2012年5月28日月曜日

鳥の啼くように

鳥の啼くように

朝4時を過ぎると、空が明らんでくる。すると鳥が「我慢出来ない・切羽詰まった」と啼きはじめた。それは、いつものこと、「お約束」事だ。でもなー。と私は思う。個々の鳥にしてみれば、そんな事関係ない。今朝の夜明けと「一期一会」の「一世一代」の会話なのである。命とはそういうものなのではなかろうか。
これを、




やっと読み終えた。音楽に喩(たと)えるならば、これは「交響曲」だろう。私は彼女(加藤陽子)の「練習曲」「習作」は興味を持ってできるだけ聞いて(読んで)きた。しかし、「練習曲・習作」を集めただけでは、「交響曲」にはならないのである。ところどころに優れた興味深い「フレーズ」が潜んでいるとはいえ聴き終えて統一した感慨は無かった。これはおそらく相異なるふたつの主題を彼女がひとつのものに「昇華」出来なかったからではなかろうか。ふたつとは、ひとつは「誠実で、愚直」な昭和天皇像と、もうひとつは天皇を「神」と信じ、自らはもとより他国民にもまた多大の犠牲を出したこのクニの国民、言い換えれば我らの父母。彼ら(彼女ら)が参加した戦争のこと、である。
ともあれ、彼女は彼女の声で啼いた。私も調子っぱずれと言われようと自分の歌を自分の声で啼く他になかろう。

追伸。
何回でも、いや何十回でも、同じ問を繰り返そう。我々はどんな論理でこの社会を「統治」されてきて、どんな論理で「自治」しようとして来たのか。と。

2012年5月24日木曜日

2012.5.24の日記

2012.5.24の日記

日付が変わってから犬どもと散歩。いつものコースを行く。今日は新月なのか?夜道が暗い。冬ほどではないが、この季節にしては星が良く見える。(宇宙は膨張している、さればとて、そのうち星無き空なるという。そうなんだろう。永遠のモノなどひとつもない。星がなくなれば、神話を星に託して民族の物語を説明することは難しくなるだろうなと考えた)。
南の夜空には「サソリ」が昇っている。この星座を見れば、また夏が巡ってきたと思う。(永遠のモノなどひとつもない。だがしかし、それだからこそ?永遠に近く毎年時を定めて、現れるモノに我々はヤットコサ支えられているのではなかろうかと考えた)。
「どうなんだ。おまえたちは?」とそこらを嗅いでいる犬どもに聞くと、「オレたちはコンニチただ今の事にしか興味はないさ、オジサン」だって。

2012年5月23日水曜日

あんたの続け文字は

あんたの続け文字は

少し東の空が明らむ朝四時を過ぎると、近くで鳥が啼きだした。「ツーピー・ツーピー」と囀りはじめている。余裕のない切羽つまった啼き方だ。体の底から湧いてきた力をこの空間に撒き散らさざるを得ぬ、それの他に我が命なしみたいに。

私の親爺は大正の半ば生まれ。(ちなみにオフクロは大正末年生まれ)。私が二十歳の頃のこと、家を離れて一人暮らしを始めたら、オヤジからハガキが来た。それが縦書きの続け文字で読みづらい(いや読めなかった)。それで「あんたの続け文字は読みづらいです」と書いてハガキを出したら、読める字で返事がきた。計算してみれば、彼はまだ五十代の始めだったんだな。あのハガキ今何処へあるのか出てこない。彼は1991年に死んだからもう20年か。
こんなやくたいもない事を書きつけるのは、この頃、折にふれて、私の好んで読むものは、大半がすでにこの世に居ないヒトビトの書いた物であることに気付いたせいだ。
それはそれとして、ブログ・ツイッター・フェイスブック。生まれて間もない、これらの表現媒体に係わるヒトビトは現存している者が大半であろう。これからこの媒体はどう変化してゆくのだろうか。紙に書かれて読み継がれて来たもののように、生死にかかわらず、そんな事関係なしに、豊かに在り続けられるのだろうか。
今は、皆、切羽詰まった様に啼く今朝の鳥のように啼いているけれども。

2012年5月21日月曜日

日蝕

日蝕

「一陣の風がドーッと吹いて、辺りが少し暗くなった。物という物の輪郭が朧(おぼろ)になり、境界は滲(にじ)んでいる。カラスが山で騒ぎだした。」宮沢賢治ならこんな書き出しで始めるだろうか。
凡才の私は、そこら辺りの紙に爪楊枝で穴を開け、カレンダーのウラに欠けた太陽を拾ってみた。



報道では直接見ると目を痛めると盛んに警告している。してみれば、毎日そこにある「太陽」さえ我々は直視することなしに暮らしているわけだ。これは比喩としては「タブー」みたいだと思ったことだ。

2012年5月19日土曜日

六名乗車。計十三名 つづき

六名乗車。計十三名 つづき


新幹線。草一本生やさぬように想定されているこの交通システムは、食料を生産することのない空間である。がしかし、皮肉なことに、ここには大量の食料が運び込まれている。弁当、酒、菓子、コーヒー。ヒトは食わずには生きてはゆけない。

さて、病院にいってみれば、あたり前のことだが、「病人」「病院関係者(職員)」「病人関係者(家族)」その三者にしか出会わない空間だった。

そんな空間にしばらく居たら、こんな、一節を思い出した。以下
『「どんな患者が来ようと、病気には三種類しかない。ほっておけば治る病気と、ほっておけば死ぬ病気と、ほっておけば治りもしない、死にもしない病気の三種類。この三種類を見分けるには、勉強は要らない。勘だけ鋭ければいい。お前たちの勘はいいことがわかっているから、その勘を使って、その三種類を見分けなさい。」そのあと、どうするんですか、と聞きますと、「この患者、ほっとけば死にそうだ」と思ったら、「世の中には偉い先生がたくさんいるんだから、できるだけ早く偉い先生のところへ送りなさい」って言うんですね。「そこで死んだからといって、おまえたちの責任ではない。偉い先生は何のためにいるのか、ただ高い給料をもらっているのではない。ほっとけば死ぬような病人を助けてやるから価値がある。この人たちに患者を送るのに何ら抵抗を感じることはないんだ。」そう言われて目が開かれたようなきがしました。パッと。
精神科をやることに決めたのも、そこではほっといて死ぬ患者が少ないからです。僕みたいな医者がやっても、害が少ない。』
「一精神科医の生活と意見」 なだいなだ 『林精神医学研究所報』1983年3月より抜書き。

二十日迄。というので

二十日迄。というので

一人で、県立美術館に「ベン・シャーン」を見に行った。行くと決めて、つれあいを誘うことも考えたが、「相手の都合に合わせる」のは私の性に合わない。「自分勝手だ」という日頃の彼女の謗(そし)りを証明することになるが。これ以上評価の下がることのない者の強みだ。



私は「ベン・シャーン」のことを、「アーサー・ビナード」氏の導きによって知っていた。しかし、 『ここが家だ・ベン・シャーンの第五福竜丸』の絵本を買おうとは思わなかった。絵本なんか子供のものと思っていたからだ。どんな理由でこの本を探して買ったか思い出せない。奥付を見れば「一刷は2006年9月30日。私の持つものは八刷2011年3月14日」。こうしてみれば、福島の原発事故の衝撃が、私を変えたのだろうか。
県立美術館の感想を述べれば、その量に圧倒された。アーサー・ビナード氏が構成し文を加えた 『ここが家だ・ベン・シャーンの第五福竜丸』は「ベン・シャーン」の七十数年の生涯のほんの一年の仕事に過ぎない。そうして、残された彼の作品はどれもこれも、彼にしか出来ない彼自身の表現であった。これは優れた芸術の特性であろう。しかし、ここだけの話、彼は「絵」が下手である。サラサラと書いてそれがまるで「生きているよう」だ。みたいなことはない。それでも彼は『ナチスの残虐』を『労働者の現実』を『原子力利用の現実』を彼の知りうる限りの情報を使い書いた(それもあらゆる表現方法を使って)。このことは、ここだけの話、我々凡才を励ますことであろう。下手でも稚拙でも書いておこうと。
ここまで書いて、またこのアメリカのヒト二人によって成された絵本に戻って考えた。「ラッキードラゴン=福竜丸」の事はまさに、掛け値なしで、このクニの人命と財産を犯された事件だった。それにも関わらず、我々は彼らのような仕事をすること無しに来た。それは何故か?と問わざるをえない。
それは、「タブー」がそうさせたのではなかろうか。菊タブー、ツルタブー。~~タブー。我々の思考は、我々気付かぬうちに、それらのタブーに囚われていたのではなかろうかと考えた。そうであるならば、今現在に於いても我々はタブーに囚われているであろう。私のタブーとは何か、あなたのタブーとは何か、我々のタブーとは何か。

2012年5月17日木曜日

六名乗車 計十三名

六名乗車 計十三名

身近の者が、手術を受けるという、それも、全身麻酔でという。意識が有ろうと無かろうとそんなにレベルの変わらぬヒトだが、立ち会ってほしい。という。然らばと三重県は津市にバスと新幹線と電車を乗り継いで出かけた。私の棲息する所は。元々島であるから、バスの便は朝と夕方の離島連絡船みたいになっている。都市の周辺地域はどこも同じようなものだろう。
これがいわゆる「上り」のバス時刻。それから「下り」は下に。二日後帰宅時には18時52分着の便を利用した、我が停留所で二名下車。バスには運転手と他一名の乗客が残った。

朝九時の定期上りバスに乗った。我が停留所からは六名乗車。後ろの席から数えてみると計十三名がこのバスの乗客だった。雑巾を絞るように捻れる度に「ギシギシ」音をさせて走る。ディーゼルエンジンの振動で車体の隙間という隙間が「カタカタ」共振している。
レンズを外に向ければ、「児島湾大橋」が見える。

1983年に完成したこの橋を伝って産業廃棄物がダンプカーに乗ってやってきてからもう三十年だ。
産廃施設を抱え込んでしまった地域の住民の反応は二通りに別れるだろう。ひとつは「慣れてしまうこと。」もう一つは「そこに、この社会の矛盾と非道を見出すこと。」
バスは岡山駅を目指して「ギシギシ」「カタカタ」と走るのであった。
次の日の朝、津市の東の空にはこんな朝日がのぼった。

2012年5月9日水曜日

理屈と飯粒はどこにでも付くクニで

これをみていた。「俺の記者会見はレベルが高い」と自慢していたけど。こんなレベルだったんだ。聞かれた事の意味を理解して、相手に解るように噛み砕いて説明する。対話・会話はそういった作業を積み重ねてようやく成り立つものだけれど、彼はその能力に欠けている。私の守備範囲に球を投げなさい(打ちなさい)それ以外は投げちゃダメ(打っちゃダメ)。これでは、例えれば、野球というゲームは成り立たない。彼は世の中のことを「ゲーム」と捉える傾向があるが、こんな事では「ゲーム」すら成り立たないのである。ところでこの会見で話題になっている「君が代」のこと。
「君が代」は歌だから、覚えていないと歌えない。これからは大阪あたりでは職員採用条件に「君が代を歌えること」の項目も入れなければならないだろう。歌いたくても知らない歌は歌えないもの。「何故歌わない!」と言われて「?。この歌知らないんです」叱られるだろうな。このクニに生まれたからといって、生まれついて歌詞やメロデーがDNAに刷り込まれているわけでもなかろう。冗談じゃなくて知らない若者は増えていると思う。こんなところに橋下維新達の無理筋・ゴリ押し理由があるのかな。それはそれとして、こんな事になるのも「法律」があるからなんだろうと考えた。この法律(国旗国歌法 )はどんなものか。どのような経緯で誕生したのか。

さて、「国旗国歌法」をウィキペディアで調べてみた。以下抜粋
『当時首相であった小渕恵三は、1999年6月29日の衆議院本会議において、日本共産党の志位和夫氏の質問に答えて
「学校におきまして、学習指導要領に基づき、国旗・国歌について児童生徒を指導すべき責務を負っており、学校におけるこのような国旗・国歌の指導は、国民として必要な基礎的、基本的な内容を身につけることを目的として行われておるものでありまして、子供たちの良心の自由を制約しようというものでないと考えております。」
「国旗及び国歌の強制についてお尋ねがありましたが、政府といたしましては、国旗・国歌の法制化に当たり、国旗の掲揚に関し義務づけなどを行うことは考えておりません。したがって、現行の運用に変更が生ずることにはならないと考えております。」』

『国旗・国歌法の制定時に官房長官を務めていた野中広務は「起立せなんだら処罰するなんてやり方は権力者のおごり。教職員を処分してまで従わせようというのは、国旗・国歌法の制定に尽力した者として残念です」と述べている』
以上

2012.5.13の追記
ツイッターでの橋下氏。今日の一言『僕は膨大な時間を使ってメディアとやり取りをしている。それが有権者のためになると考えているからだ。だからメディアもそれを踏まえての議論としてもらいたい。「私が質問している。私の質問に答えよ。しかし私は答える必要はない。」こんな記者とは議論にもならない。MBS、しっかり頼むよ!』
と余裕を見せている。その前は質問をした記者に逆質問を連発したのは「やりすぎた」と言っていたのに、彼は「このザマ」だ。

論理を外れて感情的やり取りをしてしまったと自覚しているのならば、元に戻って「冷静な」やり取りをしましょう。「やり直しましょう」だろう。この程度の軽口しか述べられぬ彼を私は「このザマ」と言っている。彼の使う論理は常々往々にして怪しいが、これはそれ以前の問題だろう。
彼は「論理」原理主義者を自認しているみたいだが。こんな展開を「ご都合主義」というのではなかったか。「まあまあ、それはそれとしてよろしく頼むよ」みたいな、そこにどんな論理が潜んでいるのか。

2012年5月6日日曜日

近くのスーパーマーケットにて

近くのスーパーマーケットにて

犬猫の「フード」を買ったついでに、ヒトの食い物を買いに近くのスーパーマーケット訪れた。ツルツルのリノリュウム様式の床を買い物カゴを下げてヨタヨタ物色していると、若い娘の二人連れが前を歩いている。聞き耳を立てれば、何やら品物購入の是非について話をしている。その言葉が私には解らない。どうやら中国語らしい。
こうして此処に記している「日本語」なんて、この地球上で使われる「言葉」の百分の一ぐらいのものだから。こうした私には理解不能の言葉があるのは当然であろうと考えた。どの言葉をとってみても、「解らない」と恐れる事はない、ヒトはひとつの種でしかないから、どの言葉も想定している範囲はそちらもこちらも変わりはないのである。
問題は、それが私の棲息範囲であるということだろう。世界の主要都市に「チャイナタウン」を作ってきた彼女たちの祖先の血がまた此処に流れているのだろう。
「グローバル」は。新自由主義の者どもが想定(己の保身のために)するよりも深くこの社会を変えつつあるのではなかろうか。
『クニ』とはなんだろうか。同じ民族の集まり。同じ言語を使う者達の集まり。同じ『法』の下で統治されることを認めた人びとの集まり。

2012年5月3日木曜日

何が書かれていないか

やっと、ひと通り読んだ。理解したとは言い難い。わたしは、少々むずかしいモノでも読むことにしている。そうすれば、「何が書いてあるか」は解らなくても、「何が書かれていないか(それしか書いていない)」ことは解るからだ。


ここまで書いて、日付の変わる頃犬どもと散歩に出かけた。何気なく東の夜空を見れば「サソリ座」が登りつつあるところだった。尻尾はまだ山陰に隠れている。毎年のように時を定めて星座は現れる。数万年(数億年?)変わらずに星座の運行はそうであると天文学者は教える。星屑のコドモであるヒト人類の激動のこの数百年などは、一瞬の流れ星のようなものであろうか。と犬どもに聞くが、「ナニ言ってんだ。おじさん。ロマンチックもエエ加減にしてよ」だそうだ。

2012年5月2日水曜日

政治家の卑怯がもたらすもの


隣の庭で啼くウグイスはずいぶん唄が上手くなった。小雨の中、節回しも鮮やかに啼いている。リフレインにも工夫があるみたいで聴き応えがある。さて私の唄はいつもながらさえない。以下。
政治家がどこでどんな判断をしようと「勝手」と言えば勝手だ。時間を経ることで政策判断が変化してゆく事も当然のことだろう。次の選挙で支持しないだけである。しかし、重大な政治課題について曖昧な態度を取る事はそれ以前の問題ではなかろうか。
今朝の毎日新聞二面(上)を見ていたら、手元に送られてきた民主党系市議会議員のレポート(下)を思い出した。


この議員はどう見ても「消費税増」に反対なのである。試しに彼の民主系同僚議員はどうなのかと探ってみた。驚くべきことに、と言うべきかやはりと言うべきか「消費税」に言及している議員はいなかった。つまりこれは「ダンマリをきめこんでいる」と言うしかなかろう。【言うも憚られるが彼ら(彼女ら)は消費税増の悲惨な市民の救済相談にその議席営業の発展を目論んでいるのではなかろうか】。三十四万といわれる「民主党員」のどれぐらいが「消費税増」に心底賛成しているのか「小沢問題」に矮小化している場合ではなかろう。
「民主党」は「民主」の看板を詐称している。政党を自認するならば、議員を総動員して「消費税増」がもたらすこのクニの輝かしい未来を語らせるのが「まともな政党」の今やるべきことだろう。

2012年5月1日火曜日

時には咎めを つづき

時には咎めを つづき

新聞の「コラム」は短くて読みやすいので、ついつい目を通してしまう。その影響はかなりのものだろう。しかし、中には「自慢」や「脅し」目的で書かれているものがある。うっかり「へーそうなんだ」と批判なしに頭の片隅に仕舞っていると、それがボデーブローのように効いてくる。
以前「TPP」のことで咎めを入れた。今回は「原発再稼働」で。


要するに「電力の安定的かつ低コストでの供給」が失われれば「日本は空洞化しかねない」との脅しである。
「モノづくりと違い、IT産業は目に見えないが、エネルギー消費量は膨大である。」へーそうなんだ。うっかりしていたな、言われてみれば私の35WのCPUを使ったパソコンはどの位電気を食っているんだろう。わからないけど夏場にはかなり熱くなるのは確かで、それだけ「エネルギー」を使っているのは確かなことだ。ココからは「自慢」になるが、こんなCPUクーラーを取り付けた。これでこの夏を乗り切るつもりだ。


箱を読めば、「Made in China」だって。こうしてみればパソコンの場合「電力」以外はすべて外国産なのだろう。つまり外国の電力を使って製造された物を国産の電力で動かしているということになるだろう。コラム氏はうわ言のように「空洞化」の危機を言い立てるけれども、ここは原発なしの限られた電力で我々は何が出来るのか(作れるのか)。それを追求した方が「現実的」なのではなかろうか。
付け加えれば、この前パソコン先生に自慢した「ニコン」のデジカメも「Made in China」だった。