2010年9月29日水曜日

世襲

世襲
北朝鮮国(朝鮮民主主義人民共和国)の後継者が息子になるそうだ、世襲だって、まるで王様の治める国みたい、変。と眉を顰(ひそ)めてマスコミを先頭にそんな具合。

確かに、「民主主義共和国」を名乗る国の最高指導者が同一の血族で三代にわたってつづくことは、なかなか考えにくい事ではある。もっとも、「世襲」とは当の国はひと言も言ってはないから、決め付けるわけにはゆかぬ。

ところで、彼の国はそれとして、この国を見渡せば、世襲は意外に多い。企業・芸能、世襲ではないほうがめずらしい。農家(農業)などは世襲できずに絶滅しかけている。政界においても、彼の国に習って?世襲は珍しくない。検索してみれば、国会議員の3割は世襲だそうだ。いや、ここ何代かの総理を思い浮かべればもっと多いと思っていたが。
「引き続いてこれが面倒を見る、よろしく頼む」「こちらこそ、よろしくお願いしますよ」こんな会話、聞き耳をたてずとも聞こえてきそうである。

こうしてみれば、「眉を顰める」ためには、世襲であることがどうして好ましくないのかについて、納得できる説明がいるだろう。なぜなら世襲は世に溢れていて、「だから」ダメだけでは、説得しない。「なぜ」ダメかの説明が必要だと考える。「ヒトのふりみて、わがふり直せ」のことわざもある。

それにしても、世襲は、どうして男子が圧倒的に多いのだろうか。(世間の風雨に)打たれ強いのはむしろ女子の方と私には思えるのだが。と書いて。どうやら、このあたりに「世襲」なるものの思いがけない底の浅さが潜んでいるような気がしてきた。

「売家と唐様で書く三代目」すぐれて世襲の末路をうがつこのことわざ。男子諸君、このことわざを戒めとして、家業に励みましょう。気の進まぬむきの方もとりあえずはそうしてみるとして、このことわざはもうひとつの事も教えている。「教養というものは、切羽詰った時にもすたれのないものである」とも。男子諸君その時のための勉強(習い事・遊び)にも励みましょう。

2010年9月27日月曜日

ブログの害

何事もはまってしまっているヒトは、傍から見れば奇妙なものだ。釣りにはまれば、狭い家で5m以上ある竿を振りまわすし。映画「シャルウイダンス」ではトイレで事もあろうに男同士のダンスをしていた。ゴルフは傘をふりまわす。酒にはまれば、アンコールフェアがアルコールフェアと読めるし。ブログにはまればネタ探し。いずれにせよ業務に差し障る。

草山にした畑をながめたつれあいは、「ばあさん(実家の)が見たら、これが畑かな?と腰をぬかすわ」と言いながら、草に火をつけて燃やしている。縄文の血が騒ぐのか熱心に火をつついたりしている。「ここで出来た野菜をあんたもさんざん食ったはずだ、文句ばかり言うな」と私は思っているが言いはしない。ひと言「何をぬかすか」。ん?「腰をぬかすか」。

これブログにいただき。

2010年9月26日日曜日

戦友

夏の戦友
「おお!あんたも、」2010年の夏戦線を体験したのか。それだけ言って後は涙。手をとり、肩を組み、歌を合唱し、酒を酌み交わす。そんな戦友会が発足してもいい。

この夏、気まま百姓は、エアコンの塹壕に潜り込んで、灼熱の弾をよけていたけれど、そうは出来ない屋外労働者には、生死にかかわることだった。死者も出た。

去り行く夏の背に「今年はこのくらいにしといたらー」と罵声を浴びせても、来年来たらどうしよう。

クニは戦争の準備については、かなり熱心にやっているみたいだけど、来年からの夏戦線への備えもやっておいて貰いたい。民草は枯れそうになりました。

さて、塹壕から出てみれば、畑も田も草の山。無残な収穫しかない。まあ、生還出来ただけで「良し」としよう。

2010年9月24日金曜日

道路改良の謎

このあいだ、午後のことだ県道を三々五々帰宅する子供らに遭った。県道を通学するのは危ないじゃないか。通学路があるはず。と県道に並行している通学路に行ってみれば工事をしている。



もともと、巾1mもないが、舗装した通学路がここにはあった。斯く書く私も通った道だ。その拡張工事をしている。どうして、子供たちを、危ない県道まで追い出して工事をしなければならないのだろうか。下に県道の絵。これが臨時?通学路になっていた。



この工事の事を、担当の市・建設課に聞いてみた。すると「通学路の安全のために」と地元土木員(今、地元の土木員は市議会議員)からの要請でやっているという。通学路に「車を通すようにすれば、かえって子供が危なくなるのでは」と聞けば、「道路交通法を車が守れば安全のはず」という。そうならばどんな道でも通学路になるし、手間隙かけて「通学路」を定めなくてもいいはずだ、と考えた。が。役人と話をするのは生まれて初めてではないので、それ以上の話はしなかった。

          これはすでに拡張済みの道の絵。看板の文字が空しい。
思うに拡張する道沿いの田畑の価値がこれで上がるのだろう、私にはそれ以外の理由は考え付かない。子供を山車(ダシ)にし、尚もその上、子供を危険に晒(さら)してまで追求しなければならぬ利益とは何か、それを実行する役人とは何か、鬼畜は意外に身近にいるのではないか。

さて、今話題の厚生省のこと。近くの役人がこんなだから、遠くの役人「ムラキ」もヤッタに違いないとあなたは思わなかったか。私は思った。思ったことをおかしいとは今も思わない。タマサカ稀なことに、彼女が該当の事例に係わっていなかっただけなのだ。新聞(毎日)によれば「議員に言われたら何でもするんでしょ」と検事に決め付けられたと彼女は憤慨してみせる。「議員に言われたらなんでもする」役人がこのクニにひとりもいなくなってから憤慨してほしい。
こんなムズカシイ注文を彼女につける理由は、起訴されても家族の暖かい支援に支えられて専業主婦をこなし、なを職場に復帰すればこれまた笑顔と拍手で迎えられ元の鞘に収まる、そんな特別にめぐまれている職業婦人は稀であろうからだ。彼女にはこのくらいのハードルは越えて欲しい。
それにしても、今回もマスコミはトコトン情緒に流れていたと思いませんか。税金を搾取された事実はアッチムイテ・ホイで、その上、お涙頂戴のストーリーの垂れ流し。このドラマ、制作費は何億円なんだろう。

2010年9月23日木曜日

中秋の

月を狙って、ズームレンズを200ミリにして、手持ちでバシャバシャやった。なかからやっと丸く写った月を取り出し載せる。


野良通信の良き?読者O氏より送られてきたこの日の月を以下に 

  
我々の肉眼で見る月は一枚目のようなものだろう。もう少しだけマシか?
しかし、頭の中には下のような月が確かに存在する。そうでなければ、ウサギは月で餅つきができない。こうしてみればヒトの認識もまんざら捨てたものではないのである。
それにしても、どんな方法でこれを撮ったのか、教えてO様。

追伸、下の絵は625ミリの望遠鏡で・・・とO氏よりメールあり。
と、ここまで書いてしばらく経った。

夜になり、外を見れば月。よせばいいのに、イッチョカミのくせがでた。今度はズーム300ミリのレンズで狙った。三脚も動員した。その上、画像編集ソフトにも協力願った。で、以下の絵
これは木星も入れて一枚。右下の光の点がそれ。
夜空に浮かぶ星々、このふたつだけが太陽の光を浴びて輝いているのか。
それにしても
こうしてみれば、解像度(鮮明さ)がぜんぜん違うことに気づく。
望遠鏡はエライ。

イラガとマムシ

イラガとマムシ


身近では、「イラ」といい「ハミ」という。ここでは、イラガとマムシでゆこう。

夜の散歩は若い娘でなくても危険がいっぱいだ。数日前のこと、日課の犬を連れての散歩、暗がりで顔にかかろうとする枝を手折った。これにイラガが居たらしい、直後から指の背がチクチクする、たいした事にはなるまいと放っておいたら、みるみる手の甲が腫れて、グウが握れない(パーやチョキはできる、でもこの話とは関係ない)。翌朝の男子の厨房では、手首まで腫れて中華鍋を振ることもままならない。つれあいが「どうなった」と問うので手を見せてやると「赤ちゃんの手みたい」と囃す。気分は別として、これは正確な描写、的確な比喩だろう。見た目ほどには痛くも痒くもない。最後は肘近くまで腫れた。癒えるまで三日近くかかったか。今でも最初に刺された箇所には腫れが残っている。

犬は飼い主に似るというが、家の犬どもは落ちている物にいつもご執心だ。昨夜の事、そんな犬があとずさりする、「きゃぁーこれなに」とつれあいはおよび腰で覗いている。ライトで照らせば、マムシが寝そべっていた。この時のために持ち歩いている棒(鍬の柄を切り縮めた物)で始末した。空中を飛んだり、足を這い上がったりするものではないものの(毒を持つものは概して鷹揚である)および腰で慎重に仕留めた。仕留めてふり返れば、犬どもがいない。みれば遥か遠くを散歩している。「何んでも、かんでも口をもっていったらいけんよ」と叱られている声が聞こえている。

思えば、たまたま見かけたマムシを駆除したところで、野良に棲息するマムシの総数は変わることはあるまい。蚊を手でパチンとやる事と何処が違うのだろうか。

2010年9月20日月曜日

また池のこと

また水を落としに

6月半ばに田植えをした稲は10月半ばに稲刈りになりそうだ。中国山地のそれよりちょうど一ヶ月遅い。どうして遅いか?その理由はひとえに「水の供給」事情にある。その複雑なココロは以下。
1.梅雨と台風の時、雨水を溜池に補充しやすい。できれば、梅雨と田植えが重なれば、池水を使うことなくこの時期を乗り越えられる。
2.秋の水不足は米粒の出来る時期なので避けたい。
3.梅雨前に落とした水は梅雨時に補充できる。以後、ひたすら台風待ちで秋まで池水を持たせたい。今年のように、台風が来そうに無い年はちょっとシンドイ。

今年に象徴されたように、溜池の水を頼りの稲作りは、いつから池水を落とし始めるかによって田植えの時期が決まる。いやその前に籾まきを何時にするかが決まるのである。

私たちの地域では、慣例として6月の第2日曜日に田植えが出来るように、したがって、6月第1日曜日頃から水を落とす。稲の生育の出発点、籾まきは、逆算されて5月半ばの特定の日となる。

話は少しややこうしくなるがお許し願って、少し抽象化すれば、こうした、共同による水供給システムは、私が「連れション体質」と密かに名づけている。同一の行動、同一の価値観を生み出すだろう。そして、それは構成員への共通行動、共通価値の「強制」、と表裏なのである。

ほとんど例外なく、そこでは、「全員一致」が何より求められる価値であり、一方「全員一致で何を決めたか」についてはほとんど考慮されることはない。

こうして、我々の棲息する社会の「ある特有な性格」は歴史的農耕社会のこういった仕組みからもたらされたものであろうと私は考えている。パンツの中には尾てい骨がしまわれているのだ。

このことがもたらす様々の結果の良し悪しはまた別に判断するとして、まず、意識の上に「こんな様にも考えられる」と載せておくのも必要なことだろう。もしこれから先、我々が自前の民主主義を模索しようとするならば、その時のひとつの枷(カセ)として、ひとつの課題として。

さて、まだ水を落としている。これが最後になるのかどうかは、お天気次第である。水面から池堤を見上げて一枚。




さらに見上げれば秋の空。

2010年9月19日日曜日

すずめ

スズメ

夏の朝の涼しいうちに、犬どもの残飯を食いに来ていた20羽ほどの雀をこのごろ見ない。残飯のついたくちばしを樋(トイ)の縁でこすって拭うしぐさを感心して見ていたりしたのに。

夜、犬の散歩の時、つれあいにそのことを教えてやった。「見んけど、どうしたんじゃろう」と。こんなことをふたりで思案したり、推理したりするのも親睦にはいいじゃないか。夏痩せしていた家の猫どもが、近ごろふくよかになって来たのも怪しい。

つれあいは、オーなさけな、そんなことも解らないの、だから半端百姓、みたいな調子で「新米を食べに行ってるに決まってるじゃない」という。なるほど、今の稲の穂についている籾の中には、つぶになる前の乳(牛乳のようなそれ)が入っていて、くちばしでしごけば簡単に食える。いや飲める。考えたくないが消化もいいだろう。

ややあって後日、案山子の絵をとった。お役目ごくろうさんです。

雀よ来りて我が落穂を拾え

2010年9月15日水曜日

たかがひとつの

民主党の代表選挙報道にマスコミは一日を費やした。たかがひとつの政党のことで、これほどの労力を使う理由はひとつだけだろう。民主党の党首が、これからあれこれの過程をたどってこのクニの最高責任者になるというこの事実のせいだろう。
そうだとすれば、マスコミはまず最初に、この党内選挙制度の妥当性について検証すべきだった。
極端な話で恐縮だが、この党が党首を「籤(クジ)引き」で決めるとした場合。マスコミは占い師をコメンテーターとして動員し報道するのか?いや「ジャンケンで」と言われれば、どうするのか。
マスコミ報道の定見の無さに呆れている。
いずれにせよ、「民主主義」なるものが、ヒト人類の今のところの最良の政治形態であるとしても、我々は、その「とばぐち」にもたどりついていない事が露呈した日であった。

池のこと またまた

溜池のことをもう少しつづけて

池の排水システムを説明してみよう。当たり前のことだが溜池は水を(雨水を)溜めておく装置だ。溜めておいて必要な時にはその水を取り出す。どんな仕方で?

ここでは、風呂釜を想定してみよう、あなたが「風呂の水を抜いておいて」と頼まれたらどうするか、洗面器で汲み出すことはあるまい、底に仕掛けてある栓を引き抜くだろう、栓には鎖が付いているから、手を濡らすことなく出来るだろう。これが無くて毎回洗面器で汲みだす事となれば「なんでわしがせにゃあいけんのなら」とあなたはおかんむりだろう。

池も同じ、底に穴が開いていて栓を抜けばきれいに全部排水する。

さて、池は風呂と違っていちどきに全部抜けては困る。そこでヒトがコントロールしながら必要な水を取り出すにはどうするか、池底の穴に仕掛けをしておく。

この仕掛け、私の知る限りでは、ふたつの方法がある。

ひとつは、「バルブ」。丸い穴とスライドする蓋(ふた)で出来ている。動作のイメージは少量の排水時には三日月の形の穴から、水量を増やすにつれて、半月、満月となる。このやり方では、必要なだけ水を抜けば、バルブを閉め新月の状態にする必要がある。私の知る「バルブ」は金属製である。

もうひとつは「ハチノコ」。筒状のものの一方を、池底の穴に接続し、一方は水面に出しておく。この状態では、つまり、大気は池底まで貫いているということだ。さて、水を抜くにはどうするか。筒の先を水面下に沈めればいい。実際には筒状のものに一定間隔で穴を開けておき、それに栓をしている。水を抜くには水面に近い穴の栓を抜くのである。池の水は、その穴のところまで排水されそこで自動的に止まる。付け足せば、「ハチノコ」という名前の由来は、今のところ私にはわからない。

このふたつの仕掛け、それぞれ一長一短がある。それを述べれば、使い勝手はどうか、耐久性はどうか、ということになろうが、このくらいでおしまいとする。
溜池が選れて人工のシステムであることを、お解かりいただけたかと思う。小なりといえど、琵琶湖とは違うのである。

2010年9月14日火曜日

おこりビト

パソコン箱の調子がいまひとつだ。詰め込んでいるせいなのかと思い、古いものを捨てることにした。捨てる前に一つ載せて見よう。ちょうど1年前の事だったらしい。

『おこりビト
未見であるが。映画「おくりびと」は評判がいいらしい。ついでに、「おこりビト」について聞いてもらいたい。
年なのか、待たされるのが我慢ならない。このあいだ、つれあいにさんざん待たされた。待たせたあげくカエルの面をしている。だから、人の道なるものを教えることとした。おもむろに「人生とは」と言ってやった。「死ぬまでの時間を、退屈に任せているようなものだ。自分のための退屈はしょうがない、けれども。人に待たされる退屈は我慢ならない。」と。加えて、こうも言ってとどめを刺した。「だから、タクシー運転手にはなれない。」

車の中で待たされていたのだ。助手席で前を向いたまま、しばらく死んだふりをしていたつれあいは、逆襲効果に充分な沈黙の後、ハンドルを持つ私に諭す口調で言う。「なれないのは運転手だけじゃ、ないんじゃない。」
言われてみれば、それもそうだ。こう金米糖のように、全身に角を生やしていたのでは、どんな仕事も続かない。挽回すべく、「あんたは、待つことが無いからいい。」と言ってやると。「私が待っているのはあんたがまともになること。」と言う。
映画「おくりびと」でも見に行くか。』

後日、「おくりびと」を拝見した。父と子の話、これは永遠のテーマだろう、それにしても、妻役の広末?嬢の健気で可愛いかったこと。

2010年9月12日日曜日

池のことをもう少し


池のことをもう少し

今日も今日とて、早朝から池水を抜きに上がった。対岸の街にはまだ灯りが残る。
この道を上がれば池堤。

ずいぶん抜いた、記憶によれば、こんなに抜いたのは、私の池守経験においては2度目か3度目。


ちなみに下に8月10日、一ヶ月前の絵

満水のときの排水口(アラテ)に立って一枚。

今度は下からアラテを見上げて一枚、いつもの水位なら私は水の下である。

見上げれば高圧送電塔の上部に朝日が当たりつつある。



山からの帰り、田を一枚。これは6月11日に載せた田のその後

以下、ちなみに6月11日の絵


米になるには今しばらく、自然の恵みの後押しと農民の労働を必要とする。

池の構造についてはわざと絵に入れないできた。これはセキリティーの心配があったからだ。そのくらい人為による影響がこの仕掛けにはある。これについては長くなりそうだ、またの機会に。

2010年9月11日土曜日

新聞を読んで

何処にいるの


百歳以上で、戸籍にありながら、不明の者が23万人いるという。行政の怠慢を憂う声も多い。それはそれとして私は、我々の棲息している社会システムのレベルはこんなものというのが感想だ。戸籍なんていいかげんだ。となれば、やれバツイチだ、やれ相続だ、やれ、身分差別だ、など余計なことで悩むこともあるまい。

それにしても、23万人といえば、行政単位の「市」とすれば小さい方ではない、少なからぬ「生きている」死者とともに、この世に存在することができる。考えてみれば、なかなかおつなクニではないか。毎日が「お盆」。
それはそうとして、この生死の境目の曖昧さは、「神」の治める国であるからなのだろうか。

2010年9月8日水曜日

新聞の運命

新聞の運命


新聞を読む習慣がないヒトが増えていると思う。なによりわが子がそうだ。聞いてみれば一切、新聞を購読していない。そのくせ、目の前にあれば読んでいるのを見るのであるけれど。

さて、今日の新聞は今日の世相をこう報じる、「教育への公的支出-OECD内-最下位」「農業人口22%減-平均年齢は65.8歳」「エコカー補助金終了」私なりに言い換えれば、以下。
「次の世代を育てる事をさぼる」、「食い物を作るのは年寄りにまかせる」、「車が安ければ買いに走る。」
これがある人物の肖像ならばこのヒトの未来は暗いだろうと思った。
この感想が当を得ているか否かは別にして。いづれにせよ、新聞を読まなければ、こんなことも思ったりはしないだろう。

2010年9月7日火曜日

病院にて

病院にて


見渡せば、平均寿命よりは若いものの、それに限りなく近い人々が溢れている。まともに難なく歩いているのは病院の職員くらいである。多勢に混じって、受付の前に座って待たされている。見れば、5メートル先を歩いて来ている彼は、受付にたどりつくまでにはあと2分はかかりそうである。

私を含めて、ここには来たくて来ているヒトは少ないだろう。と考えた。あげくに待たされている、いつまで待たされるのかわからない。そんなふうに待たされている。

忘れられているの?と不安にもなる。だが大丈夫、彼等は待たせる専門家だから、忘れていることはまずない。(忘れるようでは専門家にはなれない)。

鉄道などでは、待たされたあげくに暴力を振るう輩が横行しているらしいが、ここでそれが無いのは、やはり病気のなせるわざなのだろうか。とここまで考えて。受付を見れば老老カップルがならんで、カウンター越しに職員と話をしている。傍らには車椅子。さてどちらが座るのかと見ていると、老女子が座り、老男子が押して去った。ちょっとした気の迷いで一緒になったとはいえ、なれの果てがこれなのも悪くない。と考えた。

人生の縮図が展開されている場所といえば、雑然とした病院の待合廊下は、駅のプラットホームに似ているのかも知れない。と、ここまで考えて。どうやら私は待つことの楽しみを見つけたようだと気づいた。

2010年9月5日日曜日

池のこと また

10.9.4日午前5時、


見上げれば月が。


池水を抜きにあがった。

池水はこのくらい。
ちなみに、下に8月10日の絵

抜いた回数だけ?砂地に痕が残っているのを発見する。今までさんざん池水を抜いてきたはずなのだが、これに気づいたのは初めて。まことにヒトは見たいものしか見ないし、見たいようにしか見ないものなのだ。
見上げれば50万ボルトの高圧電線がある。雨の時や湿度の高い時にはいつも「チ・チ・チ・チ」と放電しているような音をさせている。

台所の秋

秋の気配


男子厨房の孤塁を守り、日々台所に立っている。今朝方、米を研いでいると妙に水がぬるく感じられた。「秋がきた」と思ったことだ。

水道といえど、水の温度保持力(正確にはどういうのだろう)は、私に季節の移り目を知らせる。

だからというわけではないが、春には、いつまでも冷たい水に、泡立て器で米を研いだりするのだ。

ところで、みなさんは毎日の献立をどういうふうにして決めているのか。
「献立を考えるのも作るのも好き」という貴重な例は別にして、「じゃまくさい早よう何か食わせろ」は無視して。次のふたつ。
 ・作るのは苦痛じゃないけど、メニューを考えるのは苦痛。
 ・メニューを考えるのは楽しい、でも作るのは面倒だ。
これが、大半ではなかろうか。

いろんな流儀があって、なんとかゴマカシ、誤魔化し、日々をやり過ごしているのが実情じゃないだろうかと推察する。ガンバロウ。

食ってなんぼの人生だから、せめて食い物にだけは「税金」を掛けないでもらいたい。これ、無理筋の理屈でしょうか。

2010年9月2日木曜日

かわいそうな網戸

これは網戸である。それだけではなくカワイソウな網戸なのである。


家の犬猫の諍(いさかい)が網戸をこうさせた。発端は、いたいけな仔猫を庭の犬どもが食い殺したことにある。いやその前に犬の鼻先に三本ほどの筋をつけたのは猫である。爪あとから血がにじんでいた。
原因はともあれ、血を血で洗う抗争は内からの猫の攻撃、外からの犬の攻撃で網戸にかくのごときの哀れをとをとどめさせたのである。
双方、この暑気にあたったものか、今は休戦状態である。私は秋の風が吹き始めるのを待つ身であるが、あいつら、秋にはまたやるのかと気が重い。できることなら遺恨は忘れてもらいたい。

アメリカがイラクから軍を引くという。アメリカ正規軍の犠牲者数はカウントされていて、4400名という。イラクの犠牲者のカウントは11万以上である(新聞による)。

かわいそうな網戸を見ながら思ったことだ。こうしてみれば、理由のいかんにかかわらず、戦う双方の傷よりも、その戦いの被害者の傷は深く、なを、いつまでも癒えぬのものなのである。と。

2010年9月1日水曜日

会見

10.8.31.夕方の事、晩飯の仕度をすませ、テレビをつければ、話題のヒトがフラッシュを浴びている。
話の節目に「が」を連発して10分は喋っていたのではないか。数十人の記者を前に、テレビカメラも据えて。
(選挙に)出るか出ないか。それだけのことを言うのにこれだけ費やした政治家を見たのはおそらく初めてのことだ。
まさかではございますが、「出ます。出る理由は~」で始めると、客(記者)が帰ってしまうことをおそれたのか。
「簡単ではございますが、これをもって出馬の挨拶と」で締められると後ろにバッタリ倒れたところだったが、「長くなりましたが~」で終わった。
自覚はしているのだ。わかった上でのこの焦(じ)らし方。豪腕と称せられる彼の能力について私は知らないが。このクニのヒトビトはいつまでこのタイプの政治家と付き合うつもりなのだろうか。

それはそうと、テレビで「晩飯」のことを「夜ごはん」と表現するのはどうしてなのか、「ばんめし」下品ですか。