2009年9月30日水曜日

言葉を集めて つづく

・ 「コタをカク」
メモ(97.3.22)には「落ち葉や下草などを集める」とある。「コタ」についてもっと知りたいと思い、これまでやってきた手法で当たったが、メモ以上のことは何も解からなかった。
思い屈して数日を過ぎ、やっと気が付いた。その言葉の裏にどんな字があるのか、その言葉はいかなる意味構造の字から発生したものであるかは、明白である必要はないのである。「ある日ある所であるヒトにより、ひとつの言葉が発明され、その言葉が流通する」その時すでに言葉は成立しているのである。それでいい。そののち、メモを見た私が、「コタ」について「わかることができればこのことをもっと知りたい」と思う気持ちは、言葉へのレンアイ感情(しばしば常軌を逸した偏愛)からきているのだ。と思い定めた。
しかし、その後わたしは禁を犯す。このようなスタイルのブログを維持するためには、やらないほうがいいことがある。
1. 日常の暮らしを逸脱して、言葉を集めぬこと。言葉は汲めども尽きぬものであるゆえに、あっという間に私のもつ容量を超えてしまう。
2. ひとつの言葉の詮索(検索)は程々にすべきこと。手元にある辞書の類で済ませること。そうでなければ楽しみの範囲を超えてしまう。
3. その言葉を発した本人に、改めて意味を問わぬこと。言葉は変化してゆく物ゆえに誘導審問になるおそれがある。頼るものは、つたないメモのみ。
これを守っていれば、三郎(サブロウ)は候(ソウロウ)がすべった。などと言い出す事はなかろう。
1. と2.の禁を犯した。
1. は近くのK女史に「山に行って落ち葉を集めていた事、あれを、どう言っていたか?」と聞いた。答えは「マツゴ(松ご)をかきに」「熊手でマツゴ=松葉を掻いて、それから熊手でそれをたたいて、ひとかたまりにして背負って帰っていた。ウチはバンジョウが下手だったから、途中でマツゴがこぼれて~」「バンジョウ?それはなんで?」「あんたバンジョウも知らんの」という具合で、汲めども尽きぬ世界がそこにはあるのだ。ちなみに、持ち帰ったマツゴは焚付にしていた。松は油分が多いので火付きがいいのだ。
2. は図書館に行った。やさしい司書の女性はしばらく背中をみせて、あれこれ調べてくれた。最後に広辞苑を調べて「わかりません」とすまなそうで、こちらが恐縮した。
以上が「コタ」についての私の報告である。3.については禁を守っている。憶えていれば、今年の正月には聞いてみよう。

付記 後日思い立って「バンジョウ」を調べてみた。すると「バンゾウ」という言葉は熊手のことだとある。つまり、名詞バンゾウは、それを使ってする行為を取り込み、主にはそちらで使われていたわけだった。

2009年9月27日日曜日

言葉を集めて つづく

・ 「ダチュウ」
「道中」。あるいは、「途中」。97.3.21。これまでにも参考にしてきた、『ほんにのうやー奥備中の方言』竹本健司著 備北民報社。によれば、「途中」の事を、「トチュウナカ」と言うとある。「ダチュウ」などと忙(せわ)しなく、くるくる舞いしている瀬戸内に比べれば、なんと優雅なことか。生まれて、生きて、死んでゆくのがヒトの生涯の究極のデッサンならば、この命「トチュウナカ」と心定めて優雅でありたい。

2009年9月26日土曜日

言葉を集めて つづく

・ 「~ノダイハナイ」
~の代は無い。意は価値が無い。直すより買う方が安い「直して使う代はない」家電製品はかなり前からこうなっている。それはまた大量の投棄を意味する。合法のそれであろうと、不法のそれであろうと。
方言ではないが使われなくなった言葉。

言葉を集めて つづく

「ウスガミをハグヨウニ」
薄紙を剥ぐように。年90を前にKばあさんは、床に臥せっていた。見舞いに訪れた私が「どうですか」と聞いたら、「薄紙を剥ぐ様に良うなりょうる」と言う。少しずつ、ほんの少しずつ、回復に向かっているようなのだった。メモ97.2.2

言葉を集めて つづく

・ 「モチイト」
「モチート」とも言う、もう少しという意。おおむねよろしい(是とする)、しかし、もちいとこうしたらどうか、もちいとこうはならんか。と使う。たとえば、「もちいと安けりゃ、買うたのに」
方言圏の中では、難なく耳で捕らえることができるこの言葉も、圏外のヒトには難解なのだろうか。

ぜんぜん、別の話だけれど、この数日パソコンが故障していた。パソコンの先生から「いじっちゃいけん」と言われていたのに、突付きまわしたのが主な原因だった。進退窮まって、先生のところに持ち込んだ。一晩の入院で、このように不死鳥のごとく、復活した。さほど不調でもないものを、いじりまわして壊してしまうこの私の性癖を、ヒトは不治鳥と呼ぶがいい。いずれにしても、先生には忙しいところを大変な手間をかけてしまった。このブログをかりて、お礼を申しあげる。 読んでないか。

2009年9月23日水曜日

言葉を集めて つづく

・ 「ヤイトノフタヲスル」
焼処の蓋をする。「ヤイト」は灸(きゅう)のことである。メモには「つごうの悪いことを隠すようなこと」とある。あとが残るようなヤイトは姿を消した。おそらく、「蓋をする」の意は、ヤイトのあとをかくすようなまねをする、ということだったのだろう。灸の痕をつけたヒトも居なくなったし、もう聞くことはないだろう。

さて、「ヤイトの蓋をし」たり、「ヤイトをすえ」たり「すえられたり」、我々の暮らしを彩ってきたヤイトであるが、最近使われた例は、9月の政権交換の時に「有権者は自民党・公明党にお灸をすえた」があるようだ。いまどきの灸は痛くも痒くもなくほんのり熱いぐらいだそうだからなと思い、そういえば、この私も、「ヤイトをすえるぞ」と叱られたのはいつのことだったか。

言葉を集めて つづく

・ 「シンセツにする」
親しくする。仲良くしている。親密なあいだがらである。という意味。どう書くか解ったのはつい今しがたである。「親接」。このメモには、めずらしく日付があって、97年1月とある。ずっとこの言葉は「親切」と書くと思っていた。しかし、「弱い立場にある者の身になって~」という意とは違う、と調べてみた。分厚い辞書には、しんせつの項に「親切」「深切」「親接」があって、私が12年前に聞いたのは「親接」であったと知った。ほとんど使われないのはおそらく、同音異語に強力な暴れん坊「親切」があって紛らわしいからなのだろう。「あのヒトとは親接にしている」と使う。

2009年9月22日火曜日

言葉を集めて つづく

・ 「マウマウ」
・ 「ハウハウ」
それぞれに、「舞う」、「這う」、である。それぞれの意は説明するまでもないだろう。ところが、この既知の親しい言葉が、ふたつ繋がれば変身するのである。
「マウマウ」は向こうからやって来るヒトを形容する。あわてて、あせって、尋常を失って、困り事を抱えて。マウマウ相談に来たのだ。
「ハウハウ」は己に属す。楽々するのではない、なんとか、やっとの思いで、やりつつある。あるいは、幸運に恵まれてやり遂げたのだ。ヒトはどう思おうと。
したがって、例えば、「他者Aが、ある日マウマウ相談にきたことを、私Bは、ハウハウ解決した」のようになるだろう。
私には、教養なるものはない。であるから、形容している、動詞である、みたいなことは残念にして解らない。しかし、このコトバの変身にはココロ動かされるのである。マウマウもハウハウも近頃は聞かない、我々の失いつつあるものは、取り返しの付かないものであるのかもしれない。

メモについて

たびたび「メモによれば~」と書きつけている。メモの概要を記す。
1.言葉を研究するのが目的ではないから、数ページ前に書き付けたコトバをまた、新たに書き付けてもいる。つまり、見直しは無い。2.サイズは手のひらA6版。前記のように、聞きとめた順に記述している。3.記述の基準は、きわめて狭い方言圏に住む者が交わすコトバであるから、見聞、側聞したなかで、私が「へえ~」と感じ、意識に取り込んだコトバということになる。

このメモを基に、「言葉を集めて」は1.書き付けた順に記述している。したがって、重複は恐れない。2.また、記述してあるコトバを気分しだいで、省いてもいる。たとえば地名の「ミナギ・美袋」、メモには「漲る=みなぎる。水の勢いが盛んで、満ち溢れるさま」。たとえば「日照雨・ソバエ」、メモには「これは、安岡章太郎随筆集3、p290に出てくる。小さな国語辞典には無い。我々の地方では使う。軽い雨、パラパラと降る雨と言う感じで使う。雨であるのに陽が照っているのは『キツネのよめいり』という」とある。

2009年9月21日月曜日

言葉を集めて つづく

・ 「槌(鎚)よりも柄が重くなる」
 ツチよりもエが重くなる。 メモには、「主従の逆転の様。重さの比喩をつかって立場の入れ替わった様を表す。」とある。年月を重ねるにしたがって、子は親より、息子は親父より、妻は夫より、重くなるようなのだ。

2009年9月20日日曜日

言葉を集めて つづく

・ 「マク」
この言葉とは、町内の寄合いで出会った。もう20年も前の事になろうか。今でもそうだが、当時はさかんに産廃処理業者が、過疎の地域を狙って処理場を作っていた。都会や工場から出る、危ないもの、目障りなもの、臭いもの、つまり身辺に置いておけない物を大量に持ち込むのであるから、さすがに鈍な行政も地元住民の同意を業者に求めていた。地元にしてみれば、迷惑なだけの話だが、なかには金に転ぶ者もいたようだ。
協議が進むにつれ、協定文書の中に何を書き込もうと強面の業者がそれを守る意思のない事は、うすうす解ってきた。行政もあからさまに、協定書の有無だけを問題にしていた。そこで出てきたのが、この言葉「マク」である。「公正証書をマイたらどうか」。どういう字が当たるのか、「任く」か「設く」か「巻く」か、私には解らない。公証役場の辺りではこの言葉は、一般的なんだろうか。「金がかかる、誰が払う」の一言で、否決されたように記憶している。
さて、産廃処分場だが、あれからずっと、この地域の家々の上に騒音と臭いと煙を出し続けている。当時、寄合いに参加していた人々も大半が鬼籍簿に入った。
話はすべるが、農業関係のブログに産廃の話が出てこないのを、不思議に思っている。どうしてなのか、あなたはどう思われますか。

2009年9月16日水曜日

言葉を集めて つづく

・ 「オオゲンタイ」で
メモには「遠慮することなく」とある。どんな字が当たるのか、「おお」は強調だろうから、「けんたい」が問題となる。あれこれの辞典に当たってみた。『広辞苑』に「献替」があった、意は「目上の者に可否を言上すること」とある。これだろう、「大献替」。
今でも、そうであるようだが、「オオゲンタイ」にものを言うのは、たいへんなことであったのだ。私のよく使う「増長慢・ゾウチョウマン」とは少し違うようだ。

2009年9月15日火曜日

ブログの孤独 つづき

・ 「ヤウツリ」
家移り。引越しのこと。
思うがままに操れないのがパソコンである。その上、スイッチを入れても、ナンノコトヤラ?とサボられてはお手上げである。詳しい者に聞けば、「三年たったら、タダの箱」と言う。老眼鏡ごしに、ためつすがめつして見れば、この物は、6年前に製作された物と判明した。「ヤウツリ」をすることにした。
そうした後、の「家」でこれを書いている。今度の家は前の4倍の広さである。周りはいろんなラベルを貼ったダンボール箱だらけだ。パソコンの引越しがこれほど大変だとは思わなかった。電気をひき、新聞もとり、郵便物が届くようにするだけで一日かかった。これからは、実際の引越しと同じに、何を捨てるかで当面は悩むことになりそうだ。いや、正直な話、全部捨てても構わないのだ。唯、鍋釜と米と味噌醤油ぐらいは手元にという欲が、ダンボール箱を積み上げさせている。おそらく、開けることなく捨ててしまうダンボール箱もあるだろう。
それはそうと、引越しをしてみて、これだから「パソコンは面白い」。と思うか、また逆に、これだから「パソコンはダメ」。と思うか、そのどちらかに分かれるだろうと考えた。私の思うところ、前者はすでに、パソコンの不調を喜びと感じる倒錯の世界に踏み込んでいるのだ。
話はすべるが、ヒトの扱う道具の良し悪しの基準は、「コトバ」がそうであるように、その「存在を意識することなく」使える。ということにあるだろう。それからすれば、パソコンはまだまだの道具なのだ。と考えた。

2009年9月12日土曜日

ブログの孤独

人生における喜びをふたつ挙げよ。という質問にはこれまでも、そしてこれからも、御目にかかる事はなかろう。しかし、仮にそう聞かれたら、わたしは即座に、「食わせること」と「養うこと」と答えるだろう。ヒト人類の仕事はつきつめれば、次の世代を育て上げることだから、下衆の私にも、先のふたつに喜びを見出すのだ。いや、目線を遠く延ばせば、ここ数万年のそれがなければ、私もあなたも存在しはしない。美の実現、正義の実現、真理の追究などなどは、それができてからゆっくりやればよろしい。
ところで、今日(9.12)の新聞各紙はそろって「高校生の求人半減」を報じている。こんなことは、みんな肌では感じていたことでも、数字にしてみるのは役所(厚生労働省発表)しかないよな。と思いながら読んだ。4年ぶりだそうだ。有効求人倍率が1.0を切るのは。そ の数値0.71。地元の地方紙は、0.67と報じている。
つまるところ、この社会は、百年に一度ではなく数年に一度は、経済の痙攣で後継者を養えなくなるようなのだ。どうしてそんなことになるか、ゆっくり考えるとして、私にはひとつのイメージがある。暴れまわる経済の後を、汗をかきかき追いかけている政治というイメージが。

言葉を集めて つづく

・ 「コメをフム」
「米を踏む」である。意味は精米すること。あまりに当たり前なので知らないヒトもいるかも知れない、我々の食べている「ご飯」は、もとは稲の種なのである。煩雑になるので省いて話せば、種の、殻を取ったものを玄米、その玄米の皮を剥いて(精米して)白米なのである。この言葉を聞いたのは一度きりだ、私と同世代の女性が「エ~、言わない?家のあたりじゃ、言ってた。」と教えてくれた。想像するにおそらく、臼のようなものに玄米を入れて、足で踏んで精米をしていた時代があったのだろう、それも女のひとの仕事として。今では道具も記憶も失われているが、言葉だけがこうしてかろうじて残っている。

2009年9月8日火曜日

言葉を集めて つづく

・ 「サブル」さぶる
メモには「けずりとること」とある。これが正しい意味か確かめようと、方言辞典を引くと、削り取ることは「コサゲル」「ハツル」と言うとある。さて、どうしたものか。
辞典によると、似ている 言葉「サビル」は選り分けるという意があるらしい。考えてみれば、全体から部分を選び取る行為は削り取ることでもある。わたしの聞いた「サブル」は、どうやら「選り分ける」に近い「けずりとる」だったのか。遠い昔の話だ、確かめるすべはない。
とここまで書いて、同じひとつの行為(動作)に複数のコトバを用意することは、有り得ないのであるから、サブル、サビル、コサゲル、ハツルはそれぞれに違う行為を表しているはずなのだと考えた。今の私には「サブル」について此処までしか分からない。

・ 「ホケ」
ゆげ。湯気。のこと。「ホケ」は不思議な物質、ミズ(水)のひとつの表現にすぎないのだけれど。冬に積み上げた堆肥が発酵してくると、淡い光のなかにホケがゆれながらあるのだった。

2009年9月7日月曜日

言葉を集めて つづき

・ 「虻(アブ)は見えずに蚤(ノミ)が見える」
メモには、「矛盾したようすをあらわす。S氏より」とある。この項を書き始めた時には、「木を見て、森を見ず」の言い換え版である。と思っていたが、しだいに違うことに気づいた。「木を見て~」は、些細なことにこだわって、全体を見失っている、という意だろう。部分(木)は全体(森)に属す。ここには、矛盾はない。能力にもよろうが、森が見えればいいのだ。しかし、「虻は~」は、蚤を見る視力を持ちながら、それよりも大きな虻は見えていない、そんなこと有り得ない、矛盾している、おかしなことだ。という意なのだ。ここには、虻は見えているのに、見えないと言い張っているに違いない、という意もあるだろう。
ことわざ(諺)は、これまで「人生の知恵の表現」「処世のための教訓」である。と言われて来たが、私は、矛盾を鋭く指摘し、視覚化する役割があるのだ、と考えた。この世は、横槍、強欲、理不尽な支配、無理偏にげんこつの教え方、などなどが矛盾をまきちらしている。これら聞く耳を持たぬ矛盾の元凶に、私たちは、せめて「ことわざ」だけでもと、立ち向かってきた歴史があるのだと、思いたい。
話は変わるが、多彩な方言の使い手は、また豊かな諺の持ち主でもある(あった)。とこれを書きながら気づいた。

2009年9月5日土曜日

言葉を集めて つづく

・ 「ゴダ」
むちゃの事。これはよく聞く言葉。もっとも、これを使うヒトはやはり年配が多い。「ゴダばあ言う」「ゴダをくる(繰る)」と使う。いったいどういう字が当たるのか。仏教用語に有るような気もする。
と書いてのち、辞典を繰っていると「御託(ごたく)」に出合った。これだろう。意は、「くどくどと自分勝手な~」とある。御託は並べるが、ゴダは繰るのであることを発見した。私のような下衆は「ゴダ糞を」と言うがこれはやりすぎ。

言葉を集めて つづく

・ 「サカオ」
メモには「へび、無毒の大きめの蛇のこと。ハミ(マムシ)とは区別して用いる。」とある。メモに記して後、この言葉には出会ってないようだ。蛇に会う機会が少なくなれば、区別する必要も生まれぬわけだと考えた。

言葉を集めて つづく

・ 「何ができょうるんで」・「ちんばは宵から」
百姓が野良着姿で会えば、こう挨拶する。なにをしているの、何をしようとしているの、の意。これは、百姓仕事が(ジャズの演奏の様に)多様で変化に富んでいるからなのだ。トヨタの工場の前で「なにができょうるんで」と聞けば、叱られるだろう。Mさんは、家の裏口出たところの私に、そう聞く。「そろそろ、蒔きものをせにゃあ、と思うとる」と答えると、「ちんばは宵からじゃ。」と言う。時刻は日暮れ前なのだ。後姿を見ると別に足を引いてるわけではない。この言葉は、歳をひろって、あちこちが痛くなりあまり働けなくなった者は、野良に出るのも夕方になってからなのである。という意。
ちなみに、つれあいは百姓の子であった。農繁期の働き方を聞けば、朝飯前に家近くでひと働きして、それから朝飯、遠くで仕事をする時には、おやつと弁当をもって、10時におやつ、昼に弁当、それから3時におやつ、帰宅して晩飯。であったそうだ。5度の栄養補給は、そうでなければ体がもたない、過酷な労働を物語っているだろう。私はそれを支えていた、価値意識に今は興味を持っている。

2009年9月4日金曜日

言葉を集めて つづき

・ 「デカイ」さん
「出買い」さん。意外なことに、出買いが、字引には載ってない、一般では使われてはいなかったのだろう。メモには「小売店や個人から注文を受け、商品を仕入れてくることを生業としている人。頼めば荷物を届ける宅急便のようなこともしていた」とある。
自家用車が珍しい時代、(指折り数えてみれば、つい40年前はそうだった。)頑丈な自転車の後ろにリヤカーを付けて、砂利道をガッタンゴットンと運んでいた。子供心に、重たかろうとリヤカーを皆なで押したこともある。今から思えば、迷惑なことだったのか。いつ頃、姿を消したのだろう、おそらくオートバイ(カブ、1958年)の出現、オート三輪(ミゼット、1957年)の出現の後だろう。出買いさんは「御用聞き」だった。他に「行商」のヒトもいた、魚屋さん、雑貨屋さん、みんな自転車に商品を積んでやってきていた。どうしてそう呼ぶようになったのか「ヨゴレのおじさん」は人気があった。彼が来なくなってから、かれの姓は○○だったと聞いた。
「出買い」「行商」だけではない。この二百戸、五百人程の地域で小売店を記せば、自転車屋、酒屋、電気屋、豆腐屋、百貨店のような雑貨屋、があった。うどん屋、パチンコ屋、鍛冶屋まであったと先人は言う。みんな姿を消したのと前後して、数キロ先に○○マートが出現し、それは程なく、また数キロ先の○○ストアの出現によって姿を消した。こうして、豆腐一丁を買うにも、バス(一日、数便しかない)に乗って行かざるをえぬ年寄りが出現することになった。これが近代化なるもののひとつの側面である。
先日、つれあいは、街なかに突然に出来た空き地を見て、「なにが、在ったんだっけ」と聞く。昨日まで確かに見ていた建物が、私にも思い出せない。言葉はその場かぎりに空に消えてゆくものだけれども、今の時代は、街も同じ運命にあるらしい。

2009年9月2日水曜日

言葉を集めて つづく

・ 「銭は暗闇にはおらん」
ことわざ。「お金をかければ、それなりの物やサービスが手に入る」という意味。諺辞典には「安物買いの銭失い」がある。このふたつは同じようだがどこか違う、「安物買い~」は戒めが強いのだ。いや、それだけといってもいい。一方、「銭は~」は、共感や教訓を含んでいるのだ。「銭は暗闇にはおらんので」「銭は暗闇にはおらんかったな」としてみれば明らかだろう。比喩の「暗闇」が効いている。この諺をもって、お金は昔から闇に潜ることを好むものである。とするのは穿ち過ぎだろうか。

言葉を集めて つづく

・ 「ドカスカ」
凸凹。デコボコは、すべての平面に使われるようだが。一方「どかすか」は、栽培植物の生育のありさまに使う。「ウンカが来て、今年の稲はドカスカしとる」と使う。他に「ドッカン、スッカン」という言葉があるが、これは、車で悪路をユッサユッサ走った時に使われたりしている。いっしょのようで、ふたつは違うみたいなのである。

2009年9月1日火曜日

政治の季節に つづけない

「ブログのコドク」
政治の季節だ、でもこの季節風は三日と吹かない。で、吹き止む前に書くことにした。さあ始めよう。
チャラチャラしている口ぶりは大嫌いだ(文章も)。でも「サザン」は好きだ。なかでも『ツナミ』には数年間ハマッテいた(今でも聞き返しては歓心している)。こんなことを書くのは知ったらしいチャラチャラ言葉をさんざん聞かされて来たからだ。どこで。選挙で。
「ブログのコドク」としたこれを書きつづけて政治の話をしてみたい。しかし、政治の話しは難しい。たとえば、物体であれば、横から見たらこう見えた、上から見たらこう見える、と記述できるが、政治はひとつの現象であるから(移ろい流れてゆく現象にすぎないから)捕らえどころが難しいのだ。 確かに議員は存在する、議会棟もある。法律もある、役人だっている。しかし、それらをひとつの鍋に入れてかき混ぜたところで、そこに政治なるものは産まれないだろう。 
それから、政治家に関する話はしたくない。誰が落撰しただの、何票あっただの、後援しているのは誰だの、家系だの、二世だの。ここひと月余り、世間を席捲していたそんな話(たとえば、ブログで流通している政治裏話など)にうんざりしている。政治なるものは詳しくなればなるほど、言い換えれば、政治通(オタク)に成ればなるほど、本質から離れてゆくもののようだ。政治家の言葉が不思議とどれも胸に届いてこないのは、彼らが政治通であるからなのだろう。
とここまで書いて、それでもブログらしく今回の衆院撰挙(結果)について書いておこう。できるかぎり、簡単にしたい、箇条でゆく。せいぜいうんざりして下さい。
1. 変化の面
50数年つづいた自民党(1955~)の終わりの終わりであった。この期間はこの列島にとっての史上最大の激変の時代だった。そこに在っても(あるからこそ?)あいも変わらず政治権力の中心に居続けたこの党の命脈がつきた。このこと。最後の10年は公明という名の松葉杖が手放せなかった。皮肉にも終わりのアリアを歌い始めたのは、策士コイズミ。奇策により延命を図ったが、時代遅れのプレスリーでしかなかった。後に続いたものは演歌(時により軍歌)しか歌えなかった。このまじめでみじめな無能。なによりこの党を生かしめてきたのはヌエ(鵺)のごとき、変幻自在の変身能力であったのだが。
2. 変わらぬ面
当選した議員の数だけをみれば、自民と民主がところ位置を入れ替へそれに公明の減少分が民主に載ったと読み取れる。その他、有象無象は、変わらずということだろう。つまり、既得の権利(利権)に否、既得の制度の枠組みは否、それを保守してきた官僚(役人)どもは否、という構図は、コイズミ郵政選挙と同じなのだ。つまり今回も(しがみついている奴は引き摺り下ろせは)変化なし。
こうなったのは、「閉塞感」なる曖昧模糊とした言葉によって表現されている、ある感情の共有があるからなのだろう。この感情が醸成された背景の分析はムズカシイ。私は「不作為の罪と罰」を思うがこれはまた別の話だ。
3. 選挙の制度
話は少しすべる、民主主義とは何か。これは群れて暮らすヒト人類にとって永遠のテーマであろう。制度でこれを保障するとすれば、いかなる制度が適当であるか。これについて深刻な材料を示したこと。「小選挙区、比例代表、」という制度は、穏健なアメリカの二大政党制に憧れて導入したのであろう。しかし、結果は激変(ダブルスコアー)を将来した、それも二回続けて。この目論見違いについての論議がされるか否か。このことが、本当は、このクニの民主主義の成熟度を計る指標になるのだろう。このこと。例えば「中選挙区であったならば」のシミュレーションを誠意ある専門家に聞きたい。
4. その他
「有象無象」などと書いて失礼をしたが、これまでの革新政党は、これからが正念場なのだろうと考えた。今、彼らはそろって「是は是、否は否」、と言っている。(この言葉は、公明党の長年の口癖であった。フィラリアに罹った犬みたいに、この傷つけられた言葉を使うべきではなかろう。もっとも、これは私の感性に属することである。)当面は仕方ないとしても、この論理の帰結は相手なければ是非もなし。であることに気づくべきだろう。政治が「未来予想図」を示すことであるのであれば、「有象無象」政党は蛮勇を奮い、未踏の領域に踏み込んで、既得のありふれた(手垢のついた)イメージを超えたものを提示できるか否か、が勝負になるのではないか。それができなければ、絶滅危惧種に指定されかねないだろう。余計を付け加えれば、革新は保守の対立概念である(でしかない)から、このあとの、「革新」の棲息のあり方は変わらずにいることはできぬだろう。このこと。
5、付録
歴史はこう教えている。前世紀の最大の負の遺産、ファシズムや全体主義は、閉塞感が蔓延する社会に、スマートで合理的で新しく、モダンでお洒落な衣装をまとい、その上、陽気な歓喜とともにやって来たのだと。こんな教えも忘れないでおこう。