その向こうには
吉本隆明氏が亡くなった。今では廃(すた)れたが「疎外(そがい)」という言葉が盛んに飛び交っていた頃のことだ「その向こうには何かがある」と彼の『共同幻想論』を読んだことがある。散々、意味ありげなイメージでもって連れ回され、さいごに「国家は消滅する(これは記億で書いている)」と結ばれ「ヘーッ」と感心して、それ以後彼の書くものは敬遠してきた。大新聞各社が「追悼」の記事を盛んに載せていたけれど、どれも「ピンボケ」だった。都合のいい時に「つごうのいいコメント」をもらうだけの相手で、本当に彼の書いたものを読んだ記者はいなかったのではないか。
「いいお父さんだった」。とは、彼の娘、吉本ばなな氏の追悼であるらしい。そうだったのだろう。ヒトは食うためには何でもしなければならない時がある、たとえそれが衒学であったとしても。「いいお父さんだった」頑張って子供を育てたそれでいいじゃないか。
思想家であれ、百姓であれ、「これ」と思った道具で、「これは」と思う土地を耕してみる他に、どんな生き方もありはしないのだ。彼は彼の道具で彼の土地を耕した。作物は育たなかったが。それでいい。
2011年9月13日火曜日
「飯待つ間」の月
正岡子規。「子規」と読むだけで、あるイメージがそれぞれの頭に湧くほど有名だ、「原発」と読めば今では一定のイメージの湧くように。彼が負けず嫌いの競い好きで、そのうえ説教大好きで、ヘキヘキするほどの強情持ちで、なお優れた随筆を残したということは余り知られていないのではないか。
私の認識が間違っていればこんなこと書く事は無駄なことなのだけれど。
『飯待つ間』に「句合の月」というのがある。「句合(くあわせ)」という俳句の出来を競う会のために彼が「句」の想(題は月)を練る。その過程の一部始終を書いたものだ。一読して、こんなに自由に書いてもいいんだ。こんなに奔放に、にも書けるんだと感心して忘れることなくいた。明治31年というから1898年、今からざっと110年前に書かれた文章だけれど、古びることなく益々新しい。
「先ず最初に胸に浮かんだ趣向は」「こういう趣を考えたが、時間が長過ぎて句にならぬ。そこで」「とやってみた」「とんでもない句だから、それを見捨てて、ふたたび」というような調子でとめどなく彼は考えを巡らせる。彼についてゆけば、森の小道に誘われ、大河の辺に連れてゆかれ、小舟に乗せられ、見れば傍らに酒徳利があったりする。彼は水滸伝の薀蓄を始めるけれど、真面目に聞くことはない、どうせまた場面が変わるのだから、その後は「イギリスの埠頭場へ持って」ゆかれる。そこで、夫婦の別れのシーンにつき合わされ、『「桟橋に別れを惜しむ夫婦かな」とやったが、月がなかった。』と、ウッカリ間違いにまで付き合わされるはめになる。最後に先生「こんなに長く考えたことはなかった。」「これがよほど修行になるような心持」「此後もこういうように考えて見たいと思う。」とご満悦のようすで、あくまで自分勝手なのである。
世の中は広いようで、この子規の文章を好む者もいるらしい。ここに全文が載っていた
子規に触発され、110年後に書いた私の句を載せてみよう。編集権は私にある。文句があるならポチットすればいい。
「夜半に目が醒めゴソゴソ起き出す。秋なのでか、ゴキブリがやたら目につく。「不殺生」と戒められているが、ゴキにはこの箍(たが)が外れてスリッパを振るったところだ。今日の一句『名月屋団子供えてゴキと見る月』」
壊れてきている、風呂にでも入るか。
壊れてきている、風呂にでも入るか。
2011年1月12日水曜日
「火の用心」のこと
「火の用心」のこと
年末の事だ、例年のように消防団と子供会が「火の用心・カチカチ」と拍子木を打ちながら町内を廻った。家にいてそれを聞いていると、或る事に気付いた。それを書いてみたい。
「消防団」のそれは「ヒノ・ヨウジン・カチカチ」である、「ヒノ」で切れて一拍おいて「ヨウジン」それから、拍子木の「カチカチ」、「ヒノ」で明確に切るから「ノ」の部分は極端に音程が高い。
「子供会」のそれは、「ヒ・ノ・ヨ・ウ・ジ・ン・カチ・カチ」とあくまで平坦である、切れ目もない。お母さんの声と子供の声が混ざっている、リードしているのはむろん母親の方だ「ひ・の・よ・う・じ・ん・かち・かち」同じリズムで行進している。
この違いはナゼ起こるのか、方や「五・七・五」世代のリズム。方や「エイトビート」世代のリズムか、と考えてみたが、はかばかしい答えは得られなかった。
2010年12月7日火曜日
「よろしいか」の受難
「よろしいか」の受難
本屋に行ったついでに、少し遠くのスーパーで物を買った。いつものように、レジで「よろしいか」と一声かけて支払いをしようとすると、「なんですか?」とレジ嬢の顔の真ん中に「?」が付いている。彼女はどうやら大陸からきた人みたいだ、胸の名標を見れば画数の多い一文字である。「日本語わからない?」とつられて、大陸の抑揚で聞けば、「わかります!」とこれは島国の抑揚で正された。「よろしー?」と聞かれて、「よろしいか、はこんにちは、みたいな挨拶で、たとえば、こうしてお金を払った後は、おせわさまと言う」とやっていると、レジ嬢は、私の後に並んでいる常連客に、「タスケテ」と視線を送っている。
いつもいつも、「頼もー」みたいな関所挨拶をやっていると、忙しないグローバルの波に乗り遅れているみたいだ。しかし、あまり度外れて遅れていると、いつのまにか先頭を走っている事もあるんだぞ、トラックレースみたいに。
負けず嫌いで利発そうな娘のことだ、今度の機会にはむこうから「よろしいか」と言ってくれるに違いないとおじさんは、今から楽しみにしている。
2010年11月7日日曜日
一億総懺悔
一億総懺悔(いちおくそうざんげ)
さっきまで、NHKスペシャル「借金862兆円はこうして膨らんだ」を見ていた。大蔵省の関係者の証言は、時代が下るにつれて、発言に歯切れが悪くなっていった。このクニのエリートは時代を見通す能力も、またその能力の無さに責任を感じる感性も無いことが解った。番組のまとめに、「増税を拒否してきた国民」にも責任がある。と結論づけていたが、どこかでこの論理は聞いたぞ、「一億総懺悔」。敗戦後この論理が戦争責任を曖昧にする、役目を帯びて流布された事はご存知だろう。またぞろ同じ論理にだまされるほど、国民は愚かであろうか。
それにしても、税の話題は税の本質、「所得の再分配」をどうするのかということを忘れたとたんに、こんな乱暴な番組になってしまうと思ったことだ。彼らの否定する「増税反対」の国民世論は、「税の公平な負担を」というのが主張だったはずだ。プラカードの日本語を読みとれぬほど彼らの言語能力は低下しているのだろうか。
最近の世相に目を転じてみれば、中国、ロシアに関しての反応もそうだが、冷静を失っているのではないのか。税に関してもまた、冷静な論議も出来ないほどのこのありさまだ。借金の額の絶望的大きさもさることながら、私はそのことの方が心配だ。
2010年9月1日水曜日
会見
10.8.31.夕方の事、晩飯の仕度をすませ、テレビをつければ、話題のヒトがフラッシュを浴びている。
話の節目に「が」を連発して10分は喋っていたのではないか。数十人の記者を前に、テレビカメラも据えて。
(選挙に)出るか出ないか。それだけのことを言うのにこれだけ費やした政治家を見たのはおそらく初めてのことだ。
まさかではございますが、「出ます。出る理由は~」で始めると、客(記者)が帰ってしまうことをおそれたのか。
「簡単ではございますが、これをもって出馬の挨拶と」で締められると後ろにバッタリ倒れたところだったが、「長くなりましたが~」で終わった。
自覚はしているのだ。わかった上でのこの焦(じ)らし方。豪腕と称せられる彼の能力について私は知らないが。このクニのヒトビトはいつまでこのタイプの政治家と付き合うつもりなのだろうか。
それはそうと、テレビで「晩飯」のことを「夜ごはん」と表現するのはどうしてなのか、「ばんめし」下品ですか。
話の節目に「が」を連発して10分は喋っていたのではないか。数十人の記者を前に、テレビカメラも据えて。
(選挙に)出るか出ないか。それだけのことを言うのにこれだけ費やした政治家を見たのはおそらく初めてのことだ。
まさかではございますが、「出ます。出る理由は~」で始めると、客(記者)が帰ってしまうことをおそれたのか。
「簡単ではございますが、これをもって出馬の挨拶と」で締められると後ろにバッタリ倒れたところだったが、「長くなりましたが~」で終わった。
自覚はしているのだ。わかった上でのこの焦(じ)らし方。豪腕と称せられる彼の能力について私は知らないが。このクニのヒトビトはいつまでこのタイプの政治家と付き合うつもりなのだろうか。
それはそうと、テレビで「晩飯」のことを「夜ごはん」と表現するのはどうしてなのか、「ばんめし」下品ですか。
2010年5月3日月曜日
言葉を集めて つづく
・ 「ソウシタラ ココデ サヨウナラ」
鉄道駅とか、バスステーションで聞いたのなら、2010.4.30のメモにはしなかっただろう。立ち寄ったホームセンターの前で聞いたコトバ。初老の女のひとは、こんな言葉を使っていた。「バイジャ」みたいな言葉は使わないみたい。
出会いと別れで人生は出来ていると、ちまたにあふれる恋歌は教えるけれど、こんなに丁寧に別れたいものだ。
鉄道駅とか、バスステーションで聞いたのなら、2010.4.30のメモにはしなかっただろう。立ち寄ったホームセンターの前で聞いたコトバ。初老の女のひとは、こんな言葉を使っていた。「バイジャ」みたいな言葉は使わないみたい。
出会いと別れで人生は出来ていると、ちまたにあふれる恋歌は教えるけれど、こんなに丁寧に別れたいものだ。
2010年4月8日木曜日
ブログの孤独 つづく
座右の銘
どう読むのか、「ザウ」と読んできた。「ザユウ」と辞書にある。意味は、「向上心のある者の、戒め、励まし」らしい。
さて、今度は私の「ザユウノメイ」を披露する番だ。最近書き付けた銘。「いやなことはしない」「したくないことはしない」「やりたくないことはしない」「いやになったらやらない」まだあるぞ。
正気か、と聞かれれば、しごく正気なのである。
それはそれとして、「みんなの」だとか「たちあがれ」だとかこのクニの政党の名前が読み易くなってきた。これはみんな投票有権者向けだろうから、有権者は「ひらがな」しか読めない、解らない、と思われているのだろうと思ったことだ。この解釈が当たっているのであれば、このクニは、極めて深刻な幼児化現象に立ち至ってる、と考えるべきなのだろう。しかし、名前だけでは何を目指す政党なのかますます解らない事も確かで、幼児化した?有権者には到底無理だろう。
私の、ひらながのザユウノメイよりこの事を「正気か」と問ってもらいたい。
ここからは、冗談だが、「しじゅう民主党」とか「こうみょう党」とか出てきてもおかしくない。せめて表札ぐらいはしっかり掲げたらと思う。たとえば「共産党」とか「愛国党」とか。「社会民主党」なんかもはっきりしているぞ。
余計を付け加えれば、「たちあがれ」と言う、当人の立ち位置は、どこにあるんだろうか。泥沼の中でもがく者を励ます者の足には泥が付いてないことがあるよな。
どう読むのか、「ザウ」と読んできた。「ザユウ」と辞書にある。意味は、「向上心のある者の、戒め、励まし」らしい。
さて、今度は私の「ザユウノメイ」を披露する番だ。最近書き付けた銘。「いやなことはしない」「したくないことはしない」「やりたくないことはしない」「いやになったらやらない」まだあるぞ。
正気か、と聞かれれば、しごく正気なのである。
それはそれとして、「みんなの」だとか「たちあがれ」だとかこのクニの政党の名前が読み易くなってきた。これはみんな投票有権者向けだろうから、有権者は「ひらがな」しか読めない、解らない、と思われているのだろうと思ったことだ。この解釈が当たっているのであれば、このクニは、極めて深刻な幼児化現象に立ち至ってる、と考えるべきなのだろう。しかし、名前だけでは何を目指す政党なのかますます解らない事も確かで、幼児化した?有権者には到底無理だろう。
私の、ひらながのザユウノメイよりこの事を「正気か」と問ってもらいたい。
ここからは、冗談だが、「しじゅう民主党」とか「こうみょう党」とか出てきてもおかしくない。せめて表札ぐらいはしっかり掲げたらと思う。たとえば「共産党」とか「愛国党」とか。「社会民主党」なんかもはっきりしているぞ。
余計を付け加えれば、「たちあがれ」と言う、当人の立ち位置は、どこにあるんだろうか。泥沼の中でもがく者を励ます者の足には泥が付いてないことがあるよな。
2010年3月21日日曜日
ブログの孤独 つづく
白菜の「トウガタッタ」
食い残した白菜の芯が伸びて花が咲いている。菜の花だ。
中はどうなっているか、ムイテみよう。
食い残した白菜の芯が伸びて花が咲いている。菜の花だ。
中はどうなっているか、ムイテみよう。
こうしてみると、一枚一枚の葉の根元からそれぞれに芽をのばし花を咲かせていることがわかる。いのちの持つメカニズムの不思議をいまさらに思う。オセンチは横に置いておいて、食う話をすれば、
葉はしわくなっていて食えない、でも芽を摘んで塩でもんで浅漬けにすればうまい。
さっと湯にくぐらせて、炒めてみたらこれもいけます。
2010年3月13日土曜日
2010年3月10日水曜日
ブログの孤独 つづく
核密約
有ったらしい。新聞によれば、「無かった」と言っていた連中は、談話を出した「しらなかった」と。
消息筋によれば、新聞紙面にはそう記述してないが談話は「しら・なかった」と書いてあるようである。これは、新しいコトバの用法で「知っていた」と「言いたくなかった」を繋げる斬新なやりかたである。「しら・なかった」と書いて「シラナカッタ」と発音する。さっそく、国語言い訳審議会は新しい短縮用法の採用について検討しているという。
また、某テレビ局は刑事ドラマの取調べ室の「台詞」に採用を検討しているらしいが、現場の混乱が今から懸念されているという。
有ったらしい。新聞によれば、「無かった」と言っていた連中は、談話を出した「しらなかった」と。
消息筋によれば、新聞紙面にはそう記述してないが談話は「しら・なかった」と書いてあるようである。これは、新しいコトバの用法で「知っていた」と「言いたくなかった」を繋げる斬新なやりかたである。「しら・なかった」と書いて「シラナカッタ」と発音する。さっそく、国語言い訳審議会は新しい短縮用法の採用について検討しているという。
また、某テレビ局は刑事ドラマの取調べ室の「台詞」に採用を検討しているらしいが、現場の混乱が今から懸念されているという。
2010年3月8日月曜日
言葉を集めて つづく
・ 「ミズヲノセル」
水を乗せる。意は田や畑の栽培植物(作りもん)に水をやること。「水を走らせる」と言ったりする。
カラカラに乾いた土に水をかけるとすぐには浸みこまない。水は乗ったり、走ったりした後に、ゆっくりと浸んでゆくのである。
水を乗せる。意は田や畑の栽培植物(作りもん)に水をやること。「水を走らせる」と言ったりする。
カラカラに乾いた土に水をかけるとすぐには浸みこまない。水は乗ったり、走ったりした後に、ゆっくりと浸んでゆくのである。
2010年3月7日日曜日
言葉を集めて つづく
・ 「フミヒシャグ」
踏みひしゃぐ。メモには「踏んでつぶしてしまう」「ユンボで田のケシをフミヒシャイデしもうた。」とある『ほんにのうや』には「踏みめぐ」があった。同じ意味だ。どんな簡単な辞書にも、「踏む」と組み合わせて多彩な表現があるみたいだ。「ふみたおす」「ふみにじる」「ふみとどまる」。
踏みひしゃぐ。メモには「踏んでつぶしてしまう」「ユンボで田のケシをフミヒシャイデしもうた。」とある『ほんにのうや』には「踏みめぐ」があった。同じ意味だ。どんな簡単な辞書にも、「踏む」と組み合わせて多彩な表現があるみたいだ。「ふみたおす」「ふみにじる」「ふみとどまる」。
2010年3月5日金曜日
2010年3月3日水曜日
言葉を集めて つづく
・ 「クイデ」
「ほんにのうや」の郷での体験を、メモには「02.4.2 葬儀の相談において」とあり、「クイデあるいはクイデン、食事のことは自分ですること、めいめいが家で食べて、それから集まる事、集まってもらった家では食事は出さない」とある。たしかに、儀式には直接係わらないにしても、生き残った者にとっては、食うことは切実で大切な事柄であろう。おそらく、「クイデでしますので」と連絡するのであろうと思われる。
ところで、字を当てるとすれば、「食い手」だろうか、それとも「食い出」それとも~。
どう思われますか。
「ほんにのうや」の郷での体験を、メモには「02.4.2 葬儀の相談において」とあり、「クイデあるいはクイデン、食事のことは自分ですること、めいめいが家で食べて、それから集まる事、集まってもらった家では食事は出さない」とある。たしかに、儀式には直接係わらないにしても、生き残った者にとっては、食うことは切実で大切な事柄であろう。おそらく、「クイデでしますので」と連絡するのであろうと思われる。
ところで、字を当てるとすれば、「食い手」だろうか、それとも「食い出」それとも~。
どう思われますか。
2010年2月23日火曜日
ブログの孤独 つづく
コトバの豪腕 4
これでお終いにしようと決めた。賢治のこの作品のどこがどう心地よかったのか、どこがどうなって心地よいのであるかを私なりに書いてみよう。それで、おしまい。あとは、あなたが読むか読まないかだけだ。検索すれば画面でも読めるみたいだ。
「なめとこやまの熊」の最初の三つのセンテンスの文字数は17・11・15で始まる。ところが、このリード部分を過ぎれば、いきなり文字数が100を超えるセンテンスが現れる。「なめとこ山の熊のことならおもしろい。なめとこ山は大きな山だ。」さあさあ、大きな山に棲む熊の話が始まるよ。興味のあるヒトはついておいで、興味のないヒトは帰ってちょうだい。もちろん御代はいらない~と始めて、こちらが、まごまごしていると、いきなり、鼻頭らをつかまれて物語の中をひきまわされる。これが、賢治の豪腕その一。
豪腕その二。隠喩・直喩・擬態語を総動員する。「なめとこ山は一年のうちたいていの日はつめたい霧か雲かを吸ったり吐いたりしている。まわりもみんな青黒いなまこや海坊主のような山だ。」「洞穴ががらん」「ごうと落ちて」「そこをがさがさ」「ごちゃごちゃ」「熊はなめとこ山で赤い舌をべろべろ吐いて」
思いつく限りの手練手管、すれっからし、業師。だと思う。そして、この技は目で読むよりも耳で読む方が効果をあげるだろう。
資料
「なめとこ山の熊」は、1927年(S2)30歳頃の作品。彼は「雨にも~」以外にも、優れた詩を書いている、彼の詩に興味のある方は、「永訣の朝」を検索してみてください。彼はまた優れた「方言」の使い手でもあった。
これでお終いにしようと決めた。賢治のこの作品のどこがどう心地よかったのか、どこがどうなって心地よいのであるかを私なりに書いてみよう。それで、おしまい。あとは、あなたが読むか読まないかだけだ。検索すれば画面でも読めるみたいだ。
「なめとこやまの熊」の最初の三つのセンテンスの文字数は17・11・15で始まる。ところが、このリード部分を過ぎれば、いきなり文字数が100を超えるセンテンスが現れる。「なめとこ山の熊のことならおもしろい。なめとこ山は大きな山だ。」さあさあ、大きな山に棲む熊の話が始まるよ。興味のあるヒトはついておいで、興味のないヒトは帰ってちょうだい。もちろん御代はいらない~と始めて、こちらが、まごまごしていると、いきなり、鼻頭らをつかまれて物語の中をひきまわされる。これが、賢治の豪腕その一。
豪腕その二。隠喩・直喩・擬態語を総動員する。「なめとこ山は一年のうちたいていの日はつめたい霧か雲かを吸ったり吐いたりしている。まわりもみんな青黒いなまこや海坊主のような山だ。」「洞穴ががらん」「ごうと落ちて」「そこをがさがさ」「ごちゃごちゃ」「熊はなめとこ山で赤い舌をべろべろ吐いて」
思いつく限りの手練手管、すれっからし、業師。だと思う。そして、この技は目で読むよりも耳で読む方が効果をあげるだろう。
資料
「なめとこ山の熊」は、1927年(S2)30歳頃の作品。彼は「雨にも~」以外にも、優れた詩を書いている、彼の詩に興味のある方は、「永訣の朝」を検索してみてください。彼はまた優れた「方言」の使い手でもあった。
2010年2月21日日曜日
ブログの孤独 つづく
コトバの豪腕 3
「なめとこ山の熊」宮沢賢治の朗読をラジオで聞いて感動した事を発端とした、このブログのなかのブログは行き詰まっている。「本」はともかく読み通うそうと、私が惰眠をとる、枕辺に移動させられた。で私が昨晩読んだのは、『人口から読む日本の歴史』亀頭宏・講談社学術文庫1430、だった。どうしてそれをの答えは、それがそこにあったから、としか答えようが無い。
「コトバ」を相手にするのはシンドイ。特に賢治みたいな、言葉の秘剣、妖剣、使い。37年の生涯(1933年昭和8没)をコトバと心中したみたいな、人物を相手にすればなおさらそうみたいだ。
それはそうと、田村隆一(1923~1998)という詩人の詩を載せてみたい。最近読み直して感心した詩(1962)です。
「帰途
言葉なんかおぼえるんじゃなかった
言葉のない世界
意味が意味にならない世界に生きてたら
どんなによかったか
あなたが美しい言葉に復讐されても
そいつは ぼくとは無関係だ
きみが静かな意味に血を流したところで
そいつも無関係だ
あなたのやさしい眼のなかにある涙
きみの沈黙の舌からおちてくる痛苦
ぼくたちの世界にもし言葉がなかったら
ぼくはただそれを眺めて立ち去るだろう
あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるか
きみの一滴の血に この世界の夕暮れの
ふるえるような夕焼けのひびきがあるか
言葉なんかおぼえるんじゃなかった
日本語とほんのすこしの外国語をおぼえたおかげで
ぼくはあなたの涙のなかに立ちどまる
ぼくはきみの血のなかにたったひとりで掃ってくる」
センチメンタルにウンザリしましたか、でも、これがここ60年の時代の最良の「感性」なんだな。少なくとも、賢治はこんな泣き言はいわずに、書き続けたヒトでした。命と引き換えにするようにして。
この項は続けたい。
「なめとこ山の熊」宮沢賢治の朗読をラジオで聞いて感動した事を発端とした、このブログのなかのブログは行き詰まっている。「本」はともかく読み通うそうと、私が惰眠をとる、枕辺に移動させられた。で私が昨晩読んだのは、『人口から読む日本の歴史』亀頭宏・講談社学術文庫1430、だった。どうしてそれをの答えは、それがそこにあったから、としか答えようが無い。
「コトバ」を相手にするのはシンドイ。特に賢治みたいな、言葉の秘剣、妖剣、使い。37年の生涯(1933年昭和8没)をコトバと心中したみたいな、人物を相手にすればなおさらそうみたいだ。
それはそうと、田村隆一(1923~1998)という詩人の詩を載せてみたい。最近読み直して感心した詩(1962)です。
「帰途
言葉なんかおぼえるんじゃなかった
言葉のない世界
意味が意味にならない世界に生きてたら
どんなによかったか
あなたが美しい言葉に復讐されても
そいつは ぼくとは無関係だ
きみが静かな意味に血を流したところで
そいつも無関係だ
あなたのやさしい眼のなかにある涙
きみの沈黙の舌からおちてくる痛苦
ぼくたちの世界にもし言葉がなかったら
ぼくはただそれを眺めて立ち去るだろう
あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるか
きみの一滴の血に この世界の夕暮れの
ふるえるような夕焼けのひびきがあるか
言葉なんかおぼえるんじゃなかった
日本語とほんのすこしの外国語をおぼえたおかげで
ぼくはあなたの涙のなかに立ちどまる
ぼくはきみの血のなかにたったひとりで掃ってくる」
センチメンタルにウンザリしましたか、でも、これがここ60年の時代の最良の「感性」なんだな。少なくとも、賢治はこんな泣き言はいわずに、書き続けたヒトでした。命と引き換えにするようにして。
この項は続けたい。
2010年2月10日水曜日
言葉を集めて つづく
コトバの豪腕 1
このあいだ、「ラエ」の先生の足になった。先生は病院巡りを日課としている。軽トラを駐車して待つ間にカーラジオを点けた。名を聞いたことのある俳優が、宮沢賢冶『なめとこ山の熊』を語っていた。引き込まれ、無聊(ぶりょう)の時を忘れた。
皆、家の片隅には、ホコリをかぶった、宮沢賢治の何かを、持っているのではないか。
どんな、みごとなコトバも、コトバの仕掛けも、飽きるのである、しかし、久しぶりに出会えば、それはスバラシイのである。
美人は三日で飽きるというが(そうでないヒトには、悪いが)、久しぶりに会えば、やはり美人なのである。残念ながら、イイ男がやはりそうであるように。
いつものように、前置きが長くなっている。
家で、活字を探したら、『もう一度読みたい宮沢賢治』別冊宝島(2007年)を見つけた。自分で買った覚えが無いから、つれあいが購入したものだろう。ここだけの話だが、彼女の文学は、藤沢周平と平岩弓枝なのだ(読破しているらしい)。どうして賢治を?この謎は放っておいて、本題にとりかかろう。そうしないと前置きがまた長くなる。
この項は続けたい。
このあいだ、「ラエ」の先生の足になった。先生は病院巡りを日課としている。軽トラを駐車して待つ間にカーラジオを点けた。名を聞いたことのある俳優が、宮沢賢冶『なめとこ山の熊』を語っていた。引き込まれ、無聊(ぶりょう)の時を忘れた。
皆、家の片隅には、ホコリをかぶった、宮沢賢治の何かを、持っているのではないか。
どんな、みごとなコトバも、コトバの仕掛けも、飽きるのである、しかし、久しぶりに出会えば、それはスバラシイのである。
美人は三日で飽きるというが(そうでないヒトには、悪いが)、久しぶりに会えば、やはり美人なのである。残念ながら、イイ男がやはりそうであるように。
いつものように、前置きが長くなっている。
家で、活字を探したら、『もう一度読みたい宮沢賢治』別冊宝島(2007年)を見つけた。自分で買った覚えが無いから、つれあいが購入したものだろう。ここだけの話だが、彼女の文学は、藤沢周平と平岩弓枝なのだ(読破しているらしい)。どうして賢治を?この謎は放っておいて、本題にとりかかろう。そうしないと前置きがまた長くなる。
この項は続けたい。
2010年2月9日火曜日
言葉を集めて つづく
・ 「ベントウモチ」
「弁当持ち」メモには「勤めに出ること」とあり用例として「弁当持ちになろうと思ようる」「あのヒトは弁当持ちじゃから」とある。コンビニの駐車場でおにぎりを齧り、ペットボトルの茶で流し込もうと、現場の石の上で、菓子パンを缶コーヒーで流し込もうと、それは、「ベントウモチ」になる事なのである。
食わんが為に働くのが、我々だが、まさに、その食う事の中身が「貧しく」なってはいまいか、こんなのを「疎外」というコトバで昔は言っていたが、最近トンと聞かない。
偏差値の高い学生ほど、「疎外」を連発していた、あれはなんだったんだろう。
「弁当持ち」メモには「勤めに出ること」とあり用例として「弁当持ちになろうと思ようる」「あのヒトは弁当持ちじゃから」とある。コンビニの駐車場でおにぎりを齧り、ペットボトルの茶で流し込もうと、現場の石の上で、菓子パンを缶コーヒーで流し込もうと、それは、「ベントウモチ」になる事なのである。
食わんが為に働くのが、我々だが、まさに、その食う事の中身が「貧しく」なってはいまいか、こんなのを「疎外」というコトバで昔は言っていたが、最近トンと聞かない。
偏差値の高い学生ほど、「疎外」を連発していた、あれはなんだったんだろう。
2010年2月2日火曜日
ブログの孤独 つづく
言語力の不足
NHKを見ていたら、「言語力が足りない」というテーマで放送していた。先月の末の事だったか。サッカーで負けた事も、国際競争力が低下している事も、諸々のよくない事々の原因がそこにあるらしい。なんだか、クニ全体で叱られているみたいで不快だった。こんな番組を見せられて、「よし、明日から言語力向上に励むぞ、グローバルに乗り遅れるな」みたいなことに世間ではなっているようだ。
と、昨日ここまで書いて、それから先が書けない。この話題はボツにしようかと考えた。しかし、不肖私も「言葉を集めて つづく」などとやっている手前、もう少し進んでみよう。
まず、「言語力」なる言葉が耳新しい事に気づいた。調べてみれば、文部省あたりから出てきた言葉らしい、だからか、「言語力検定」なるものもあるらしい。なんだか「漢字能力検定」を思い出した。
次に、言葉、「言語力」の意味は、と文部省の発表文書をチャラ読みすると、論理的に考え、他人に解るように表現する能力。の事らしい。ありゃ!こんなことなら、「学校で」私も、私の子供たちも、やらされてきたぞ。あれはなんだったんだろう。もっとも、作文の課題に『自分の思った事を書け』などと自分も考えも無い教師が指導するのだから結果は散々だったのだが。
こうしてみれば、官民挙げてのチンケな「国民運動」みたいな帰結しかこの事柄の中身は無かろう。なぜなら、論理を使い考え、それを表明する事は「批判」を生み出す重要な要素であり。そして、それは、否応なしに、「権力と支配」に向わざるをえぬからだ。つまり、言いだしっぺには両刃の刃なのである。
考えたり調べたりその上書いたりするんじゃなかった。どうりで、放送が「ハウツー」に偏っていたわけだ。
それはそれとして、政府発の「自己責任論」にとびついて、異国で拘束された若者を袋叩きにするような国民には、文部省のいうところの『言語力とは、情報に関する知識と経験、論理的思考、情緒などを基盤として、他者とコミュニケーションを行うために言語を運用する(考える、聞く、話す、読む、書く)のに必要な個人に内在する能力』がどうしても必要だろうとは考える。
しかし、チャカスようでわるいが、この文部省の文章の言語力をどうにかしてもらいたい。
余計を付け加えれば、論議するならば、「この国の人々に元々言語力なるものがあったのか。」とか、「自分の意見を持たないでこの国で暮らす利点」とか。そんなことを論議すべきだろう。
NHKを見ていたら、「言語力が足りない」というテーマで放送していた。先月の末の事だったか。サッカーで負けた事も、国際競争力が低下している事も、諸々のよくない事々の原因がそこにあるらしい。なんだか、クニ全体で叱られているみたいで不快だった。こんな番組を見せられて、「よし、明日から言語力向上に励むぞ、グローバルに乗り遅れるな」みたいなことに世間ではなっているようだ。
と、昨日ここまで書いて、それから先が書けない。この話題はボツにしようかと考えた。しかし、不肖私も「言葉を集めて つづく」などとやっている手前、もう少し進んでみよう。
まず、「言語力」なる言葉が耳新しい事に気づいた。調べてみれば、文部省あたりから出てきた言葉らしい、だからか、「言語力検定」なるものもあるらしい。なんだか「漢字能力検定」を思い出した。
次に、言葉、「言語力」の意味は、と文部省の発表文書をチャラ読みすると、論理的に考え、他人に解るように表現する能力。の事らしい。ありゃ!こんなことなら、「学校で」私も、私の子供たちも、やらされてきたぞ。あれはなんだったんだろう。もっとも、作文の課題に『自分の思った事を書け』などと自分も考えも無い教師が指導するのだから結果は散々だったのだが。
こうしてみれば、官民挙げてのチンケな「国民運動」みたいな帰結しかこの事柄の中身は無かろう。なぜなら、論理を使い考え、それを表明する事は「批判」を生み出す重要な要素であり。そして、それは、否応なしに、「権力と支配」に向わざるをえぬからだ。つまり、言いだしっぺには両刃の刃なのである。
考えたり調べたりその上書いたりするんじゃなかった。どうりで、放送が「ハウツー」に偏っていたわけだ。
それはそれとして、政府発の「自己責任論」にとびついて、異国で拘束された若者を袋叩きにするような国民には、文部省のいうところの『言語力とは、情報に関する知識と経験、論理的思考、情緒などを基盤として、他者とコミュニケーションを行うために言語を運用する(考える、聞く、話す、読む、書く)のに必要な個人に内在する能力』がどうしても必要だろうとは考える。
しかし、チャカスようでわるいが、この文部省の文章の言語力をどうにかしてもらいたい。
余計を付け加えれば、論議するならば、「この国の人々に元々言語力なるものがあったのか。」とか、「自分の意見を持たないでこの国で暮らす利点」とか。そんなことを論議すべきだろう。
登録:
投稿 (Atom)