グーグル画面を開けたら
「ドアノー」生誕百年の画面があった。彼と聞けば「水溜まりを飛び越える」写真を思い浮かべたが違うかも知れないな。(「水溜り」写真は、「アンリ・カルティエ=ブレッソンサン=ラザール駅裏、パリ、1932年」。だった、つまり間違えていた)。ドアノーと聞いて「ジャック・プレベール」を思い出した。私の持っているドアノーの本。この中に彼(シャンソン「枯葉」の作詞は彼だ)のポートレイトがある。それがちょっといい。
プレベール。彼の詩。「バルバラ」を載せてみよう。
「覚えているか バルバラよ
ジャック・プレヴェール/大島博光訳
覚えているか バルバラよ
あの日ブレストに おやみなく雨が降っていた
きみは 微笑みをうかべ
うれしそうに明るく顔を輝かせて
雨のなかを歩いていた
覚えているか バルバラよ
ブレストに おやみなく雨が降っていた
シアム街で わたしはきみとすれちがった
きみは微笑んだ
同じように わたしも微笑んだ
覚えているか バルバラよ
きみを わたしは知らなかった
きみも わたしを知らなかった
覚えているか
それでも あの日を覚えているか
忘れずに思い出せ
ひとりの男がポーチのかげに身を寄せていて
きみの名を叫んだのだ
バルバラ と
するときみは 雨のなかを彼のそばに駆けよった
明るく顔を輝かせて うれしそうに
そして 彼の腕のなかに身を投げた
それを覚えているか バルバラよ
わたしが 「きみ」と親しげに呼んでも
きみは そういうわたしに答えてはくれまい
それでもわたしは 愛するものすべてにきみと言う
一度も会ったことのないひとにさえも
愛しあうすべてのひとに わたしはきみと言う
その人たちを知らなくとも
覚えているか バルバラよ
忘れずに思い出せ
あの しあわせな町のうえに
きみの しあわせな顔のうえに
降っていたあの しあわせなやさしい雨を
海のうえに
兵器廠のうえに
ウッサン島の舟のうえに
降っていたあの雨を
おお バルバラよ
戦争とはなんとばかげたことだろう
いま きみはどうしているか
この 鉄の雨の下で
火の鋼(はがね)の 血の雨の下で
そうしてきみを 愛情こめて
腕のなかに抱きしめたあの男は
死んで亡くなったのか
それともまだ生きているか
おお バルバラよ
ブレストに おやみなく雨が降っている
むかし降っていたように
だが それはもう同じ雨ではない
すべては 傷(いた)めつけられ崩れ落ちた
それは 怖ろしくも悲しい喪の雨だ
それはもう 鉄の鋼(はがね)の 血の
嵐でさえもない
ただ単純に 雲なのだ
犬どものように死んでゆく雲なのだ
ブレストの流れに沿って
あの犬どもは 姿を消し
遠く ブレストからはるか遠くへ
行って 死に
もう あとには何も残っていない」
小笠原豊樹(岩田宏)訳。大岡信訳。いろいろある。ここでは、大島博光訳を選んだ(これが私の好む訳では必ずしもない、しかしそれはまた別の話だ)。一読して「愛と反戦」をテーマとしている。「ドアノー」1912~1994。「ブレッソン」1908~2004。「プレベール」1900~1977。いずれも、世界大戦を経験し、なお第二次大戦の只中を壮年で生きた(生き残ったと言ったほうが正確か、裏切りも卑怯もそこでは日常茶飯であったろう)。今ではここで歌われているような「マッチョ」なオトコはいなくなったし、その視線の先の清楚な娘も見かけない。にも関わらず私がこの詩を忘れ難いのは。ただ一点、切ないとも言える平和への希求の強さにおいて。
追伸。こんな粋な詩も思い出した。今度は小笠原豊樹(岩田宏)訳で
「夜のパリ
三本のマッチ 一本ずつ擦る 夜のなかで
はじめのはきみの顔を隈なく見るため
つぎのはきみの目をみるため
最後のはきみのくちびるを見るため
残りのくらやみは今のすべてを想い出すため
きみを抱きしめながら。」
2012年4月14日土曜日
2012年3月31日土曜日
生きがい
由紀さおり 生きがい
作詞:山上路夫
作曲:渋谷毅
今あなたは目ざめ 煙草をくわえてる
早く起きてね バスが来るでしょう
お茶さえ飲まないで とび出してゆくのね
体に毒よ いつもそうなの
アア あなたと別れた今でも
アア 私はあなたと生きているの
いつの日も 生きてるの
もう別れてしまった 二人なのに
遠くはなれてしまった 二人なのに
私はあなたとしか 生きられない
それだけが 私のよろこび
それだけが 私の幸せなの
今たそがれの街 あなたは歩いてる
どこへ急ぐの 人波の中
もしも私のこと 想い出したならば
すぐに電話で 声を聞かせて
アア あなたと別れた今でも
アア 私はあなたと生きているの
いつの日も 生きてるの
いつの日も 生きてるの
この歌が好きで、よく聞いていた。オトコにとって気持ちいい歌詞だ。別れ別れになってもこんなに思ってくれている女性がいる。そんな現実にはあり得ないことを歌っている。だからこそ、この歌が好きで、よく聞いていたのだろう。
今になって、聞き返してみると、この歌詞はまた違った聞き方も出来る、イヤその方が「現実的だ」と気づいている。母が息子を思うシーン。いや、父が娘を思うシーン。逆に子から親思う、でもよかろう。ヒトがヒトを想う事を昇華して、この詩はまことに優れていると思う次第だ。
作詞:山上路夫
作曲:渋谷毅
今あなたは目ざめ 煙草をくわえてる
早く起きてね バスが来るでしょう
お茶さえ飲まないで とび出してゆくのね
体に毒よ いつもそうなの
アア あなたと別れた今でも
アア 私はあなたと生きているの
いつの日も 生きてるの
もう別れてしまった 二人なのに
遠くはなれてしまった 二人なのに
私はあなたとしか 生きられない
それだけが 私のよろこび
それだけが 私の幸せなの
今たそがれの街 あなたは歩いてる
どこへ急ぐの 人波の中
もしも私のこと 想い出したならば
すぐに電話で 声を聞かせて
アア あなたと別れた今でも
アア 私はあなたと生きているの
いつの日も 生きてるの
いつの日も 生きてるの
この歌が好きで、よく聞いていた。オトコにとって気持ちいい歌詞だ。別れ別れになってもこんなに思ってくれている女性がいる。そんな現実にはあり得ないことを歌っている。だからこそ、この歌が好きで、よく聞いていたのだろう。
今になって、聞き返してみると、この歌詞はまた違った聞き方も出来る、イヤその方が「現実的だ」と気づいている。母が息子を思うシーン。いや、父が娘を思うシーン。逆に子から親思う、でもよかろう。ヒトがヒトを想う事を昇華して、この詩はまことに優れていると思う次第だ。
2012年2月24日金曜日
石油ストーブ
石油ストーブ
春めいてきたとはいえ、深夜に起きだしてみればストーブを燃やしたくなる。点火して五分ほど経てば、火は立ち上り空気を取り込みつつ燃え始めた。
「ボッ・ボッ」という連続音を発しながら燃えている。芯の出し入れをし、火筒を調整してやれば、音は消え静かに燃焼している。その炎を見ながら「我が命も同様」のことだと思う。
燃料を入れて、空気を取り込み、静かに燃えている、そんなひとつの個体。それが「ストーブ」であり、「我が命」の形である。
冬の夜長、様々な時代の、様々な所で、「命」は燃え続けていた。
九十年前に燃え尽きたひとつの「命」にひとつの形を与えたひとつの詩。「やさしくあをじろく燃えてゐるわたしのけなげないもうとよ」宮沢賢治「永訣の朝」。
詩として、歌として、祭りとして我々の命は受け継がれ続けている。それを、「愛」と名付けてもそんなに問題ではなかろう。
春めいてきたとはいえ、深夜に起きだしてみればストーブを燃やしたくなる。点火して五分ほど経てば、火は立ち上り空気を取り込みつつ燃え始めた。
「ボッ・ボッ」という連続音を発しながら燃えている。芯の出し入れをし、火筒を調整してやれば、音は消え静かに燃焼している。その炎を見ながら「我が命も同様」のことだと思う。
燃料を入れて、空気を取り込み、静かに燃えている、そんなひとつの個体。それが「ストーブ」であり、「我が命」の形である。
冬の夜長、様々な時代の、様々な所で、「命」は燃え続けていた。
九十年前に燃え尽きたひとつの「命」にひとつの形を与えたひとつの詩。「やさしくあをじろく燃えてゐるわたしのけなげないもうとよ」宮沢賢治「永訣の朝」。
詩として、歌として、祭りとして我々の命は受け継がれ続けている。それを、「愛」と名付けてもそんなに問題ではなかろう。
2012年1月17日火曜日
きのうはあすに
きのうはあすに
新年の詩を持っている詩人は幸せである。なぜなら、一年に一度は思い起こして貰える事があるから。
中桐雅夫1919年生まれ~1983年没
「きのうはあすに」
新年は、死んだ人をしのぶためにある、
心の優しいものが先に死ぬのはなぜか、
おのれだけが生き残っているのはなぜかと問うためだ、
でなければ、どうして朝から酒を飲んでいられる?
人をしのんでいると、独り言が独り言でなくなる、
きょうはきのうに、きのうはあすになる、
どんな小さなものでも、眼の前のものを愛したくなる、
でなければ、どうしてこの一年を生きてゆける?
『会社の人事』1979年ページ140より。
ところで、ほとんど手遅れなのだが、つれあいは慎重に選ぶ必要がある。今年の正月には『美酒すこし』中桐文子。を手に入れて傍らに置いている。
破滅的に飲んだ彼のつれあい中桐文子が1985年に彼を偲んで?出版した本だ。没後2年か。そこで、彼は完膚なきまでに裸にされている。「序」がすごい、いやこの序だけでも、充分彼は立ち直れないだろう。「かわいそうなひと」と題されたそれは。文末ごとに、「かわいそうなひと」。と何度も重ねて記述され、最後に「彼が死んだ。彼には器用な飛翔はとてもできっこないであろう。ぶきっちょによろよろと、どこに行くのかも解らずに宙空をさまよっているとしか思えない。かわいそうな、かわいそうなひと。」と結ばれている。中桐雅夫の詩友であった、鮎川信夫氏が、マアマアおだやかに、と仲を取り持った、ような解説を書いているけれど、それの結びが「(この本は)強い辛口の酒である。中桐雅夫はしたたか酩酊して、安らかに眠りに就くであろう。人生の苦味をいっぱいにたたえた薫り高い詩で、一切の事が縁どりされていることに満足して。」というのだから、どっちの肩をもっているものやら。
いずれにせよ、できれば、つれあいは「寡黙」を選ぶべきだろう。私の知る限りそんな幸運に恵まれたヒトはいないのであるけれど。
いろいろ、述べたが、だれの味方でもない私にとって、この「序」は「きのうはあすに」と供に忘れるには惜しい作品であるのだ。
新年の詩を持っている詩人は幸せである。なぜなら、一年に一度は思い起こして貰える事があるから。
中桐雅夫1919年生まれ~1983年没
「きのうはあすに」
新年は、死んだ人をしのぶためにある、
心の優しいものが先に死ぬのはなぜか、
おのれだけが生き残っているのはなぜかと問うためだ、
でなければ、どうして朝から酒を飲んでいられる?
人をしのんでいると、独り言が独り言でなくなる、
きょうはきのうに、きのうはあすになる、
どんな小さなものでも、眼の前のものを愛したくなる、
でなければ、どうしてこの一年を生きてゆける?
『会社の人事』1979年ページ140より。
ところで、ほとんど手遅れなのだが、つれあいは慎重に選ぶ必要がある。今年の正月には『美酒すこし』中桐文子。を手に入れて傍らに置いている。
破滅的に飲んだ彼のつれあい中桐文子が1985年に彼を偲んで?出版した本だ。没後2年か。そこで、彼は完膚なきまでに裸にされている。「序」がすごい、いやこの序だけでも、充分彼は立ち直れないだろう。「かわいそうなひと」と題されたそれは。文末ごとに、「かわいそうなひと」。と何度も重ねて記述され、最後に「彼が死んだ。彼には器用な飛翔はとてもできっこないであろう。ぶきっちょによろよろと、どこに行くのかも解らずに宙空をさまよっているとしか思えない。かわいそうな、かわいそうなひと。」と結ばれている。中桐雅夫の詩友であった、鮎川信夫氏が、マアマアおだやかに、と仲を取り持った、ような解説を書いているけれど、それの結びが「(この本は)強い辛口の酒である。中桐雅夫はしたたか酩酊して、安らかに眠りに就くであろう。人生の苦味をいっぱいにたたえた薫り高い詩で、一切の事が縁どりされていることに満足して。」というのだから、どっちの肩をもっているものやら。
いずれにせよ、できれば、つれあいは「寡黙」を選ぶべきだろう。私の知る限りそんな幸運に恵まれたヒトはいないのであるけれど。
いろいろ、述べたが、だれの味方でもない私にとって、この「序」は「きのうはあすに」と供に忘れるには惜しい作品であるのだ。
2011年10月2日日曜日
深夜の稲荷ずし
金曜日の夜半
『金曜日の夜半
コップの底の氷の塊に
ウイスキーを注ぎこんで
ウイスキーを溶かしながら
酔っ払っている と
無性にいなり寿司が食いたくなる
そうだ、食いたいと思うことは自由だと思う
食えるか食えないかそれはわからない と
付け加える
食いたいときに食いたいのだ
土曜日の朝にはいなり寿司のことは忘れているだろう
(透明なコップに指つっこんで濡れた氷と渇いたウイスキーをかきまぜた)』
こんなことを書き付けるぐらいなら飲むのを早々に切り上げて作った方が早い。(もっとも、貧しくて食材が買えないのか、それとも作る技術がないのか。)
まな板に揚げをのせて
三角に切るやり方もあるが今回は四角でゆく
あとで袋状になってもらわなければいけないので
ここで開いておく、手でも出来るがやはり、包丁を入れて開く方がエレガント
洗練されたやり方だろう、イヤなら手で開けばいい
あとで袋状になってもらわなければいけないので
ここで開いておく、手でも出来るがやはり、包丁を入れて開く方がエレガント
洗練されたやり方だろう、イヤなら手で開けばいい
揚げの脂抜き、5分ほど煮た。ついでに半熟卵も作ろう。
砂糖、醤油で煮る。この後、落とし蓋をした。
飯の炊きあがる前にすし酢(酢・砂糖・塩)を用意する
ざっくり混ぜて
少し冷まして、作り置きのキンピラゴボウとゴマを載せて
混ぜた。揚げはどうした
こうして裏返して包み易いようにしておいて。
皿も用意して
できあがり。
1974年。ずいぶん昔の私に「ほらこれでも喰え」と渡してやろう。
2011年8月5日金曜日
むかし読んだ本を
むかし読んだ本を探した。
開高健氏の書いた本。戦争直後の大阪の話。エネルギー溢れる「アパッチ族」が出てくる小説をもう一度読みたいと探した。ところがそういう書名の本がない、諦めたのは半年も前のことだった。
先だって、小松左京氏が亡くなって、その追悼記事を読んでいたら「日本アパッチ族」という本は小松氏の著作にあるという。「ずいぶんな思い違いをしていたものだ」とキツネにつままれていたら、開高氏のおなじテーマの小説は「日本三文オペラ」であるとその記事の続きの部分で知る事になる。それならばどこかにあるはず。
汗まみれに家なかをひっくり返して、埃まみれに探すのも億劫だ、本屋に行って「オトナ買い」した。514円。手に入れてみれば、活字が大きくなっている。年寄りにはやさしい気配りだ。それだけでも500円の価値はある。
探していれば見つかるものだ。見つからなければ探していることを忘れればいい。
『なくしもの
ごくつまらぬ物をひとつなくした
無いとどうしても困るという物ではない
なつかしい思い出があるわけでもない
代わりの新しいやつは角の店で売っている
けれどそれが出てこないそれだけのことで
引き出しという引き出しは永劫の迷路と化し
私はすでに三時間もそこをさまよっている
途方に暮れて庭に降り立ち夕空を見上げると
軒端に一番星が輝きはじめた
自分は何のために生きているのかと
実に脈絡のない疑問が頭に浮かんだ
何十年ぶりかのことであるけれど
もとよりはかばかしい答えのあるはずがない
せめて品よく探そうと衣服の乱れをあらため
勇を鼓してふたたび室内へとって返すと
見慣れた什器が薄闇に絶え入るかと思われた』
谷川俊太郎詩集『そのほかに』1979年 集英社 P10より
二十歳過ぎの私は、この詩によって、「軒端・のきば」「什器・じゅうき」などの言葉はこのように使うのだと教えられたように思う。これまでに使いこなせたかどうかは別として、こんな憶え方は忘れないものだ。
二十歳過ぎの私は、この詩によって、「軒端・のきば」「什器・じゅうき」などの言葉はこのように使うのだと教えられたように思う。これまでに使いこなせたかどうかは別として、こんな憶え方は忘れないものだ。
2011年7月15日金曜日
御祇園さんの笛
先の日曜日のこと。我が村では「おぎおんさん」があった。祇園祭(会)のことである。家にいたら、遠くから「ピーヒャラ・ピーヒャラ」と笛の音が聞こえてきた。次第に近くなれば、話し声や、足音も混じってまことに祭りの気分になる。
笛の音を聞いているとひとつのパターンを繰り返していることに気付く。繰り返すということでは、物売りにも似ているし、廃品回収車にも似ている。しかし、何をもって来ようとこれが元祖であろう。
「 ふるさとにて
ほしがれひをやくにほひがする
ふるさとのさびしいひるめし時だ
板屋根に
石をのせた家々
ほそぼそと ほしがれひをやくにほひがする
ふるさとのさびしいひるめし時だ
がらんとしたしろい街道を
山の雪売りが ひとりあるいてゐる」
田中冬二
これは見なかった事にして欲しい。
追記。7月16日夜。犬の散歩をしていると、この村の祭りの笛を吹いているS氏に会った。同世代の彼も犬を連れている。「ちょっと、教えて」と祭りの笛のことを聞いてみた。
彼の言うところによれば「おぎおんさん」の笛は二曲あって。私の聞いた「ぴーひゃら」は祭り(を知らせて?)の道中に吹く曲だそうで、もうひとつ、山車(ばあさん達の愛用する乳母車を大きくしたみたいなものだが)を停めて要所要所で吹く曲に比べれば簡単な方であるということだった。
「秋祭りには違う曲?」と聞けば。「全然、別の曲」という「全部でどれくらいある?」「さー、何曲ぐらいじゃろうか」とそれほど多いみたいだ。
私の思うに、映画音楽やTVドラマのバックに流れる音楽、みたいに祭礼の場面場面に合った曲が用意されてあるらしいのだ。こうしてみれば、お囃子方は、まるでオペラの楽士ではないか。
これは、ブログを書く事で得た、ちょっとした発見だった。
笛の音を聞いているとひとつのパターンを繰り返していることに気付く。繰り返すということでは、物売りにも似ているし、廃品回収車にも似ている。しかし、何をもって来ようとこれが元祖であろう。
「ぴーぴーひゃらら、ぴーひゃららァ
ぴーぴーひゃらら、ぴーひゃららぁ
(繰り返し)
ぴーひゃらぴーひゃら
ぴーぴー。」
ことばに表わしてみるとこんな感じである。小さい「ァ」の部分は音程が上がり、小さい「ぁ」の部分は下がる。最後の「ぴーぴー」は少し間延びしていてまことにもの悲しくもある。と考えていると。
こんな詩を思い出した。
ほしがれひをやくにほひがする
ふるさとのさびしいひるめし時だ
板屋根に
石をのせた家々
ほそぼそと ほしがれひをやくにほひがする
ふるさとのさびしいひるめし時だ
がらんとしたしろい街道を
山の雪売りが ひとりあるいてゐる」
田中冬二
1894年(明治27年) - 1980年(昭和55年)の詩である。
我々はこの時代になって、初めてミゼラブルな我とわが身を映し出す鏡(近代的精神)を手に入れて、さかんにこんな詩が作られたのである。
原発の時代を映す鏡を我々は何時になれば手にすることが出来るのだろうか。
我々はこの時代になって、初めてミゼラブルな我とわが身を映し出す鏡(近代的精神)を手に入れて、さかんにこんな詩が作られたのである。
原発の時代を映す鏡を我々は何時になれば手にすることが出来るのだろうか。
ついでに、こんなのも思い出した。
これは見なかった事にして欲しい。
追記。7月16日夜。犬の散歩をしていると、この村の祭りの笛を吹いているS氏に会った。同世代の彼も犬を連れている。「ちょっと、教えて」と祭りの笛のことを聞いてみた。
彼の言うところによれば「おぎおんさん」の笛は二曲あって。私の聞いた「ぴーひゃら」は祭り(を知らせて?)の道中に吹く曲だそうで、もうひとつ、山車(ばあさん達の愛用する乳母車を大きくしたみたいなものだが)を停めて要所要所で吹く曲に比べれば簡単な方であるということだった。
「秋祭りには違う曲?」と聞けば。「全然、別の曲」という「全部でどれくらいある?」「さー、何曲ぐらいじゃろうか」とそれほど多いみたいだ。
私の思うに、映画音楽やTVドラマのバックに流れる音楽、みたいに祭礼の場面場面に合った曲が用意されてあるらしいのだ。こうしてみれば、お囃子方は、まるでオペラの楽士ではないか。
これは、ブログを書く事で得た、ちょっとした発見だった。
2011年7月10日日曜日
樹々の一家
いろいろのブログを「お気に入り」に入れて読んでいる。毎日のように更新するブログには感心する。いや感心を通りこして尊敬してしまう。私にはできそうもないのだ。
ここのところ、誰に頼まれたわけでもないのに私は怒ったブログばかり書いている。反省して、「怒らぬ」ブログを書いてみよう。最後まで冷静でいられるかしら。
ここのところ、誰に頼まれたわけでもないのに私は怒ったブログばかり書いている。反省して、「怒らぬ」ブログを書いてみよう。最後まで冷静でいられるかしら。
以下の文章を読んで欲しい。長いが読んで損はない(もう斜に構えている)
『樹々の一家
太陽の烈しく照りつける野原を横切ってしまうと、初めて彼らに会うことができる。
彼らは道のほとりには住まわない。物音がうるさいからである。彼らは未墾の野の中に、小鳥だけが知っている泉の縁(へり)を住処(すみか)としている。
遠くからは、はいり込む隙間もないように見える。が、近づいていくと、彼らの幹は間隔をゆるめる。彼らは用心深く私を迎え入れる。私はひと息つき、肌を冷やすことができる。しかし、私には、彼らがじっとこちらを眺めながら警戒しているらしい様子がわかる。
彼らは一家を成して生活している。一番年長のものを真ん中に、子供たち、やっと最初の葉が生えたばかりの子供たちは、ただなんとなくあたり一面に居並び、決して離れ合うことなく生活している。
彼らはゆっくり時間をかけて死んで行く。そして、死んでからでも、塵となって崩れ落ちるまでは、突っ立ったまま、みんなから見張りをされている。
彼らは、盲人(めくら)のように、その長い枝でそっと触れ合って、みんなそこにいるのを確かめる。風が吹き荒(すさ)んで、彼らを根こぎにしようとすると、彼らは怒って身をくねらす。しかし、お互いの間では、口論ひとつ起こらない。彼らは和合の声しか囁(ささや)かないのである。
私は、彼らこそ自分の本当の家族でなければならぬという気がする。もう一つの家族などは、すぐ忘れてしまえるだろう。この樹たちも、次第に私を家族として遇してくれるようになるだろう。その資格が出来るように、私は、自分の知らなければならぬことを学んでいる――
私はもう、過ぎ行く雲を眺めることを知っている。
私はまた、ひとところにじっとしていることもできる。
そして、黙っていることも、まずまず心得ている。』
(『博物誌』 ルナール 岸田国士=訳 新潮文庫p258)
「彼らは和合の声しか囁(ささや)かない」「黙っていることも、まずまず心得ている」うらやましい。こうでありたいと思う。細かなことを書き加えれば、「遠くからは、はいり込む隙間もないように見える。が、近づいていくと、彼らの幹は間隔をゆるめる。」という非凡なフレーズ(誰もがそう感じていてもそれをコトバにしたのはルナールが初めてではなかろうか)が読者をしてたちまち、木々のただなかに誘い込む、そして、我々は作者に導かれてさまざまな発見をしてゆくのである。
1864年~1910年(夏目漱石と重なる)を生きた、ルナールを思い浮かべていると、同じ木々を詠った北原白秋を思い出した。彼は1885年~1942年を生きた。以下の引用を読んで貰うとわかるが、意外にも北原白秋の方が20年程も後の時代の人なのである。
『落葉松
からまつの林を過ぎて
からまつをしみじみと見き
からまつはさびしかりけり。
からまつの林を出(い)でて
からまつの林に入りぬ
からまつの林に入りて
また細く道はつづけり
(中略)
からまつの林の雨は
さびしけどいよいよしずけし
かんこ鳥鳴けるのみなる
からまつの濡るるのみなる
世の中よ あわれなりけり
常なれどうれしかりけり
山川に山がはの音
からまつにからまつのかぜ』
どうですか。このふたつの違い。どちらも木々に託して己の心情を吐露したものですが、ずいぶん印象が違う。どうしてか。後者は論理を追わぬゆえに、何時までも続けることができる。例えば、祭りのお囃子に近いのだ。言い換えれば、リズムと音を追いかけることに疲れるまでつづけることのできる構造を持つ。したがって、心の吐露を装いながら、心の襞さえも追わぬのである。心はただ「さびしい」「うれしい」と表わされるのみ。
それぞれを検索してみれば、このクニの人々は後者を好むようで、この詩を歌詞にして歌まで作っているのである。良くも悪くも、論理を好まぬ国民性がこんな所にも現われていると思った事だ。
こまったことに、論理を好まぬ人々は天災と人災の区別をつけようとも思わないのである。
オット、ここでレフリーストップがかかった。ではまた。
それぞれを検索してみれば、このクニの人々は後者を好むようで、この詩を歌詞にして歌まで作っているのである。良くも悪くも、論理を好まぬ国民性がこんな所にも現われていると思った事だ。
こまったことに、論理を好まぬ人々は天災と人災の区別をつけようとも思わないのである。
オット、ここでレフリーストップがかかった。ではまた。
2010年8月30日月曜日
恋はゲームじゃ
「恋はゲームじゃなく」
作曲:来生たかお 作詞:来生えつこ 『マイ・ラグジュワリー・インザナイト』のさびの部分だ。次に「生きることね」とつづく。ともすれば、恋もゲームになってしまう事を戒めたもの。と年寄は聞いたが「よけいなお世話」であるか。せいぜい馬の後ろには近づかぬようにしよう。
ところで、私がなんでこの歌詞を思い出したのか、すっかり「ゲーム」と化した政界芝居を見せられているからだ。「カネ(金)ギーホール民主」は1年前にオープンしたものの、出し物はお粗末。音は外すは、歌詞は忘れるは、台詞は棒読みだは、で客はドンビキ。近頃は菅孤鳥(かんこどり)が鳴いている。「なに?客がいない!そんじゃあワシにも歌わせろ」とオーナーが言い出してテンヤワンヤの騒ぎ。
この騒ぎの本当の原因は「ひとりじゃなんにも決められない」このクニの属国体質のせいだろうと私は考えている。
さて、この「ゲーム」、どんな結末であっても「反省」は聞かされまい。と書いて、このうえなく上等の「反省」を思い出した。其れを引いて、終わりにしよう。今日も暑いのか。
『 帰 郷
柱も庭も乾いてゐる
今日は好い天気だ
縁〈(えん)〉の下では蜘蛛の巣が
心細さうに揺れてゐる
山では枯木も息を吐〈(つ)〉く
あゝ今日は好い天気だ
路〈(みち)〉傍〈ばた〉の草影が
あどけない愁〈(かなし)〉みをする
これが私の故里〈ふるさと〉だ
さやかに風も吹いてゐる
心置なく泣かれよと
年増婦〈としま〉の低い声もする
あゝ おまへはなにをして来たのだと……
吹き来る風が私に云ふ 』
中原中也 1907~1937(M40~S12)詩集『山羊の歌』より
作曲:来生たかお 作詞:来生えつこ 『マイ・ラグジュワリー・インザナイト』のさびの部分だ。次に「生きることね」とつづく。ともすれば、恋もゲームになってしまう事を戒めたもの。と年寄は聞いたが「よけいなお世話」であるか。せいぜい馬の後ろには近づかぬようにしよう。
ところで、私がなんでこの歌詞を思い出したのか、すっかり「ゲーム」と化した政界芝居を見せられているからだ。「カネ(金)ギーホール民主」は1年前にオープンしたものの、出し物はお粗末。音は外すは、歌詞は忘れるは、台詞は棒読みだは、で客はドンビキ。近頃は菅孤鳥(かんこどり)が鳴いている。「なに?客がいない!そんじゃあワシにも歌わせろ」とオーナーが言い出してテンヤワンヤの騒ぎ。
この騒ぎの本当の原因は「ひとりじゃなんにも決められない」このクニの属国体質のせいだろうと私は考えている。
さて、この「ゲーム」、どんな結末であっても「反省」は聞かされまい。と書いて、このうえなく上等の「反省」を思い出した。其れを引いて、終わりにしよう。今日も暑いのか。
『 帰 郷
柱も庭も乾いてゐる
今日は好い天気だ
縁〈(えん)〉の下では蜘蛛の巣が
心細さうに揺れてゐる
山では枯木も息を吐〈(つ)〉く
あゝ今日は好い天気だ
路〈(みち)〉傍〈ばた〉の草影が
あどけない愁〈(かなし)〉みをする
これが私の故里〈ふるさと〉だ
さやかに風も吹いてゐる
心置なく泣かれよと
年増婦〈としま〉の低い声もする
あゝ おまへはなにをして来たのだと……
吹き来る風が私に云ふ 』
中原中也 1907~1937(M40~S12)詩集『山羊の歌』より
2010年8月22日日曜日
盆
「盆」には先祖が帰ってくるという。さて私にとっての先祖とは、と考えてみたが、見知った数名が思い浮かぶだけで、その先はおぼろである。「盆」とはいえ、見知らぬ者どもにドヤドヤ上がり込まれても、こちらは戸惑うばかりであろう。「わしゃ~、あんたのじいさんのじいさんになる。これは嫁」と杯を差し出す赤ら顔に酒をつぎながら「そうなんですか、で、そちらの方は?」。
そんな、やくたいもないことを考えていたら、室生犀星 1889~1962年(M22~S37)の詩を思い出した。
切れ切れの記憶をもとに、インターネットで検索してみた。「好めるオモチャ」「あみがさワラジのたぐい」「おのれちちたるゆえ」を「犀星」とともに検索にかけると『靴下』が出てきた。
『 靴下
毛糸にて編める靴下をもはかせ
好めるおもちゃをも入れ
あみがさ わらぢのたぐひをもをさめ
石をもてひつぎを打ち
かくて野に出でゆかしめぬ
おのれ父たるゆゑに
野辺の送りをすべきものにあらずと
われひとり留まり
庭などをながめあるほどに
耐へがたくなり
煙草を噛みしめにけり 』
(室生犀星「忘春詩集」) 1922(T11)犀星33歳。
年賦によれば、32歳で授かった子(溺愛したと書いてある)に33歳の時に死なれている。その時の体験をコトバにしたものらしい。
「会うは別れの始まり」であるから、残念ながら誰でもいとおしい者を失う。しかし、ここまで、簡素に鮮明に、記録したものをあまり知らない。
「をも」の連発の仕掛けは、文(文章)は初めの一行目から順番に読み進めてゆくという法則を巧みに操っていると感心する。「石をもてひつぎを打」つ空しい音が聞こえてくるようではないか。90年前の事だ、今は見かけなくなった縁側のある家での情景を想像した。
しかし、何より、私がこの詩をいつまでも忘れられずにいる理由はそんなことだけじゃないだろう。ここには、近代になって初めて表現しえたところの精神のかたち(ある意味で雄雄しいそれ)があるからではないだろうか。
付記。たとえば、宮沢賢治「永訣の朝」と読み比べてみてください。かたや信者としての別れ、かたや宗教を媒介とせずに、いとおしいものとの別れのかたち。
そんな、やくたいもないことを考えていたら、室生犀星 1889~1962年(M22~S37)の詩を思い出した。
切れ切れの記憶をもとに、インターネットで検索してみた。「好めるオモチャ」「あみがさワラジのたぐい」「おのれちちたるゆえ」を「犀星」とともに検索にかけると『靴下』が出てきた。
『 靴下
毛糸にて編める靴下をもはかせ
好めるおもちゃをも入れ
あみがさ わらぢのたぐひをもをさめ
石をもてひつぎを打ち
かくて野に出でゆかしめぬ
おのれ父たるゆゑに
野辺の送りをすべきものにあらずと
われひとり留まり
庭などをながめあるほどに
耐へがたくなり
煙草を噛みしめにけり 』
(室生犀星「忘春詩集」) 1922(T11)犀星33歳。
年賦によれば、32歳で授かった子(溺愛したと書いてある)に33歳の時に死なれている。その時の体験をコトバにしたものらしい。
「会うは別れの始まり」であるから、残念ながら誰でもいとおしい者を失う。しかし、ここまで、簡素に鮮明に、記録したものをあまり知らない。
「をも」の連発の仕掛けは、文(文章)は初めの一行目から順番に読み進めてゆくという法則を巧みに操っていると感心する。「石をもてひつぎを打」つ空しい音が聞こえてくるようではないか。90年前の事だ、今は見かけなくなった縁側のある家での情景を想像した。
しかし、何より、私がこの詩をいつまでも忘れられずにいる理由はそんなことだけじゃないだろう。ここには、近代になって初めて表現しえたところの精神のかたち(ある意味で雄雄しいそれ)があるからではないだろうか。
付記。たとえば、宮沢賢治「永訣の朝」と読み比べてみてください。かたや信者としての別れ、かたや宗教を媒介とせずに、いとおしいものとの別れのかたち。
2010年8月7日土曜日
8.7の完璧な日記
8月7日、本日は頭上から押し付けるような熱気がなかったようで楽だった。ちなみに最高気温は32℃であったそうだ。この気温を「楽」と感じるのは、いつのまにか暑気に体が慣らされていたのだろう。ヒトの適応力おそるべし。
「たとえば」と考えた。この適応力は「貧困」「消費税」「失業」「戦争」においても有効に働くはずだろうと。
『1945年8月6日の朝
一瞬にして死んだ25万人の人すべて
いま在る
あなたの如く 私の如く
やすらかに 美しく 油断していた。』
石垣りん詩集 『挨拶(原爆の写真によせて)』部分 思潮社版16ページより。
「たとえば」と考えた。この適応力は「貧困」「消費税」「失業」「戦争」においても有効に働くはずだろうと。
『1945年8月6日の朝
一瞬にして死んだ25万人の人すべて
いま在る
あなたの如く 私の如く
やすらかに 美しく 油断していた。』
石垣りん詩集 『挨拶(原爆の写真によせて)』部分 思潮社版16ページより。
2010年4月18日日曜日
ブログの孤独 つづく
貝の運命
これはアサリである。飼っているわけではない。「砂出し」をしている。出したほうが貝のためになるわけではない。ヒトの口が砂をキラウためだ。つまり、この後、貝は水からじっくり火を入れられて、ヒトに食われることになる。シジミの詩。
きわめて、論理的である。考えてみれば、こんなことを書かなければならぬ理由はだれにもなかろう。しかし、時には書いてみるのもいいのではなかろうか。こんなようにして。シジミ、アサリを見る度に思い出すわけではないが、ときおり私は、こうして思い出す。石垣りん、1920(T9)~2004(H16)。
ところで、先日の永瀬氏(1906~1995)の詩の手法に似ていると思われませんか。こんな詩が書かれ、またさかんに読まれたこともあったのである。
これはアサリである。飼っているわけではない。「砂出し」をしている。出したほうが貝のためになるわけではない。ヒトの口が砂をキラウためだ。つまり、この後、貝は水からじっくり火を入れられて、ヒトに食われることになる。シジミの詩。
石垣りん詩集 現代詩文庫46詩潮社1771年より
きわめて、論理的である。考えてみれば、こんなことを書かなければならぬ理由はだれにもなかろう。しかし、時には書いてみるのもいいのではなかろうか。こんなようにして。シジミ、アサリを見る度に思い出すわけではないが、ときおり私は、こうして思い出す。石垣りん、1920(T9)~2004(H16)。
ところで、先日の永瀬氏(1906~1995)の詩の手法に似ていると思われませんか。こんな詩が書かれ、またさかんに読まれたこともあったのである。
2010年4月15日木曜日
ブログの孤独 つづく
比喩の射程 2
「私は地球」これ程の規模の比喩はなかろう、これを越えるとすれば、「私は宇宙」か。「私は神」かだが。「神」に関してはつい60数年前まで実存していたので「宇宙」が最高だろうか。御託は程々にして、この詩は極めてリアリティーに富んだ比喩によって出来ている。

「ガガーリン」による地球への報告「青かった」。「アポロ計画」での宇宙からの地球の映像。いずれも1961年から1972年にかけての出来事だった。それに触発されての彼女の「詩」だと考えてよかろう。
妙に、極めてエロチックであることにお気づきだろう。そうなんだ、ちょっと周りが困るほどのスケベが彼女の詩の芯の部分なんだな。「女」はそういう存在である。と相手にされなくなってから気付いている、「手遅れ」なんだなこれが。
稲を作る私は、しばしば挫折して「屍衣」をお願いしたいくらいである。いずれチャンスがあれば「稲の葉先に時をきめて昇る水玉」を絵で載せる事が出来るだろう。7の月。夜明けに稲田に行ってみれば、茂り始めた稲の葉先に水滴がびっしり付いているを見ることができる。彼女の言うようにそれは、大気の水分が付着したものではなく、稲が土から吸い上げたものなのだ。正直に言えばそれを見ることはあっても彼女の詩を読むまでそれの意味を知ることはなかった。「永瀬清子」死してもおそるべし。
この項、おしまい。
「私は地球」これ程の規模の比喩はなかろう、これを越えるとすれば、「私は宇宙」か。「私は神」かだが。「神」に関してはつい60数年前まで実存していたので「宇宙」が最高だろうか。御託は程々にして、この詩は極めてリアリティーに富んだ比喩によって出来ている。
思潮社版1996年第二版
「現代詩文庫1039」より
「ガガーリン」による地球への報告「青かった」。「アポロ計画」での宇宙からの地球の映像。いずれも1961年から1972年にかけての出来事だった。それに触発されての彼女の「詩」だと考えてよかろう。
妙に、極めてエロチックであることにお気づきだろう。そうなんだ、ちょっと周りが困るほどのスケベが彼女の詩の芯の部分なんだな。「女」はそういう存在である。と相手にされなくなってから気付いている、「手遅れ」なんだなこれが。
稲を作る私は、しばしば挫折して「屍衣」をお願いしたいくらいである。いずれチャンスがあれば「稲の葉先に時をきめて昇る水玉」を絵で載せる事が出来るだろう。7の月。夜明けに稲田に行ってみれば、茂り始めた稲の葉先に水滴がびっしり付いているを見ることができる。彼女の言うようにそれは、大気の水分が付着したものではなく、稲が土から吸い上げたものなのだ。正直に言えばそれを見ることはあっても彼女の詩を読むまでそれの意味を知ることはなかった。「永瀬清子」死してもおそるべし。
この項、おしまい。
2010年4月13日火曜日
ブログの孤独 つづく
比喩の射程 1
思っていても、そうであるとか、ましてそうではないとか言わないのが紳士のたしなみだろう。しかし、これはかなりの別嬪ではなかろうか。短髪、丸めがね、ちょっとキツメのお姉さん。黙っては居ないだろうこの口元は。
このポスターで、永瀬清子展を知った。(吉備路文学館・25日まで)先週だったか、重い腰をあげ、「行くぞ」と周りに宣言し、行ってみると休館日(月曜日)だった。永瀬ファンのH女史に「どうだった」と聞かれて「実は~」と言うと、大変な喜びようで、近年あんなに人に喜ばれた記憶はない。できる「失敗」はした方がいい、他人の楽しみにはなる。後日女史はちゃんと月曜日をはずして行ったらしい。
行ってから書こうと思っていたが、行かずに書くことにした。「比喩の射程」と題して。
永瀬清子氏(1906(M39)~1995(H7))をお見かけしたのは1980年頃、何かの集会に来賓で来られていた時のように記憶する。そのころは、貫禄が加わり、宮崎アニメに出てくる海賊の女親分のように成っておられた。年表を見ればその少し前に出された詩集『海は陸へと』(1965~1972)に私の好む詩「私は地球」はある。
この項つづく
思っていても、そうであるとか、ましてそうではないとか言わないのが紳士のたしなみだろう。しかし、これはかなりの別嬪ではなかろうか。短髪、丸めがね、ちょっとキツメのお姉さん。黙っては居ないだろうこの口元は。
このポスターで、永瀬清子展を知った。(吉備路文学館・25日まで)先週だったか、重い腰をあげ、「行くぞ」と周りに宣言し、行ってみると休館日(月曜日)だった。永瀬ファンのH女史に「どうだった」と聞かれて「実は~」と言うと、大変な喜びようで、近年あんなに人に喜ばれた記憶はない。できる「失敗」はした方がいい、他人の楽しみにはなる。後日女史はちゃんと月曜日をはずして行ったらしい。
行ってから書こうと思っていたが、行かずに書くことにした。「比喩の射程」と題して。
永瀬清子氏(1906(M39)~1995(H7))をお見かけしたのは1980年頃、何かの集会に来賓で来られていた時のように記憶する。そのころは、貫禄が加わり、宮崎アニメに出てくる海賊の女親分のように成っておられた。年表を見ればその少し前に出された詩集『海は陸へと』(1965~1972)に私の好む詩「私は地球」はある。
この項つづく
2010年1月16日土曜日
言葉を集めて つづく
歌会始め 3
一月九日に、「『風景の中の風景』集中16篇のなかで私はなぜこれを好むのか。以下つづく」と書いたきりだ。どうして、スラスラつづきが書けないのか、おのれの中を探ってみた。
そして、「何を好むか」は、たやすく言えるが、「どうして好むのか」を言うことはむつかしい事を発見した。
話は少しずれるが、幼いココロは、互いの愛の証を互いの犠牲の量で計ったりする。しかし、どんな犠牲も愛の証明にはならないのである。好き嫌い、愛憎は計れない。計れぬものはいつまでたっても計れないのである。
そうは言っても、つづけてみようか、集中最初の詩「あるビルの風景」(これも素晴らしいできばえである)を引用し「墓地のある風景」と比べてみよう。
「その建てかけのビルは、郊外の土堤ぞいの原っぱに立っている。マンションにでもなるんだろう、一階と二階には等間隔に鉄のドアが付いていて、数えていくと各階十八部屋ずつある。三階と四階はコンクリートの枠で仕切ってあるだけなので、がらんどうのの部屋がすけて見える。五階と六階はまだ鉄骨のまんまだ。
このビルを見ながら通勤するようになってから十一年、まわりにはカラー屋根の建売り住宅が建てこんできて人も住み始めたが、ビルにはいつも人影はなく、工事が進んだ気配はない。壁には鉄錆がしみ出し、土台に隠れてしまっている。
なぜ、資金を無理算段しても工事を完成してしまわないのか、あるいはいっそ倒壊してしまわないのか。その決断を何千日も一日延ばしにしているこいつは、なんと優柔不断なやつだろう。
いや、これはひょっとすると、別の決断のあらわれかもしれない――今まで思ってもみなかった考えが突然浮かんできたのは、わたしがこの十一年くりかえした病気のすえにとうとう無念の休職届けを出して、その帰り途だったせいか。
こいつは、金も力も才覚もここまでがせいいっぱいなのに、いつかは、いつかはと歯を食いしばって、見えない努力をつづけているのかもしれない。人が住めるビルになるのが自分の仕事だから、たとえ何千何万日かかろうとも諦めるわけにはいかないのだと。その不断の努力が、不断の時の流れと拮抗しているがために、ただじっと立っているだけのように見えているのかもしれない。
暮れかけの空に、未完のビルはくろぐろと立ちはだかり、突き出した鉄筋の先が、むきだしの神経のようにぴりぴり震えていることに、わたしははじめて気づいた。」
どうですか。私は今は無いこの「その建てかけのビル」を知っていた。そして、優れた書き手に掛かると、こう料理されるのだ、とこの詩を読んで感心した記憶がある。しかし、心の在り方をあらわす手段として、物や事を比喩として使う手法を身につければ、優れた詩人(書き手)はここまでは行くのである。いや、この手法こそ「詩」である「教えましょう」と先生がいたりするのである。そして凡百の詩が生み出される。
しかし、いざ、物そのもの、事そのものを言葉の内に現そうとすれば、「墓地のある風景」のように、そのものを「レポート」するだけで、その中に作者の国家観や歴史観が、いや、その人そのものが、いちどきに表現されてしまう優れた対象を待つしかないのである。
そんな対象には、十年に一度遭えるか、いや生涯に一度も遭えないかもしれない。それでいいのである。
歌会始めはこれでおしまい。
一月九日に、「『風景の中の風景』集中16篇のなかで私はなぜこれを好むのか。以下つづく」と書いたきりだ。どうして、スラスラつづきが書けないのか、おのれの中を探ってみた。
そして、「何を好むか」は、たやすく言えるが、「どうして好むのか」を言うことはむつかしい事を発見した。
話は少しずれるが、幼いココロは、互いの愛の証を互いの犠牲の量で計ったりする。しかし、どんな犠牲も愛の証明にはならないのである。好き嫌い、愛憎は計れない。計れぬものはいつまでたっても計れないのである。
そうは言っても、つづけてみようか、集中最初の詩「あるビルの風景」(これも素晴らしいできばえである)を引用し「墓地のある風景」と比べてみよう。
「その建てかけのビルは、郊外の土堤ぞいの原っぱに立っている。マンションにでもなるんだろう、一階と二階には等間隔に鉄のドアが付いていて、数えていくと各階十八部屋ずつある。三階と四階はコンクリートの枠で仕切ってあるだけなので、がらんどうのの部屋がすけて見える。五階と六階はまだ鉄骨のまんまだ。
このビルを見ながら通勤するようになってから十一年、まわりにはカラー屋根の建売り住宅が建てこんできて人も住み始めたが、ビルにはいつも人影はなく、工事が進んだ気配はない。壁には鉄錆がしみ出し、土台に隠れてしまっている。
なぜ、資金を無理算段しても工事を完成してしまわないのか、あるいはいっそ倒壊してしまわないのか。その決断を何千日も一日延ばしにしているこいつは、なんと優柔不断なやつだろう。
いや、これはひょっとすると、別の決断のあらわれかもしれない――今まで思ってもみなかった考えが突然浮かんできたのは、わたしがこの十一年くりかえした病気のすえにとうとう無念の休職届けを出して、その帰り途だったせいか。
こいつは、金も力も才覚もここまでがせいいっぱいなのに、いつかは、いつかはと歯を食いしばって、見えない努力をつづけているのかもしれない。人が住めるビルになるのが自分の仕事だから、たとえ何千何万日かかろうとも諦めるわけにはいかないのだと。その不断の努力が、不断の時の流れと拮抗しているがために、ただじっと立っているだけのように見えているのかもしれない。
暮れかけの空に、未完のビルはくろぐろと立ちはだかり、突き出した鉄筋の先が、むきだしの神経のようにぴりぴり震えていることに、わたしははじめて気づいた。」
どうですか。私は今は無いこの「その建てかけのビル」を知っていた。そして、優れた書き手に掛かると、こう料理されるのだ、とこの詩を読んで感心した記憶がある。しかし、心の在り方をあらわす手段として、物や事を比喩として使う手法を身につければ、優れた詩人(書き手)はここまでは行くのである。いや、この手法こそ「詩」である「教えましょう」と先生がいたりするのである。そして凡百の詩が生み出される。
しかし、いざ、物そのもの、事そのものを言葉の内に現そうとすれば、「墓地のある風景」のように、そのものを「レポート」するだけで、その中に作者の国家観や歴史観が、いや、その人そのものが、いちどきに表現されてしまう優れた対象を待つしかないのである。
そんな対象には、十年に一度遭えるか、いや生涯に一度も遭えないかもしれない。それでいいのである。
歌会始めはこれでおしまい。
2010年1月9日土曜日
言葉を集めて つづく
歌会始め 2
手練の自白調書「あとがき」を鵜呑みにするわけにはゆかない、「墓地のある風景」を書き写してみよう。
『松や樫の枝が覆いかぶさる暗い石段を上がっていくと、タイムトンネルをくぐっている気分だ。九十三まで数えて昇りきると、そこから視界がひらけ、階段状にひろがる旧陸軍墓地である。足もとから玉砂利の道がまっすぐにのび、正面はるかに石塔が聳えている。曇天である。人影はなく、物音もしない。
第一段は上等兵の墓地である。腰の高さほどの墓石が四列縦隊で整列し、百九十二柱ある。前に立つと「故陸軍工兵上等兵、昭和八年八月十九日於旅順陣歿、行年二十三才」「故陸軍歩兵上等兵、昭和八年九月八日於岡山衛戍病院戦病死、行年二十二才」などと直立不動で答える。
第二段も上等兵の墓が続いて百二柱あるが、途中から伍長の墓に変わってこれが百二十四柱である。伍長は上等兵より背が高いので境界は一目瞭然である。
第三段は軍曹、曹長、准尉の墓地で六十四柱である。墓石は階級が進むたびに高くなり、准尉になると首までくる。
第四段は少尉からはじまり、これが頭の高さである。中尉、大尉、少佐、中佐とますます高くなり、手をのばしても届きかねる大佐で終わっている。この段は敷石もゆったりしていて三十六柱である。
第五段には「満州事変忠死者之碑」(昭和八年三月建之)の石塔を中央にして「歩兵第十連隊戦病死将兵合祀之碑」と「工兵第十大隊戦病死将兵合祀之碑」の石柱が高く天を突いている。それだけである。大佐以上の墓と上等兵以下の墓はどこにも見当たらない。
第六段は最近山を削って造成した墓地らしい。およそ縦三メートル、横六メートルに及ぶ大きな碑が建っている。黒光りする模造大理石に「大東亜戦争戦歿者慰霊碑、昭和五十二年建之」と彫り込まれ、県知事の署名がある。それだけである。満州事変以後の戦病死者はあまりの多数にのぼったためか、敷地がなかったためか、墓石は階級のいかんにかかわらずいっさい省いてある。
そして第七段はない。墓地も山もここで行きどまりである。もう碑一つ建てる余地もない。
戦争の世紀から回れ右をして下界へ降りかけたとき、頭上のぶあつい雲が切れ、陽光がさっと射してきた。そのまぶしい閃光に照らしだされて、尾根伝いにつらなる住宅団地が浮かび上がった。それは階段状に山裾を下りながら眼下の市街へなだれこんでいき、まるで真新しい墓石の群れのように光っているのであった。』
以上である。全文である。一読して「レポート」である。観察記録である。『風景の中の風景』集中16篇のなかで私はなぜこれを好むのか。
以下つづく
手練の自白調書「あとがき」を鵜呑みにするわけにはゆかない、「墓地のある風景」を書き写してみよう。
『松や樫の枝が覆いかぶさる暗い石段を上がっていくと、タイムトンネルをくぐっている気分だ。九十三まで数えて昇りきると、そこから視界がひらけ、階段状にひろがる旧陸軍墓地である。足もとから玉砂利の道がまっすぐにのび、正面はるかに石塔が聳えている。曇天である。人影はなく、物音もしない。
第一段は上等兵の墓地である。腰の高さほどの墓石が四列縦隊で整列し、百九十二柱ある。前に立つと「故陸軍工兵上等兵、昭和八年八月十九日於旅順陣歿、行年二十三才」「故陸軍歩兵上等兵、昭和八年九月八日於岡山衛戍病院戦病死、行年二十二才」などと直立不動で答える。
第二段も上等兵の墓が続いて百二柱あるが、途中から伍長の墓に変わってこれが百二十四柱である。伍長は上等兵より背が高いので境界は一目瞭然である。
第三段は軍曹、曹長、准尉の墓地で六十四柱である。墓石は階級が進むたびに高くなり、准尉になると首までくる。
第四段は少尉からはじまり、これが頭の高さである。中尉、大尉、少佐、中佐とますます高くなり、手をのばしても届きかねる大佐で終わっている。この段は敷石もゆったりしていて三十六柱である。
第五段には「満州事変忠死者之碑」(昭和八年三月建之)の石塔を中央にして「歩兵第十連隊戦病死将兵合祀之碑」と「工兵第十大隊戦病死将兵合祀之碑」の石柱が高く天を突いている。それだけである。大佐以上の墓と上等兵以下の墓はどこにも見当たらない。
第六段は最近山を削って造成した墓地らしい。およそ縦三メートル、横六メートルに及ぶ大きな碑が建っている。黒光りする模造大理石に「大東亜戦争戦歿者慰霊碑、昭和五十二年建之」と彫り込まれ、県知事の署名がある。それだけである。満州事変以後の戦病死者はあまりの多数にのぼったためか、敷地がなかったためか、墓石は階級のいかんにかかわらずいっさい省いてある。
そして第七段はない。墓地も山もここで行きどまりである。もう碑一つ建てる余地もない。
戦争の世紀から回れ右をして下界へ降りかけたとき、頭上のぶあつい雲が切れ、陽光がさっと射してきた。そのまぶしい閃光に照らしだされて、尾根伝いにつらなる住宅団地が浮かび上がった。それは階段状に山裾を下りながら眼下の市街へなだれこんでいき、まるで真新しい墓石の群れのように光っているのであった。』
以上である。全文である。一読して「レポート」である。観察記録である。『風景の中の風景』集中16篇のなかで私はなぜこれを好むのか。
以下つづく
2010年1月5日火曜日
言葉を集めて つづく
歌会始め つづき 1
言葉は長い間、ヒト特有のもの、と思われてきた。最近では、犬もネコも鯨もゾウも、言葉を使うらしいということになってきた。鯨やゾウは身近にいないが、犬猫はいる。私の使う言葉で彼らと話をしたことは一度もないが、鳴き方、吠え方、こちらを見るしぐさ、でやりとりをしている、で、不自由はない。もっとも、「私が」であるけれど。
さて、ヒトは書く、文字までも。書くだけで好しとせず、ひとまとまりにしてそれを、「歌」だの、「詩」だのと名づける。公平に言って、かなり、不遜にして大胆な行いであるといえるだろう。
今回は、それをとりあげたい。
『風景の中の風景』坪井宗康詩集と表紙にある。1986年、手帖舎刊。「あとがき」として「夫は、この散文詩集を出そうとしていた矢先に、急死しました。卓上のノートに次のような走り書きが記されていました。『私は瀬戸内のこの町に生まれずっとここで暮らしている。町の風景は毎日見なれた風景である。しかしふとした折々にその見なれた日常の風景の中に動く時代の影や自分自身の姿を見出して足をとめることがある。そんなとき私は初心な画家がたどたどしく絵の具を重ねるように、不器用な手つきでことばをかさねながら我流の風景画を描いてみるのである。』この遺志を、いま詩集の形にすることができましたことは(以下略)」
簡素にして意を尽くす「あとがき」である。彼は良き妻を得た。
もう脱線している。話を戻そう。
どうして、もの書くひとは、晩年になると良くなるのか。集中、「墓地のある風景」を読んでみよう。
(以下続く)
言葉は長い間、ヒト特有のもの、と思われてきた。最近では、犬もネコも鯨もゾウも、言葉を使うらしいということになってきた。鯨やゾウは身近にいないが、犬猫はいる。私の使う言葉で彼らと話をしたことは一度もないが、鳴き方、吠え方、こちらを見るしぐさ、でやりとりをしている、で、不自由はない。もっとも、「私が」であるけれど。
さて、ヒトは書く、文字までも。書くだけで好しとせず、ひとまとまりにしてそれを、「歌」だの、「詩」だのと名づける。公平に言って、かなり、不遜にして大胆な行いであるといえるだろう。
今回は、それをとりあげたい。
『風景の中の風景』坪井宗康詩集と表紙にある。1986年、手帖舎刊。「あとがき」として「夫は、この散文詩集を出そうとしていた矢先に、急死しました。卓上のノートに次のような走り書きが記されていました。『私は瀬戸内のこの町に生まれずっとここで暮らしている。町の風景は毎日見なれた風景である。しかしふとした折々にその見なれた日常の風景の中に動く時代の影や自分自身の姿を見出して足をとめることがある。そんなとき私は初心な画家がたどたどしく絵の具を重ねるように、不器用な手つきでことばをかさねながら我流の風景画を描いてみるのである。』この遺志を、いま詩集の形にすることができましたことは(以下略)」
簡素にして意を尽くす「あとがき」である。彼は良き妻を得た。
もう脱線している。話を戻そう。
どうして、もの書くひとは、晩年になると良くなるのか。集中、「墓地のある風景」を読んでみよう。
(以下続く)
2009年12月31日木曜日
ブログの孤独 つづく
「ラアーラア、ラーアラーア」飲み暮らしているうちに、年が変わろうとしている。反省はあるが、反省はしない。抱負といわれても特に無い。
日付の変わった頃に起き出して、飯を仕掛け、だし汁をとり、高野豆腐を煮た。酢ゴボウ、酢レンコンは後で作ろうか。とりあえずは、姪っ子(といっても二十歳をとうに過ぎたレディーなのだが)が食いたいという「餅ピザ」の用意をしよう。頭の中ではもう作り始めている。
餅をチンで少しく柔らくして、フライパンにオリーブオイルをたらし、(一人当てはふたつ、みっつだろうか、)餅を放り込んで、ヘラで押しながら炙る。餅と餅がくっついて一枚のピザ生地になれば、あとは、いろんな具を載せてオーブンで焼くだけだ。コツといえば、出来るだけ薄く餅を延ばすこと、それと時間があれば、カリカリにやいた方が香ばしいことぐらいか。
ひとなみに、年末年始をキネンして、歌会をしてみてもいいか。やんごとなき方面の方もすると聞く。
年末篇
「おなじ未(ひつじ)年の友に//きみは日記を焼いたりしたことがあるかい おれはあるんだよ、五十になった頃の秋だ 天城の尾根で三冊のノートを捨てた 生きたくも死にたくもない変な気持ちだった 過去との断絶、そんなことは不可能だ 紙切れはなくなっても記憶は残るからね それでもノートはできるだけ遠くへ投げたよ センチメンタルだと笑われるかねえ 「風立ちぬ、いざ生きめやも」 戦争前に覚えたこの言葉を戦争が叩き潰した おない年に生まれて先に死んだやつの顔 悪を知らなかったあの顔が忘れられるものか 生きてゆくとはそういうことだろうかねえ おれがおりてきた薄(すすき)の尾根道も長かったよ」
年始篇
「きのうはあすに//新年は、死んだ人をしのぶためにある、 心の優しいものが先に死ぬのはなぜか、 おのれだけが生き残っているのはなぜかと問うためだ、 でなければ、どうして朝から酒を飲んでいられる? 人をしのんでいると、独り言が独り言でなくなる、 きょうはきのうに、きのうはあすになる、 どんな小さなものでも、目の前のものを愛したくなる、 でなければ、どうしてこの一年を生きてゆける?」
いづれも中桐雅夫詩集『会社の人事』晶文社1979年より写した。尚、本編の縦書きを横書きにした、行替えは一字あけ、二字あきは大きな行替え、題と本文との間に//を入れた。
彼は数年後1983年に死亡、「生きてゆく」ことをやめ、「しの」ばれる側に移った。
もう少し続けてもいいか。
と書いて晩年の彼がどんなに進歩したかを書こうと思ったが止めた。詩論、評論には多少の理屈が必要だ。「理屈と飯粒はどこへでもつく」のだ、新年早々うんざりしたくない。
日付の変わった頃に起き出して、飯を仕掛け、だし汁をとり、高野豆腐を煮た。酢ゴボウ、酢レンコンは後で作ろうか。とりあえずは、姪っ子(といっても二十歳をとうに過ぎたレディーなのだが)が食いたいという「餅ピザ」の用意をしよう。頭の中ではもう作り始めている。
餅をチンで少しく柔らくして、フライパンにオリーブオイルをたらし、(一人当てはふたつ、みっつだろうか、)餅を放り込んで、ヘラで押しながら炙る。餅と餅がくっついて一枚のピザ生地になれば、あとは、いろんな具を載せてオーブンで焼くだけだ。コツといえば、出来るだけ薄く餅を延ばすこと、それと時間があれば、カリカリにやいた方が香ばしいことぐらいか。
ひとなみに、年末年始をキネンして、歌会をしてみてもいいか。やんごとなき方面の方もすると聞く。
年末篇
「おなじ未(ひつじ)年の友に//きみは日記を焼いたりしたことがあるかい おれはあるんだよ、五十になった頃の秋だ 天城の尾根で三冊のノートを捨てた 生きたくも死にたくもない変な気持ちだった 過去との断絶、そんなことは不可能だ 紙切れはなくなっても記憶は残るからね それでもノートはできるだけ遠くへ投げたよ センチメンタルだと笑われるかねえ 「風立ちぬ、いざ生きめやも」 戦争前に覚えたこの言葉を戦争が叩き潰した おない年に生まれて先に死んだやつの顔 悪を知らなかったあの顔が忘れられるものか 生きてゆくとはそういうことだろうかねえ おれがおりてきた薄(すすき)の尾根道も長かったよ」
年始篇
「きのうはあすに//新年は、死んだ人をしのぶためにある、 心の優しいものが先に死ぬのはなぜか、 おのれだけが生き残っているのはなぜかと問うためだ、 でなければ、どうして朝から酒を飲んでいられる? 人をしのんでいると、独り言が独り言でなくなる、 きょうはきのうに、きのうはあすになる、 どんな小さなものでも、目の前のものを愛したくなる、 でなければ、どうしてこの一年を生きてゆける?」
いづれも中桐雅夫詩集『会社の人事』晶文社1979年より写した。尚、本編の縦書きを横書きにした、行替えは一字あけ、二字あきは大きな行替え、題と本文との間に//を入れた。
彼は数年後1983年に死亡、「生きてゆく」ことをやめ、「しの」ばれる側に移った。
もう少し続けてもいいか。
と書いて晩年の彼がどんなに進歩したかを書こうと思ったが止めた。詩論、評論には多少の理屈が必要だ。「理屈と飯粒はどこへでもつく」のだ、新年早々うんざりしたくない。
2009年12月25日金曜日
ブログの孤独 つづく
ロマンチックのゆくへ
こちらは、うんざりするほどロマンチックなのだ。すでに遠い昔に市場経済の軛(クビキ)より逃れてクラゲの如くに浮遊している無能物に過ぎない。しかし、だからといって多少の矜持も持ち合わせていたい。
珍しく、「忘年会」に誘われた。当日、バスで出ようとすると、バスが無いのである。子が学校に通っていた頃、乗り遅れたくせに家に帰って、「バスが無い」と言っていた事を思い出した。「バス紛失事件か」とからかいつつも送ってやった事もあったな。その頃に較べてずいぶん便の減っているのを改めて発見した。感心ばかりもしていられない、どうするか、思案の後、自転車で行くことにした。目的地まで17キロはある、私如きでも、工業高校に行っていた時には18キロを毎日往復していた。やってやれないことはなかろう、天気もいい。ママチャリのタイヤに空気も入れた。
さて、道をチンタラ漕いでゆけば、前から来る顔見知りの目が車の中で点になっている。ざまあみろ、人生至る所に驚きありだ、常識なんか捨ててしまえ。しかし、この三十年、面の皮は厚くなったが、尻の皮は薄くなったみたいである。半分もゆかないうちに尻が痛い。息も荒い、頭痛もしてきた。ベンチを見つけ一休みした。気絶したヒキガエルみたいにノビていたら、近くで二十歳ぐらいの若者二人が親しく話をしているペチャクチャと。聞くともなしに聞いていると、意味が掴めない、集中して聞いても意味が取れない、心臓発作かしら、とも思った。野垂れ死にかと覚悟した。だが、変調していたのは認識系の方だった、日本語であるとの認識を捨てた途端に中国語が私の耳に入ってきた。
それにしても若者の会話のリズムは万国共通なのだと感心した、映像で見る若いムスメの少しく眩し気なハニカミが如何なる民族でも共通である様に。そして、この列島には日本語以外の世界が思いの他多様にあるのだと思い至った。
目的地に着いてみれば、始まりには少し時間がある。実に久しぶりに昔住んでいたあたりをさまよってみた。此辺の私の中のイメージは、三十年の間に少し膨らみ、実際の街は少し縮んだ様だ。「あゝおまへは何をしてきたのだ~と、吹き来る風が私に云う」(中原中也「帰郷」最後の部分)を思い浮かべたりした。
「忘年会」の事は、書かぬが良かろう。ご迷惑をかけました。年をとれば次第に円熟してくるヒトもいれば、年齢と共に緩んで堪え性の無くなるヒトもいるのだ。わたしはどうやら。 (以下略)
こちらは、うんざりするほどロマンチックなのだ。すでに遠い昔に市場経済の軛(クビキ)より逃れてクラゲの如くに浮遊している無能物に過ぎない。しかし、だからといって多少の矜持も持ち合わせていたい。
珍しく、「忘年会」に誘われた。当日、バスで出ようとすると、バスが無いのである。子が学校に通っていた頃、乗り遅れたくせに家に帰って、「バスが無い」と言っていた事を思い出した。「バス紛失事件か」とからかいつつも送ってやった事もあったな。その頃に較べてずいぶん便の減っているのを改めて発見した。感心ばかりもしていられない、どうするか、思案の後、自転車で行くことにした。目的地まで17キロはある、私如きでも、工業高校に行っていた時には18キロを毎日往復していた。やってやれないことはなかろう、天気もいい。ママチャリのタイヤに空気も入れた。
さて、道をチンタラ漕いでゆけば、前から来る顔見知りの目が車の中で点になっている。ざまあみろ、人生至る所に驚きありだ、常識なんか捨ててしまえ。しかし、この三十年、面の皮は厚くなったが、尻の皮は薄くなったみたいである。半分もゆかないうちに尻が痛い。息も荒い、頭痛もしてきた。ベンチを見つけ一休みした。気絶したヒキガエルみたいにノビていたら、近くで二十歳ぐらいの若者二人が親しく話をしているペチャクチャと。聞くともなしに聞いていると、意味が掴めない、集中して聞いても意味が取れない、心臓発作かしら、とも思った。野垂れ死にかと覚悟した。だが、変調していたのは認識系の方だった、日本語であるとの認識を捨てた途端に中国語が私の耳に入ってきた。
それにしても若者の会話のリズムは万国共通なのだと感心した、映像で見る若いムスメの少しく眩し気なハニカミが如何なる民族でも共通である様に。そして、この列島には日本語以外の世界が思いの他多様にあるのだと思い至った。
目的地に着いてみれば、始まりには少し時間がある。実に久しぶりに昔住んでいたあたりをさまよってみた。此辺の私の中のイメージは、三十年の間に少し膨らみ、実際の街は少し縮んだ様だ。「あゝおまへは何をしてきたのだ~と、吹き来る風が私に云う」(中原中也「帰郷」最後の部分)を思い浮かべたりした。
「忘年会」の事は、書かぬが良かろう。ご迷惑をかけました。年をとれば次第に円熟してくるヒトもいれば、年齢と共に緩んで堪え性の無くなるヒトもいるのだ。わたしはどうやら。 (以下略)
2009年11月9日月曜日
世相 つづき
昨日、テレビを見るともなく見ていたら「普天間」沖縄米軍基地をニュースでやっていた。轟音とともに、校庭をすれすれに飛ぶところの軍用機の映像は只事ではないと見た。インタビューに答えて女の先生が、「墜落してきた時、どうしたらいいのか、それが一番の心配」と言っていたが、どうしようもないであろう。言葉にならぬ悲鳴をあげる時が残されているのみであろう。国会が開かれているそうだが、この轟音の下でやればいいのだ。
ところで、それを見ながら、私は一篇の「詩」を思い出していた。1974年頃の10月28日、朝日新聞「文芸時評」欄で「丸谷才一」氏によって教えられたその詩。私の変色して分解しかけているノートより抜粋する。
「洗練された言葉の芸、『天野忠詩集』」という書き出し。
「昭和29年の詩集『重たい手』のなかの、人々がひょっとすると単なる反戦詩と見るかもしれない数編の詩の場合にもいささかも変わらないようだ。一例として、散文詩『拍手』では長くなりすぎるから『何故』をひく。
『そのとき 遠い空に鈍いひびきがふるえ
みるまに轟然とふくれあがり
そいつは
学校の屋根いっぱいのつばさとなった
中学生の読むリーダーの声がふっ消され
首を縮かめて みな息をのんだ
グアーッと莫大なひびきで いつものように
教室は揺れた
やがて
とぎれた生徒の言葉を補うために
先生はしずかな声で‘Why’と云われた。』」
以上で抜粋はおしまい。手練にかかると散文詩「拍手」を探しだして読みたくなるではないか。
余計を付け加えれば、次のページに私は「シンシア」の歌詞を書き写している。「なつかしいひとやまちをたずねて」「かえってゆくばしょないのなら」どうやら優れた表現の射程は思いのほか長いみたいだ。
ところで、それを見ながら、私は一篇の「詩」を思い出していた。1974年頃の10月28日、朝日新聞「文芸時評」欄で「丸谷才一」氏によって教えられたその詩。私の変色して分解しかけているノートより抜粋する。
「洗練された言葉の芸、『天野忠詩集』」という書き出し。
「昭和29年の詩集『重たい手』のなかの、人々がひょっとすると単なる反戦詩と見るかもしれない数編の詩の場合にもいささかも変わらないようだ。一例として、散文詩『拍手』では長くなりすぎるから『何故』をひく。
『そのとき 遠い空に鈍いひびきがふるえ
みるまに轟然とふくれあがり
そいつは
学校の屋根いっぱいのつばさとなった
中学生の読むリーダーの声がふっ消され
首を縮かめて みな息をのんだ
グアーッと莫大なひびきで いつものように
教室は揺れた
やがて
とぎれた生徒の言葉を補うために
先生はしずかな声で‘Why’と云われた。』」
以上で抜粋はおしまい。手練にかかると散文詩「拍手」を探しだして読みたくなるではないか。
余計を付け加えれば、次のページに私は「シンシア」の歌詞を書き写している。「なつかしいひとやまちをたずねて」「かえってゆくばしょないのなら」どうやら優れた表現の射程は思いのほか長いみたいだ。
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