2012年10月26日金曜日

古典文学 体系

身近の本を燃やしたり水を浴びせたりして無残な事になって、エイッとすべて始末してしまった。こうなってみれば手持ち無沙汰。叔母の家に「岩波・古典文学体系」が有るのを幸いこれをつまみ食いするように読んでいる。
残念なことに、私には古典(古文)の素養は無い。
しかし、「読みにくい」「解りにくい」と投げ出すには惜しいシロモノだった。読んでみるとこれが面白い。
最初に読んだのは『竹取物語・伊勢物語・大和物語』。感想を述べれば、「竹取物語」には「構造」が有る。「伊勢・大和」には構造がない。ということだろうか。このふたつが共にこのク二で読み継がれ語り継がれた事。不思議だな~。

と、ここまで書いたらッ!エクスプローラーに「接続出来ません」と表示された。このUSBの親玉を提供している接続業者にはウンザリしている。永久に無線は有線に劣るのではないか。

さて、気を取り直して書きつごう。
次に『方丈記・徒然草』を読んだ。「方丈記」はあまりの名調子に読む気力が失せて中断。「徒然草」は頭からシッポまで読んだ。実は今朝方読み終えたところだ。これは、このクニの「随筆」の代表とされているらしい。それにしても「メモ」みたいなものもあり。「戒め」みたいなものあり。で統一性は無い。強いて言えば、仏教の教えを基調としているところは統一されているということだろうか。『徒然草』を読んで、一番おもしろいと思ったところは「解説」部分。これを「西尾實」という人物が書いている。面白いと思う部分を書き写す。
「なお、つれづれ草に関する研究書および研究論文は、極めて多く発表されているが、文学としてのつれづれ草の研究史の上で注目されるのは、次の数篇であると思われる。」
として八篇の論文を挙げている。驚いたことにその内のふたつは「西尾實」氏の書いた論文だ。
こうした愚かな自己肯定。それを宥す環境。権威主義。我々がいろんな所で行き詰まっているのは、この辺りに原因があるのではなかろうかと思ったことだ。
「徒然草」と並行して明治二〇年代に書かれた『五重塔』幸田露伴(日本文学全集・新潮社)も読んだ。これは「講談」だな。所々に、優れた比喩表現が有ることを発見した。これが新し文学の芽吹きなのか?
まだまだ、この古典への旅は続けたいと思っている。次は「近松」「西鶴」辺りを覗いてみようか。
いずれにせよ、「読まれる」事よりも、「語られる」事を前提とした文学が、このクニに連綿として続いて来た。という私の認識にそうクルイはなかろう。

と書いて、我が認識を覆す何かを探しているオノレに出会う。



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