2012年10月22日月曜日

取り留めなしに

幹線道路の脇に仮住まいしている。信号待ちの車からはイロンナ物が投げ捨てられる。弁当ガラ、マクドナルドの空き袋、缶、ペットボトル。どれもツイ今し方までヒトが使用していた物ばかりだから、ヒト人類同士の親愛もあつて拾ってゴミとして出している(有料袋に入れて)。そんなに無いけれど「ガシャーン」という音とともに投げ捨てられた青色の瓶の欠片はそのママにしている。
ゴミのゆくえに想像力を及ばさない神経は、「原発の存続を許す神経」とそんなに違わないと思ったことだ。

それはそれとして、こんなゴミも棄てられていた。「企業名」ではなしに「此の国で作られた」が故の「品質」保証だということなのであろう。こんなタグまで付けなければならぬ程、外国製とミテクレの差が無くなっているのだろうと考えた。
実際、ホームセンターで買う外国製の物はひどいものが多かったのも事実だ。使い物ならないものを買ったこともあった。
特にネジ(ボルト・ナット、ビス)の精度の甘さは絶望~的だったな。ところがそんな物は淘汰?されたものか近頃はお目にかからないようになった。
「グローバル」という言葉が一時、流行った。この言葉を流行らせた意図は別として、本当の意味で国々の作る製品の差異は無くなって来つつあるのではないか。我が仮住まいにも外国製品は溢れている。
「犬は吠えても歴史は進む」と言う。その一例がこれだろう。

さて「物」から離れて「事」に目を向ければ、「このク二の品質」は「安心」の領域からはほど遠いのではないだろうか。こればかりは国境を越えて輸入するわけにはゆかない。

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