想像を超えるものがあるとしても。
言葉を集めて つづく
「方言」
これは方言である、とか、方言ではない、とか散々書き散らしてきた。敗戦に至る記念の日(1941年12月8日、このクニの愚かな支配階級がアメリカ軍真珠湾基地に攻撃を仕掛けた記念の日、見方を変えれば、帝国から現在のこのクニの在り方に変化した画期の最初の記念の日)朝風呂に浸かって、鼻歌マジリに居ると、「世に言葉は無数にある、それをこれは方言これは違うと仕分けする基準は何だろうか」と思い始めた。私は手元の『ほんにのうや』『方言辞典』に載っているか否か、で決めている。それはそれで、イイとしても、普遍的方法ではなかろう。風呂につかり、あれこれ考え合わせ風呂から上がり調べてみたが、どうやら、正解は無さそうだ。よし、これで、もっと気ままに、言葉の仕分けができるぞ、と考えた。「いい加減な事を言うな」という輩には「いい加減でない基準は何だ」と言い返してやればいいのだ。
ところで、方言といえば、「地域における言葉の特徴である」のは、そうとしても、たとえば、特定の集団にも独特の言葉がある。これらを方言としてもいいのではないか。こうしてみれば、どうやら、永田町方言、霞ヶ関方言もありそうだ。
これは方言である、とか、方言ではない、とか散々書き散らしてきた。敗戦に至る記念の日(1941年12月8日、このクニの愚かな支配階級がアメリカ軍真珠湾基地に攻撃を仕掛けた記念の日、見方を変えれば、帝国から現在のこのクニの在り方に変化した画期の最初の記念の日)朝風呂に浸かって、鼻歌マジリに居ると、「世に言葉は無数にある、それをこれは方言これは違うと仕分けする基準は何だろうか」と思い始めた。私は手元の『ほんにのうや』『方言辞典』に載っているか否か、で決めている。それはそれで、イイとしても、普遍的方法ではなかろう。風呂につかり、あれこれ考え合わせ風呂から上がり調べてみたが、どうやら、正解は無さそうだ。よし、これで、もっと気ままに、言葉の仕分けができるぞ、と考えた。「いい加減な事を言うな」という輩には「いい加減でない基準は何だ」と言い返してやればいいのだ。
ところで、方言といえば、「地域における言葉の特徴である」のは、そうとしても、たとえば、特定の集団にも独特の言葉がある。これらを方言としてもいいのではないか。こうしてみれば、どうやら、永田町方言、霞ヶ関方言もありそうだ。
2009年12月7日月曜日
何を食らうか つづく
焼きソバ
レタスの間引いたのが、スーパーのカゴ一杯に出来た、どうして食らおうかと考えた。牛ならばの其のままを三口でたいらげるが、いかんせん、こちらは、資格を疑われつつも、ヒト人類だ。冷蔵庫を漁れば、イカの刺身の残りとやきそばの麺がある、これでいく。
中華なべに少しの油をたらし、麺をカリカリに炒めた、(どうも、焼きそば麺は、いったん水分をとばして、それに野菜の水分を入れた方がいいみたいである)上にイカをのせて、クルット反転させる、「ジュー」と音がして、しばらくはそのままにする。冷静になれば、料理は残酷な行為の繰り返しなのだ。10秒もすれば炙りイカになっている、さて、今度はレタス。中華なべから溢れるほど放り込んで、また反転、「ジャー」と水気がとんでいる、前後に揺すったりして、しんなりするまで待とう。その間に、お好み焼きソースを用意した、これを麺に絡ませて出来上がり。あんなに嵩高かったレタスは一握りにしおたれている。歯応えもいい。
後で思うに、これは小麦粉抜きのお好み焼きではなかったか。
レタスの間引いたのが、スーパーのカゴ一杯に出来た、どうして食らおうかと考えた。牛ならばの其のままを三口でたいらげるが、いかんせん、こちらは、資格を疑われつつも、ヒト人類だ。冷蔵庫を漁れば、イカの刺身の残りとやきそばの麺がある、これでいく。
中華なべに少しの油をたらし、麺をカリカリに炒めた、(どうも、焼きそば麺は、いったん水分をとばして、それに野菜の水分を入れた方がいいみたいである)上にイカをのせて、クルット反転させる、「ジュー」と音がして、しばらくはそのままにする。冷静になれば、料理は残酷な行為の繰り返しなのだ。10秒もすれば炙りイカになっている、さて、今度はレタス。中華なべから溢れるほど放り込んで、また反転、「ジャー」と水気がとんでいる、前後に揺すったりして、しんなりするまで待とう。その間に、お好み焼きソースを用意した、これを麺に絡ませて出来上がり。あんなに嵩高かったレタスは一握りにしおたれている。歯応えもいい。
後で思うに、これは小麦粉抜きのお好み焼きではなかったか。
ブログの孤独 つづく
09.12.7完璧な日記
午前5時起きだす。晴天であろうか、外は暗闇。耳を澄ませば、風音あり。枕を下に、なにを食らうか考える。イワシの干したのが軒下にある。昨日20センチ位の鰯をスーパーで見かけて買った。活きは良さそうだ。干し物にした。手で頭を取り、腹をヒトさし指でこそげ、親指を腹の尾の側から入れて、スーット頭のあった所まで滑らせる、こんどは頭の方から尾びれに向かい背びれのところまで深く親指の腹で背骨を探りながら尾まで行く。包丁はいらない。それで開きをつくる、塩を適当に溶かした水を平たい器に作り、それに、(洗おうと洗うまいと、勝手だ、)開いたイワシを漬ける。漬けるのは、30分でも、3時間でも、一晩でもいい。ただし、漬けた時間と、入れた塩の具合により、辛い甘いは決まる。それから、干す。風があって、いちどきに表の水気を持って行ってくれた方が旨いようだが、こればかりは、天気任せだ。
焼いてみれば、メザシ程の塩気であった。
料理は「勝手流」でやっている。思い返せば、子の小さい時の保育園で「食べ物の好き嫌いをどう直すか」の論議の席。「お願いしてまでも、食べてもらわないでもよろしい」と発言して冷笑と沈黙を作った時から、「勝手流」は始まっていたのか。私が、食いたい物を食いたいのだ。それ以外に人生の目的があれば教えて欲しい。
(以下略)
午前5時起きだす。晴天であろうか、外は暗闇。耳を澄ませば、風音あり。枕を下に、なにを食らうか考える。イワシの干したのが軒下にある。昨日20センチ位の鰯をスーパーで見かけて買った。活きは良さそうだ。干し物にした。手で頭を取り、腹をヒトさし指でこそげ、親指を腹の尾の側から入れて、スーット頭のあった所まで滑らせる、こんどは頭の方から尾びれに向かい背びれのところまで深く親指の腹で背骨を探りながら尾まで行く。包丁はいらない。それで開きをつくる、塩を適当に溶かした水を平たい器に作り、それに、(洗おうと洗うまいと、勝手だ、)開いたイワシを漬ける。漬けるのは、30分でも、3時間でも、一晩でもいい。ただし、漬けた時間と、入れた塩の具合により、辛い甘いは決まる。それから、干す。風があって、いちどきに表の水気を持って行ってくれた方が旨いようだが、こればかりは、天気任せだ。
焼いてみれば、メザシ程の塩気であった。
料理は「勝手流」でやっている。思い返せば、子の小さい時の保育園で「食べ物の好き嫌いをどう直すか」の論議の席。「お願いしてまでも、食べてもらわないでもよろしい」と発言して冷笑と沈黙を作った時から、「勝手流」は始まっていたのか。私が、食いたい物を食いたいのだ。それ以外に人生の目的があれば教えて欲しい。
(以下略)
2009年12月6日日曜日
ブログの孤独 つづく
09年12月5日の完璧な日記
午前4時過ぎ、起きだす。今日は何を食らうか、枕を下に考えた。大根で何か。卸して?干して?炊いて?よし「おでん」を作ろう。土曜日だし、家の者も終日いる。食べる時も定まらぬ事だし作っておけば、あとはストーブの上で温めておけばいい。「おでん」は大根の食感とスープを味わうための「メニュー」だ。
スープは鶏ガラ。生姜、ニンニクの切れ端を入れてコトコト炊く。ついでに昆布、イリボシも入れてみようか。その間に、皮を剥いた大根を輪切りにして面取りをする、コンニャクはホークの先で筋に傷を付けて、牛スジ、昨日掘ったジャガイモも入れよう、練り物は竹輪でいこうか。具の連中を下ゆでして置いて、出来上がったスープと合わせ、大根とジャガイモに火が通れば出来上がり。塩気は「おでんの素」でも放り込んでおけばいい。それよりも、大根に味を染ませるためには、いちど冷まして置いた方がいい。朝飯にはやきそばを作る事にした。炒め物は、材料を強い火でイジメに苛める、(以下、略)。
新聞の折り込みをながめていたら、つれあいが通りかかる「あんたの好きなソーセージが248円」と教えてやると、「チィーセー」と私のシミッタレを一言でカタズケル。そのくせ、次に通りかかった時には「どこで?」と聞いてくる。彼女は食い物に極端に弱いのだ。
午後は、畑に行く。レタスを間引いていると、「ザー」と西風が吹き始めた。音のする山の方を見れば無数の木の葉が真横に東に流れている。風の音は空気が物に当たって擦れる音であるが、この時期のこの音は独特である。飛び去る木の葉同士が擦れあう音も混じっているのだろう。紅葉もおしまいに近くなれば、ほんの少しの風でいちどきに、葉は落ちるものなのだ、その昔、タマネギ苗を植えていると、突然、滝のように木の葉が落ちてきて驚いた事を思い出した。
「光」は対象物に当たってはじめて、その姿を現す。今日の私の意識もまた幾つかの対象物に遭遇したようだ。
午前4時過ぎ、起きだす。今日は何を食らうか、枕を下に考えた。大根で何か。卸して?干して?炊いて?よし「おでん」を作ろう。土曜日だし、家の者も終日いる。食べる時も定まらぬ事だし作っておけば、あとはストーブの上で温めておけばいい。「おでん」は大根の食感とスープを味わうための「メニュー」だ。
スープは鶏ガラ。生姜、ニンニクの切れ端を入れてコトコト炊く。ついでに昆布、イリボシも入れてみようか。その間に、皮を剥いた大根を輪切りにして面取りをする、コンニャクはホークの先で筋に傷を付けて、牛スジ、昨日掘ったジャガイモも入れよう、練り物は竹輪でいこうか。具の連中を下ゆでして置いて、出来上がったスープと合わせ、大根とジャガイモに火が通れば出来上がり。塩気は「おでんの素」でも放り込んでおけばいい。それよりも、大根に味を染ませるためには、いちど冷まして置いた方がいい。朝飯にはやきそばを作る事にした。炒め物は、材料を強い火でイジメに苛める、(以下、略)。
新聞の折り込みをながめていたら、つれあいが通りかかる「あんたの好きなソーセージが248円」と教えてやると、「チィーセー」と私のシミッタレを一言でカタズケル。そのくせ、次に通りかかった時には「どこで?」と聞いてくる。彼女は食い物に極端に弱いのだ。
午後は、畑に行く。レタスを間引いていると、「ザー」と西風が吹き始めた。音のする山の方を見れば無数の木の葉が真横に東に流れている。風の音は空気が物に当たって擦れる音であるが、この時期のこの音は独特である。飛び去る木の葉同士が擦れあう音も混じっているのだろう。紅葉もおしまいに近くなれば、ほんの少しの風でいちどきに、葉は落ちるものなのだ、その昔、タマネギ苗を植えていると、突然、滝のように木の葉が落ちてきて驚いた事を思い出した。
「光」は対象物に当たってはじめて、その姿を現す。今日の私の意識もまた幾つかの対象物に遭遇したようだ。
2009年12月5日土曜日
言葉を集めて つづく
・ 「トマヲフク」
メモには「肥が良く効いて、茂りすぎているようす」とある。方言である。しかし、方言辞典には無い。「フク」は「噴く」あるいは「吹く」だろう。「トマ」は何か「苫小牧」の「苫」だろう、「すげ、かや」のことらしい。「苫を噴く」。とここまで書いて、自信が無い。これは「ラエ」の先生が使っていた言葉。意は明らかなのだが。
メモには「肥が良く効いて、茂りすぎているようす」とある。方言である。しかし、方言辞典には無い。「フク」は「噴く」あるいは「吹く」だろう。「トマ」は何か「苫小牧」の「苫」だろう、「すげ、かや」のことらしい。「苫を噴く」。とここまで書いて、自信が無い。これは「ラエ」の先生が使っていた言葉。意は明らかなのだが。
2009年12月4日金曜日
言葉を集めて つづく
・ 「ブッツケテ」
メモには「全面的に」とあり、用例として「ぶっつけて草が生えとる」とある。方言でも、古いことばでもない。ただし、「衝突させる」という意ではなくて、「容赦無しに発散する」の意(草が隙間無しに容赦なく生えている)。「感情を~」、「気持ちを~」ぶつけると同じ用法。ところで、「ぶっつけ本番」の意は、どちらなのであろうか。
メモには「全面的に」とあり、用例として「ぶっつけて草が生えとる」とある。方言でも、古いことばでもない。ただし、「衝突させる」という意ではなくて、「容赦無しに発散する」の意(草が隙間無しに容赦なく生えている)。「感情を~」、「気持ちを~」ぶつけると同じ用法。ところで、「ぶっつけ本番」の意は、どちらなのであろうか。
ブログの孤独 つづく
・ 「オリオン座を」
犬と共に夜の散歩に出ると、建て込んだ昔ながらの家並みの道で「オリオン座を」見上げた。屋根越しの「オリオン」は全体をいちどきに見渡せない程デカイ。東方に星座を追って歩けば土手沿いから山越しに見える「オリオン」はいつもの大きさに戻っている。こんなのを「目の錯覚」と言ったりするのだろう。そこに実際にある物でさえ、こうだから社会現象の見え方は「認識の錯覚」に満ちているだろう、と考えた。
(つづけて考えたことを以下に記す。)
ところで『差別』もその「錯覚」のひとつだろう。最近の新聞記事から、ふたつ例を挙げてみよう。
ひとつは、「同和問題」。「結婚約束破棄」は「人権侵害」であると公務員が処分されたと記事にあるのは、近しい者の教えるところによれば身分差別に起因したことらしい。新聞に載るだけまだましとも言えるものの「人権侵害」としか書けないのは、この問題の深刻さを物語っているだろう。
もうひとつは「思想差別」。マンションに共産党のビラを配ったということで、最高裁で有罪(住居侵入罪)となった。これが仮に他の政党であったらこういう結果になったであろうか。通報、逮捕、起訴、そして控訴、といくつものハードルを乗り越えて最高裁に至る経緯をみれば、単なる法の解釈と運用の問題ではない「共産党だから差別されて当たり前」という、政官業中枢の成文化されていない意志をそこにみる。
いずれのケースも、差別される者を萎縮させることになる側面があることはいなめない。結婚(婚約)をためらわさせ、ビラ配りをためらわさせるだろう。
しかし、たとえそれが為政者にとって今のところ有益なことであるとしても、差別を放置している為政者は、やがてこの差別のメカニズムに自らが苦しめられる事になるであろう。これは歴史の教えるところである。
ここまで、考えたところで、家に帰りついた。「今日はどうしたものか、おとなしい」と庭に座った犬どもが思案の私を見上げている。
犬と共に夜の散歩に出ると、建て込んだ昔ながらの家並みの道で「オリオン座を」見上げた。屋根越しの「オリオン」は全体をいちどきに見渡せない程デカイ。東方に星座を追って歩けば土手沿いから山越しに見える「オリオン」はいつもの大きさに戻っている。こんなのを「目の錯覚」と言ったりするのだろう。そこに実際にある物でさえ、こうだから社会現象の見え方は「認識の錯覚」に満ちているだろう、と考えた。
(つづけて考えたことを以下に記す。)
ところで『差別』もその「錯覚」のひとつだろう。最近の新聞記事から、ふたつ例を挙げてみよう。
ひとつは、「同和問題」。「結婚約束破棄」は「人権侵害」であると公務員が処分されたと記事にあるのは、近しい者の教えるところによれば身分差別に起因したことらしい。新聞に載るだけまだましとも言えるものの「人権侵害」としか書けないのは、この問題の深刻さを物語っているだろう。
もうひとつは「思想差別」。マンションに共産党のビラを配ったということで、最高裁で有罪(住居侵入罪)となった。これが仮に他の政党であったらこういう結果になったであろうか。通報、逮捕、起訴、そして控訴、といくつものハードルを乗り越えて最高裁に至る経緯をみれば、単なる法の解釈と運用の問題ではない「共産党だから差別されて当たり前」という、政官業中枢の成文化されていない意志をそこにみる。
いずれのケースも、差別される者を萎縮させることになる側面があることはいなめない。結婚(婚約)をためらわさせ、ビラ配りをためらわさせるだろう。
しかし、たとえそれが為政者にとって今のところ有益なことであるとしても、差別を放置している為政者は、やがてこの差別のメカニズムに自らが苦しめられる事になるであろう。これは歴史の教えるところである。
ここまで、考えたところで、家に帰りついた。「今日はどうしたものか、おとなしい」と庭に座った犬どもが思案の私を見上げている。
2009年12月2日水曜日
言葉を集めて つづき
・ 「アメツユモラサズ」つづき
11月30日に「あめつゆもらさず」を書いて後、どうもスッキリしない一日を過ごした。「天駆ける~」、と言ったりするじゃないか、「あめ」は「天」を含んでいるような気がしてきた。「あめつゆ」をほんの少しずらして「あめつち」とすれば「天地」である。天地もらす事なしに。こうではなかろうか。「いっさいがっさい」「細大漏らさず」の意は変わらぬにしても、この方が落ち着きがいいようだ。「天地を網羅して」とまでは行き過ぎとしても。
それにしても、我等が先輩の造語力には敬服するほかない、雨露と天地を掛けてなを意は同じである。この言葉は「ラエ」の先生から聞いた。
余計を付け加えれば、マスコミで「天下り」を「適材適所」などと擁護する論調もみられるが、ほとんどがそうでないから問題なのだ。百のうちひとつの例外を挙げて、九十九もそうだとするのを詭弁と言うのではなかったか。
11月30日に「あめつゆもらさず」を書いて後、どうもスッキリしない一日を過ごした。「天駆ける~」、と言ったりするじゃないか、「あめ」は「天」を含んでいるような気がしてきた。「あめつゆ」をほんの少しずらして「あめつち」とすれば「天地」である。天地もらす事なしに。こうではなかろうか。「いっさいがっさい」「細大漏らさず」の意は変わらぬにしても、この方が落ち着きがいいようだ。「天地を網羅して」とまでは行き過ぎとしても。
それにしても、我等が先輩の造語力には敬服するほかない、雨露と天地を掛けてなを意は同じである。この言葉は「ラエ」の先生から聞いた。
余計を付け加えれば、マスコミで「天下り」を「適材適所」などと擁護する論調もみられるが、ほとんどがそうでないから問題なのだ。百のうちひとつの例外を挙げて、九十九もそうだとするのを詭弁と言うのではなかったか。
2009年11月30日月曜日
言葉を集めて つづく
・ 「アメツユモラサズ」
雨露漏らさず。メモには「隙のないさま?隠し事のないさま?」「正確にある様子。キチンとしているさま。」とある。当時、このことばを聞いて、混乱しているらしい、「さま」が伺える。今になって思えば、「細大もらさず」とか「一切合財(いっさいがっさい)」のことである。と、どうして書かなかったのかと、その方に興味がある。「ことばの衝撃力」が、どうやら私に脳震盪を起させたらしいのだ。「雨」も「露」も漏らす事無しに、野良ですごすことは不可能であるから、この言葉の衝撃力は生まれるのだと愚考した。
言葉を作る力は、どこから生じてくるか、それは、「多様」な生活様式からであろう。「画一」は言葉を萎えさせる。あなたはどう思われますか。
雨露漏らさず。メモには「隙のないさま?隠し事のないさま?」「正確にある様子。キチンとしているさま。」とある。当時、このことばを聞いて、混乱しているらしい、「さま」が伺える。今になって思えば、「細大もらさず」とか「一切合財(いっさいがっさい)」のことである。と、どうして書かなかったのかと、その方に興味がある。「ことばの衝撃力」が、どうやら私に脳震盪を起させたらしいのだ。「雨」も「露」も漏らす事無しに、野良ですごすことは不可能であるから、この言葉の衝撃力は生まれるのだと愚考した。
言葉を作る力は、どこから生じてくるか、それは、「多様」な生活様式からであろう。「画一」は言葉を萎えさせる。あなたはどう思われますか。
2009年11月29日日曜日
言葉を集めて つづく
・ 「ツチゴエ」
「土肥」。方言ではない。農業用語にもない。強いて言うなら、百姓言葉(農業から業を外した農の言葉)である。メモには「堆肥のこと、液肥との区別か」とある。
ここまで、書いて思い直して「土壌肥料(ドジョウヒリョウ)」を検索したら「学会」まであるのには驚いた。しかし、「つちごえ」は「つちごえ」なのだ、いまさら、「どじょうひりょう」みたいなニョロニョロ、ネチャネチャした言葉を使いたくはない。誰にも理解されないにしても。
「土肥」。方言ではない。農業用語にもない。強いて言うなら、百姓言葉(農業から業を外した農の言葉)である。メモには「堆肥のこと、液肥との区別か」とある。
ここまで、書いて思い直して「土壌肥料(ドジョウヒリョウ)」を検索したら「学会」まであるのには驚いた。しかし、「つちごえ」は「つちごえ」なのだ、いまさら、「どじょうひりょう」みたいなニョロニョロ、ネチャネチャした言葉を使いたくはない。誰にも理解されないにしても。
2009年11月28日土曜日
何を食らうか つづく
「メニュー」
日々、家庭(あえて家とは書かない)には、放っておけば直ちに飢える犬、猫、ヒトが属している。それらが何を食らうかは、日々の喫緊の課題なのである。食い物の種類を「メニュー」と西洋言葉で言うことにして、「メニュー」をどう決めているか、どう発想しているか。に私は興味がある。いや、ここ数十年、(ハタチのころ自らの食い物の調理を始めてからは35年か、その間、ひとりからふたり、さんにんからよにん、ごにんからろくにん、メンバーは入れ替わり、数の増減もある)「メニュー」のことを考えない日は一日たりとも無かったはずだ。こんな身近の「テーマ」を思考の表面に取り出さなかった、己の不明を悔やんでいる。
さて、あなたは、この根源的で深刻な「テーマ」をどう扱っているか、扱ってきたか。この問いに答えることは楽しい、食い物のイメージが頭の中を錯綜するから、そしてこたえは驚くほど多面的なのである。
日々、家庭(あえて家とは書かない)には、放っておけば直ちに飢える犬、猫、ヒトが属している。それらが何を食らうかは、日々の喫緊の課題なのである。食い物の種類を「メニュー」と西洋言葉で言うことにして、「メニュー」をどう決めているか、どう発想しているか。に私は興味がある。いや、ここ数十年、(ハタチのころ自らの食い物の調理を始めてからは35年か、その間、ひとりからふたり、さんにんからよにん、ごにんからろくにん、メンバーは入れ替わり、数の増減もある)「メニュー」のことを考えない日は一日たりとも無かったはずだ。こんな身近の「テーマ」を思考の表面に取り出さなかった、己の不明を悔やんでいる。
さて、あなたは、この根源的で深刻な「テーマ」をどう扱っているか、扱ってきたか。この問いに答えることは楽しい、食い物のイメージが頭の中を錯綜するから、そしてこたえは驚くほど多面的なのである。
言葉を集めて つづく
・「オウドウ」
メモには「無謀」とだけある。『方言事典』には「大胆・横着」とあり、『ほんにのうや』には「生意気・大胆不敵」とある。だいたいそういう事だろう。方言である、薄い辞書にも、分厚い辞典にも無い。
何が「オウドウ」にあたるかは、自ずと社会における立場によって違うだろうと考えた。繊細可憐なこの私でさえ「オウドウ」者と思うヒトが居るだろうし、また、私が「オウドウ」なやつと思う無礼者をそうは思わぬというヒトもいるのだ。こんな簡単なことが解かるまでには、ヒトはいささかの苦節を経ねばならない。
メモには「無謀」とだけある。『方言事典』には「大胆・横着」とあり、『ほんにのうや』には「生意気・大胆不敵」とある。だいたいそういう事だろう。方言である、薄い辞書にも、分厚い辞典にも無い。
何が「オウドウ」にあたるかは、自ずと社会における立場によって違うだろうと考えた。繊細可憐なこの私でさえ「オウドウ」者と思うヒトが居るだろうし、また、私が「オウドウ」なやつと思う無礼者をそうは思わぬというヒトもいるのだ。こんな簡単なことが解かるまでには、ヒトはいささかの苦節を経ねばならない。
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