2009年12月31日木曜日

ブログの孤独 つづく

「ラアーラア、ラーアラーア」飲み暮らしているうちに、年が変わろうとしている。反省はあるが、反省はしない。抱負といわれても特に無い。


日付の変わった頃に起き出して、飯を仕掛け、だし汁をとり、高野豆腐を煮た。酢ゴボウ、酢レンコンは後で作ろうか。とりあえずは、姪っ子(といっても二十歳をとうに過ぎたレディーなのだが)が食いたいという「餅ピザ」の用意をしよう。頭の中ではもう作り始めている。
餅をチンで少しく柔らくして、フライパンにオリーブオイルをたらし、(一人当てはふたつ、みっつだろうか、)餅を放り込んで、ヘラで押しながら炙る。餅と餅がくっついて一枚のピザ生地になれば、あとは、いろんな具を載せてオーブンで焼くだけだ。コツといえば、出来るだけ薄く餅を延ばすこと、それと時間があれば、カリカリにやいた方が香ばしいことぐらいか。

ひとなみに、年末年始をキネンして、歌会をしてみてもいいか。やんごとなき方面の方もすると聞く。

年末篇

「おなじ未(ひつじ)年の友に//きみは日記を焼いたりしたことがあるかい おれはあるんだよ、五十になった頃の秋だ 天城の尾根で三冊のノートを捨てた 生きたくも死にたくもない変な気持ちだった  過去との断絶、そんなことは不可能だ 紙切れはなくなっても記憶は残るからね それでもノートはできるだけ遠くへ投げたよ センチメンタルだと笑われるかねえ  「風立ちぬ、いざ生きめやも」 戦争前に覚えたこの言葉を戦争が叩き潰した おない年に生まれて先に死んだやつの顔 悪を知らなかったあの顔が忘れられるものか 生きてゆくとはそういうことだろうかねえ おれがおりてきた薄(すすき)の尾根道も長かったよ」

年始篇

「きのうはあすに//新年は、死んだ人をしのぶためにある、 心の優しいものが先に死ぬのはなぜか、 おのれだけが生き残っているのはなぜかと問うためだ、 でなければ、どうして朝から酒を飲んでいられる? 人をしのんでいると、独り言が独り言でなくなる、 きょうはきのうに、きのうはあすになる、 どんな小さなものでも、目の前のものを愛したくなる、  でなければ、どうしてこの一年を生きてゆける?」

いづれも中桐雅夫詩集『会社の人事』晶文社1979年より写した。尚、本編の縦書きを横書きにした、行替えは一字あけ、二字あきは大きな行替え、題と本文との間に//を入れた。
彼は数年後1983年に死亡、「生きてゆく」ことをやめ、「しの」ばれる側に移った。

もう少し続けてもいいか。
と書いて晩年の彼がどんなに進歩したかを書こうと思ったが止めた。詩論、評論には多少の理屈が必要だ。「理屈と飯粒はどこへでもつく」のだ、新年早々うんざりしたくない。

2009年12月30日水曜日

言葉を集めて つづく

・ 「カガム」


方言にはない、分厚い辞典にも無い、ここら辺りだけの言い方なのか。メモには「悪事をはたらき、警察に捕まること」とある。字を当てるとすれば、「屈む」だろうか。「掛かる」「罹る」などの否定的言葉の語感が影響しているのか。

言葉を集めて つづく

・ 「セビョウ」


畝俵。これだろう。一畝(一反の十分の一)あたり一俵(60キロ)の米が取れること。地力の無い棚田では不可能に近い。方言には無いようだ。平地の田でも化成肥料の普及して以後ではないか。コンスタントに「セビョウ」を超えるようになったのは。

言葉を集めて つづく

・ 「ホンムラ」


本村。だろう、方言ではない。同じ村組織(行政上の単位・大字(おおあざ)がそれに当たるか、)に属しながら、地理的には少し離れている分村からの言い方。

少し、話をすべらせてもいいか。

本家・分家・新家(しんや)という言葉は、今でも違和感なく存在している。65年前の敗戦を契機として、廃止された「家制度」の名残だ。

「家」は血縁を元とし(養子という裏技はしばしば用いられたが)何百年にも亘り、生産集団・財産管理(相続)・婚姻(血縁の管理)など社会を形作ってきた基礎的な単位だった。一方、支配する側からも、有効便利な単位であった事は想像できるだろう。今でも、町内会の基礎単位は個人ではなく「家」だ。付け加えれば、この仕組みの最大の特徴は「個人」が存在しないというところにあった。

これを、無くしたのだから、革命的な変化だった、この上からの「革命」は何故必要であったか、教科書にあるような「封建制の一掃」の為など御託なのである。理由はただひとつ、何処へでも移動可能な、どのような職種も選択できる、(したがって飢える自由もまた手にすることのできる)いわゆる「自由な労働者」を生み出すためだった。「スラム」も「年越し派遣村」も65年前に用意され予測されたことなのである。

「家制度」を廃止した後始末は、まだ付いてはいないのだ。「家制度」を歴史の脈絡の中に眠り込ませる、この複雑で困難な仕事は全く新しい政権の仕事になるだろう。このこと。

2009年12月29日火曜日

言葉を集めて つづく

・ 「ヒデリグサ」


稲のことである。メモには「稲のこと、日が照ればよく育つ」とある。方言辞典にも「ほんにのうや」にも記載は無い。いささか自嘲気味のこの呼称はどうして生まれたか、考えてみたい。言葉は移ろいやすく、やがて空に消えて行くものだけれども、理由無く生まれたりはしないものであろうから。

こう書きながら、ムカムカして来たのは、二日酔いのせいばかりではない、さっき聞いたニュースで「ミッション」の連発を聞いたからだ。これは、宇宙ステーションに関してだったのだが。どうして「計画」とか「任務」とか「目標」とか「企図」と言わないのだろうか。そういえば、マスコミが「ミッション」を連発するようになったのは、たしか、親ブッシュが湾岸戦争(1991年)を始めた時だった。今から考えれば、「ゲーム感覚の戦争」と「ミッション」はセットになっていたのだ。以後事あるごとに、アメリカに関して、知ったかぶりをする連中はこの言葉を使う。いったい、このクニはいつまで青い目コンプレックスを持ち続けるつもりなのだろうか。

話が、それている、「瑞穂の国」の「瑞穂」の話に戻そう。つれあいのおとうさんは生まれてこの方、おそらく一年も稲作りから離れた事はなかろうが、彼は言う「日照りの年で、水が無く、稲が枯れる場所があっても、全体としてはその方が収量は多い。」と。南の国生まれのこの植物は、昨今の異常高温は別にしても、圧倒的な日照を好むのだろう。だから、曇天降雨の多い、つまり水の多い年は不作になるのだ。「ヒデリグサ」は「日照りを好む草」の意だ。

ちょっと、話をすべらせてもいいか、この島国で念願の米の自給がやっと出来たのはいつだと思われますか。統計は1960年(S35)と伝える。今から半世紀前の事であることに驚かれるだろう。しからば、それまでは、どうしていたのか、食う方(人口)を調節していたのだ。コケシ、ウバステ、の話はおとぎ話ではない。私の作る田に水を供給する溜池は古老の話では1930年代に完成したという、我々は、食うが為に(養うがために)あらゆる知恵と努力を重ねてきた。「ヒデリ」の年に水を得るために、そして、より多くの田を得るために。歴史上、米が余って困った事など一度も無いのだ。今の「米余りの話」も眉に唾をつけてみた方がいい。

以後は、私の仮説だが、このクニの不幸は、1900年頃に始まった帝国主義の時代に、その上に、歴々と続けてきた、食うためのエネルギーが不幸にも合体し、その侵略性(攻撃性)を増長させて、1945年に至る無謀な行為を行わしめたのではなかったか。

食える事の喜びと、食うための行為のせつなさは、おそらくヒト人類からしばらくは離れる事はあるまい。あなたは、今日の食卓の為にどれだけの命を始末しましたか。

私が、飽食正月のアレコレを好きになれぬのは、以上の理由にある。

2009年12月27日日曜日

何を食らうか つづく

「茶粥」


前回「さて次は、茶粥を炊いてみよう」と書いた。これは、約束だ。しかし、律儀に約束を守ろうとすれば「鬱」になってしまうのは分かっている。マニュフェストだって反故なる世だ。止めておけの声がしている。危険を冒して続けてみよう。

茶粥は「コーツト」の祖父さんの常食だった。今から思えば、飯と茶粥のふたつを、ひと昔前の我が家は同時に炊いていたのだった。

じいさんの子、我がオヤジは20年ほど前死んだが、ワガママな男だったと思う。一椀で飯と茶粥を食いたいと「ご飯に粥」とおふくろに差し出す、で、渡されたのが、茶粥の上に飯が載っていたりすれば、烈火のごとくに怒っていた。「ご飯に粥と言ったはずだこれは粥にご飯だ」と。子の私はコダワリは受け継いでいるが、ここまでではなかろう。どうだろうか。

さて、なんの詮索もなく、茶粥を食う地域を思い浮かべれば、瀬戸内地域と考える、東の端は奈良であろう。「ほんにのうや」の郷には茶粥は無いようだ。検索すれば、茶粥の風習を部落問題と結びつける向きがあるがこれは見当違いと考えた。細長い瀬戸内地域を東から西に伝わったものか、西から東になのか、解からない。

いずれにせよ、茶粥はうまいのだ、散々飲み疲れて、ズタ袋のようになった体に、冷えた茶粥を流しこめば、飲みつつある時にはあんなに宥せなかった事々が、氷解してゆくようである。

前置きが長くなっている。そろそろ、炊きにかかろう。材料は、米と、茶葉、と水。まず、水5カップに茶葉を入れて炊く、茶葉は「焙じ」、でも「緑」でも「混ぜて」もいい、少し濃い目に出したい。葉は取り除く、どんな方法でもいい、違う鍋を用意して茶漉しに茶殻を受ければ良い。さて、沸騰したお茶にカップ1の米を入れる(洗おうと洗うまいとお好きなままに)ここから、強火の火を落とす事なく、混ぜに混ぜて欲しい、次第に米がふっくらとしてくるはずだ、10分も過ぎれば、混ぜているヘラに米粒を拾って食ス、まだ少し芯があるか、あとは、好みの硬さまで煮る、(火を止めた後も余熱で柔らかくなる事を計算にいれて下さい)目処は15分まで。

熱々に、冷たい塩辛、漬物、塩昆布。私の中の隠されていたナショナリズムが呼び覚まされるようだ。冷たくして掻き込むのもいい。

何を食らうか つづく

「飯を炊く」


さて、毎日やっているのは、飯炊きだろう、料理の事を「飯炊きをする」「今日は飯炊き係」と言ったりするではないか。

年の瀬は、日々のメニューを考える者には、あまりの多様な食材にトマドウ季節でもある。

私は、メニユーの発想ままならぬ時は、なにはともあれ、米を洗い、飯を仕掛ける。それから昆布とイリコで出汁をとる。食わず済ませるという選択はない。

人生とは何か、生まれて生きて死ぬ。食って飲んでクソしておしまい。いろんな纏め方はあるけれど、つまるところ、おいしいものが食いたいのだ。

では、うまいものとは何か、炊きたての飯、焼きたてのパン(もしくは焙りたてのパン)を超えるものはなかろう。

さて、飯を炊いてみようか。何で炊くか、つれあいはその昔、実家で飯炊きの係だったという、以下は彼女の炊き方の証言。「羽釜に米を一升程入れ洗ったら、水は手のひらを米の表面に当てて手首の骨のポコッと出ているとこまで入れ、クド(かまど)に架けて下から薪で炊く、適当に。炊けたら下の薪はどけて、蒸らす。すると、お焦げができていて、これが楽しみだった」
他の事は忘れても、「お焦げの味」は忘れないらしい。

私は、羽釜もクドも持ち合わせてないから、鍋で炊いてみよう。鍋は少し厚手がよかろう、三合の米を洗い水は三カップ(600cc)入れて、米が水を吸った頃、火を入れる、沸騰したら、弱火にして15分で止める。適当に蒸らしておしまい。五分程か。早めに蒸気を飛ばさないとベチャッとした飯になるぞ。お焦げが欲しければ、できるまで火を入れつづければ良い。しかし、羽釜のお焦げのような上物はなかなか出来ないのはしかたない。諦めよう。羽釜とクドではないのだから。

ついでに、「茶がゆ」も作ろうか、いや、これは次回にしよう。

2009年12月26日土曜日

ブログの孤独 つづく

愚か者は何を考えるか。尻はまだ痛いものの、自転車もまた良いと思った。数日前タイヤ三本を替えた成功体験もある。止せば良いのに、ボロボロになっていたママチャリのタイヤを替えようと思い立った。22インチのタイヤを買った。片足ケンケンで替えにかかるとこれがはまらない。どうしても不可能なのだ、こんなことは有り得ない、と何度もはまっていたタイヤとはまらないタイヤを見比べた。すると、ほんの少しはまらぬタイヤのサイズの小さい事に気づいた。インタネットで検索してみれば、同じインチ表示でも自転車のリムのサイズには、数種あるとある。なるほど、タイヤ交換は諦めたが、またひとつ、明らめることができた。

それにしても、タイヤは交換部品の主要な物だろう。規格を合わせる作業は大変だろうが、それがなければ不便もまた有るだろう。自転車のタイヤを自分で替えようとする好き者は別にしても、例えば、パソコンの世界ではどうなっているのかしら。と心配になってきた。

2009年12月25日金曜日

ブログの孤独 つづく

ロマンチックのゆくへ

こちらは、うんざりするほどロマンチックなのだ。すでに遠い昔に市場経済の軛(クビキ)より逃れてクラゲの如くに浮遊している無能物に過ぎない。しかし、だからといって多少の矜持も持ち合わせていたい。

珍しく、「忘年会」に誘われた。当日、バスで出ようとすると、バスが無いのである。子が学校に通っていた頃、乗り遅れたくせに家に帰って、「バスが無い」と言っていた事を思い出した。「バス紛失事件か」とからかいつつも送ってやった事もあったな。その頃に較べてずいぶん便の減っているのを改めて発見した。感心ばかりもしていられない、どうするか、思案の後、自転車で行くことにした。目的地まで17キロはある、私如きでも、工業高校に行っていた時には18キロを毎日往復していた。やってやれないことはなかろう、天気もいい。ママチャリのタイヤに空気も入れた。

さて、道をチンタラ漕いでゆけば、前から来る顔見知りの目が車の中で点になっている。ざまあみろ、人生至る所に驚きありだ、常識なんか捨ててしまえ。しかし、この三十年、面の皮は厚くなったが、尻の皮は薄くなったみたいである。半分もゆかないうちに尻が痛い。息も荒い、頭痛もしてきた。ベンチを見つけ一休みした。気絶したヒキガエルみたいにノビていたら、近くで二十歳ぐらいの若者二人が親しく話をしているペチャクチャと。聞くともなしに聞いていると、意味が掴めない、集中して聞いても意味が取れない、心臓発作かしら、とも思った。野垂れ死にかと覚悟した。だが、変調していたのは認識系の方だった、日本語であるとの認識を捨てた途端に中国語が私の耳に入ってきた。
それにしても若者の会話のリズムは万国共通なのだと感心した、映像で見る若いムスメの少しく眩し気なハニカミが如何なる民族でも共通である様に。そして、この列島には日本語以外の世界が思いの他多様にあるのだと思い至った。

目的地に着いてみれば、始まりには少し時間がある。実に久しぶりに昔住んでいたあたりをさまよってみた。此辺の私の中のイメージは、三十年の間に少し膨らみ、実際の街は少し縮んだ様だ。「あゝおまへは何をしてきたのだ~と、吹き来る風が私に云う」(中原中也「帰郷」最後の部分)を思い浮かべたりした。

「忘年会」の事は、書かぬが良かろう。ご迷惑をかけました。年をとれば次第に円熟してくるヒトもいれば、年齢と共に緩んで堪え性の無くなるヒトもいるのだ。わたしはどうやら。  (以下略)      

2009年12月23日水曜日

機械いじりの楽しみ つづく

このところ、料理をしていない。料理をせずに何をしていたか、タイヤを替えていた。三本替えた。三輪車ではない、一本は運搬車の、後の二本はカブのそれである。


運搬車のは、稲刈りの時にパンクを見つけた。いくら半端百姓とはいえ、稲刈り最中にパンクを直す暇はない、空気を入れ入れ誤魔化してきた。チューブレスだから、数年前のパンク時にチューブレス用のパンク修理のゴムに接着剤を塗ってパンク穴に押し込んで直したが、それの寿命がきたらしい。水をかければ、そこからジクジク空気が漏れている。タイヤ屋さんに聞けば、そんな時にはチューブを入れて誤魔化す手もあるという、費用も三分の一くらいで済みそうだ。しかしながら「貧」とはいえコチラはコダワリ系男子、七千円を奮発してタイヤを手に入れた。見てみればF1のタイヤみたいで、そのままで立っている。さて、このタイヤのキモはホイール(これは鉄)とタイヤ(これはゴム)との密着にある。これが無ければ空気は大気に帰る。それで、やはり硬いのである、密着が蜜なのである。まるで保守政党と財界みたいに。怒鳴ったり、宥めたり、して最後は人類の知る最強の潤滑剤、水を用いてホイルからタイヤを外した。組み付けはバラシタ過程の逆をやればよろしい。水の力を借りれば簡単だ。ちなみに、サイズは16x7.00。幅16センチ、ホイール径7インチ。

カブのタイヤも替えた、これはチューブ入り、自転車から始まって、もう40年も替えに替えてきた、技術的に問題はない。しかし、マルマル一日かかった。どうしてか、タイヤではなく前ブレーキのワイヤーが錆付いて(固着して)動かぬを直していたからだ。数時間かけて、深夜におよび、ワイヤーの再生を試みたが、日付が変わり、オリオン座も頭上を越して西に傾いた頃、諦めた。翌日、千七百円を奮発して新しいワイヤーを購入した。カブのヘッドライトの部分(内部)を見たヒトはどれくらいあるかしら、これ以上は無理というほどにワイヤーや配線を詰込んでいるのだ。この間を通し終えるに何回吼えたことか。

機械いじりの楽しみは、自らの思考方法を確認できるところにある。まづ、何処が問題なのか、なぜそれを問題と思うかから始まり。次に、問題解決に至るまでの「アタリ」を付け、作業を始める。しかし、(誰の責任でもない、自らに起因する)思い込み、勘違いは作業のあらゆる段階で明らかになる、それを力技で乗り越えるか、それともからめ手から攻めてみるか。ひとつを解決れば、すぐに次の課題がそこに待っている。

さて、これで「おしまい」と見ればそこには、他人からみれば、前と変わらぬ運搬車、前と変わらぬカブがあるだけなのだが。

2009年12月22日火曜日

何を食らうか つづく

シチュー


「ほんにのうや」の郷から貰って帰ったのは、白菜だけではない、食パンを義姉に貰った。目醒めた寝床で、シチューを思い至った。食うためには、寝床から出なければならぬのは千年の昔からの習いだ。エイヤッと掛け声をかけて起き出した。

少しく深い鍋に肉(今回は豚もも肉)を入れ、炒めた。その間にタマネギ、ニンジンを切り放り込む。肉が鍋に付く様なら、火を止めて10秒もすれば剥がれるだろう。ジャガイモも入れよう、少し小ぶりに切って、レンジにかけた、シチューの中のいもはゴロゴロしてない方がいい、それにトロミにもなる。さて、タマネギがしんなりしてきた、バターを入れ、小麦粉を入れる、それから木箆(へら)でまぜる。小麦粉に火が通るまで。火は弱めがよかろう、底に付こうとする輩を剥がしながら、数分でやり終えて、火の粗方通ったジャガイモを入れて、牛乳を入れる。ドバットでもチョットづつでも。トロミが付いてくればシチューだ。トロミが強いようなら、水を足せばいい、私は余っていたイリコと昆布のダシを入れた。塩気は塩コショウでも固形ブイヨンでもチキンのそれでもいい。まだ試した事は無いが、醤油もいいかもしれない、キムチ鍋の素はどうだろうか。

食パンを炙り、少し深めの皿にシチューを入れ、食らおうとすれば、我が祖先モンゴリアンより遠く離れて旅して来った気分だ。

それにしても、我々は何時まで、故郷の親兄弟からロハ(タダ)で食料を手にするつもりなのだろうか。それを許す構造は、破綻しているというのに。故郷の父母は老いて、無償の愛、愛の無償性を表現することは早晩不可能になるだろう。あなたは故郷からの援助から離れて何年になりますか。

2009年12月21日月曜日

何を食らうか つづく

白菜漬け


さんざん、餅つきの邪魔をしたあげくに、「ほんにのうや」の郷で白菜を貰った。昨日は、揚げと炊き合わせて食った。使ったのは三分の一だ、外側からちまちま剥いで使ったものだから(書き忘れているが、この白菜煮はつれあいの作だ、何をやっても豪快にかたづけて、こちらを見ては「ちいせえ」などと言うのに、こういうことはチマチマやるらしい)丸ままの様子に残っている。しばらく眺めた後、浅づけを作ろう、と思い至った。根のところに包丁で指の入るほど切れ目を入れて半分に割く、その半分にまた切れ目を入れて四分の一、八分の一、このくらいでこらえておこうか、大きいボールにそれを入れ、上から塩を振る、少しく強目がよかろう、もしも辛ければあとで洗えばいい。その上に同じぐらいの大きさのボールを置いてそれに重し(水)を入れれば後は幾ばくかの時が調理してくれる。上のボールから水がこぼれれば、その方が早めに漬かるかもしれない。
さて、浸透圧というのか、その威力はたいしたもので、6時間も経てば、白菜の上に水分が載って来ていた。もうソロソロ食い頃、と見た。ものの白菜を裏返し重しを掛け直したのは、私の「ちいせい」所なのか。いずれにせよ、料理の不安と苦痛と楽しみは続くのである。それは、まるで「人生」のようではないか。

2009年12月20日日曜日

何を食らうか つづく

お好み焼き


目が醒めて、今日は何を食らうか、考える事も迷うこともなかった。お好み焼きと決めていたから。決めたのは、今年の夏だった。

数日前、畑からキャベツをひとつ持ち帰った。8月に種まきをして、9月に定植した後、ろくな世話をしないものだから、草に巻かれそうになっていたものだ。包丁を入れてみるとまだ充分に巻いてはいない、しかし、これでよろしい、半年をかけた夢が実現する。

荒い千切りにしたキャベツをボール一杯に作り、それにタマゴを三つ割りいれた、小麦粉も入れて牛乳も入れて、手でガッサガッサ混ぜた、あまりに軟らかいようなら小麦粉を足したらいい、でも心配なほど軟らかいぐらいがいいようだ、タマゴが繋ぎの役目をするから。さて、フライパンを熱くして、油をしいて、生地を入れる、その上に豚バラでも載せるか、イカもいい、今回は牡蠣があったのでそれを載せた。返せる程に生地に火が通ったら、ヨッコラセと裏返してこれからじっくり火を通す、つまり、蒸し焼きにするのだ、おおなんと残酷な事よ。

お好みソースと好みでマヨネなどかけて食らう。カツブシを載せると揺ら揺らして面白い。餓鬼につましさなどないのだ。 

ブログの孤独 つづく

2009年12月19日の完璧な日記


「ほんにのうや」の郷の餅つきに参加した。表紙の写真がそうである。これは豆餅。洗ったもち米の上にこれまた、さっと洗った黒豆を載せ蒸らす、蒸らし上がると、餅つき器でつくのである。出来上がりに塩を入れておしまい。濛々たる湯気に巻かれて、塩加減はどうか、いま少しか、いやこれぐらいでいい、とさんざん写真の餅をつまんでは試食した。
外は、雪もよう。掘りごたつに浸かり、餅を食い、酒を飲んで、それで一日は朧に暮れていったのである。


2009年12月19日土曜日

言葉を集めて つづく

・ 「テレテイル」


メモには「熟れている。スイカをきってみたらテレテいた」とある。日の光をしっかり浴びて照れている、だろう。しばらく、記憶の中を探ってみたが、スイカ以外に使う事はなさそうだ。それはそれで、いいのである。言葉とヒトとは一期一会でいいのである。

ブログの孤独 つづく

「国民の声」


言葉の端々に茶々を入れ、混ぜっ返す輩はしばしば誠実に欠ける。それは、解かっているつもりだ。だが、しかしである、このクニの現首相が「天の声」ならず、「国民の声」を聞いたと言うのであるから、興味津々なのである。新聞を続けて読めば、なんのことはない、例の小沢氏が、「国民の声」を代弁したということだ。その声を「聞いた」というのである。

ところで、小沢氏が代弁するところの『声』は、悪名高い「陳情一元化」の帰結であるらしい。

1.仮に、人格Aが人格Bに何事かを伝えようとする時、人格Cが現れて「私が代弁する」と言い出したとしたら。「其れは良き事也。」と手放しで認める者はまれに見るお人好しである。人格Cにせよ、代弁者Dが現れれば拒否するだろう。こんなマンガが罷り通っているのだ。

2.視点を変えれば、「国民の声」は多面的なのである。時に、矛盾をもそこに含んでいる。それが、常態なのである。「国民の声」という言葉でひとくくりにする感性は、凡そ政治家に向かないだろう。「劇場型政治」の悪しき流れは少しも衰えていないのではないか。


今年、09年夏、総選挙のあと、無責任な巷スズメどもが「政権交代?・政権交換じゃないの」と囀っていたが、どうやらそれがホントになろうとしている。交換ならば、「返却する」事も想定されるものの、「どこに」なのだろう、時は不可逆なのである。

2009年12月17日木曜日

言葉を集めて つづく

・ 「シロモノ」


人物。ヒトと物。メモには「~のようなしろものじゃけえ」と使用例があり、「悪い意味で使う」とある。元は物に対する評価であったのだろうが、次第にヒトに対する評価の使用が増えたのだろう、今ではもっぱらヒトに使う。直接に言わぬ方がいい、言ってもそんなシロモノにはカエルの面に小便なのである。
方言では「物」を指し示す例が多いようだ。
「シロモノ家電」のような業界用語もあるらしいが、こう見えても、忙しいのだ。師走なのである、残念ながら遊んでいる暇はない。

2009年12月16日水曜日

ブログの孤独 つづく

「内閣の助言と承認」


「3条 天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。」

これが、日本国憲法第3条。全文だ。民主党小沢氏は「君は憲法を読んだことがあるか」と、記者を睨みつけた。なるほど、象徴天皇の国事行為は内閣が決める。文句あるか、憲法にも書いてある。勉強して、顔を洗って出直して来い。彼はこんな調子だった。これは昨日のことだ。さんざんマスコミは流しに流した。ところが、今日になって、共産党が、この発言に、イチャモンをつけた、「小沢氏は憲法第7条も読んだらどうか」と。

 「第7条 天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。

1.憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること。

2.国会を召集すること。

3.衆議院を解散すること。

4.国会議員の総選挙の施行を公示すること。

5.国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状を認証すること。

6.大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を認証すること。

7.栄典を授与すること。

8.批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること。

9.外国の大使及び公使を接受すること。

10.儀式を行ふこと。」

これが、日本国憲法第7条。全文だ。確かに、今回問題になった、政府が招いた中国からの客に会うことは、この中には無い。

さて、小沢氏の論理と共産党の論理は矛盾しているのである。(誰が辞める辞めないなどの次元の話に転化して)済んだことだ、なあなあでいこうや、みたいな空気になっているが、決着をつけて欲しい。なぜなら、小沢氏にしても、共産党にしても、他ならぬこの法の下でその立場を保障されている存在であるからだ。ここには、なあなあの入り込む余地はないのである。いや、有っては法の有効性そのものが疑われてしまうのである。次は、小沢氏が反論する番だと私は思う。
確かに、世の中は理屈だけで出来ているわけではない。しかし、明らかな理屈の矛盾は決着が必要なのである。次に進むためにも。

私は以後の展開に期待している。
よせばいいのに余計を付け加えれば、改憲論者たちが、「天皇の政治利用だ」と息巻いているが、それならば、彼らの想する新憲法草案から「天皇」に関する条項をすっかり抜いてから、言うがよろしい。

言葉を集めて つづく

・ 「サスノボオ」


メモには「天秤棒・モロトの木で作る」とある。おそらく、自分で作ってみたくなって、「ラエ」の先生に聞いたものだろう、モロトは大きくはならないが丈夫な木だ。凸凹の無いようにきれいに磨いて、肩に当たる部分は幅広がいいから、断面はできれば楕円にして、両端に滑り止めの突起を付けた、実にシンプルな農具。鎌、鍬、鋤、など遥かに歴史を旅してきた農具の中で、すっかり姿を消した物のひとつ。(他に「フゴ」があるがこれはまたの機会に)「サスノボオ」は物を運ぶための道具だから、水を運び、藁を運び、土を運び、石を運び、およそ人力で運べる物は何でも運ぶ、糞尿だけを運んでいたわけではない。この道具の優れているところは、ヒトの歩けるだけの巾があれば、どこででも使えること。軽四トラックが入る道がないと、百姓は出来ないなどと、ふやけたことをいう時代には、無用の物となった。さて、この道具はそれぞれの地域で、それぞれの職種で様々に呼ばれていたと想像される。『ほんにのうや』には「六尺棒」とあり、分厚い辞書には「おうご」というとある。

ここまで書いて、時代劇には登場していると気づいた。あれです。魚屋のほらあれが(ここから名前が出てこない)。

2009年12月15日火曜日

言葉を集めて つづく

・ 「ヤケノヒカンパチ」

「やけのやんぱち。」なのである。やけっぱちになってそう言っているわけではない。真面目なのである。「ラエ」の先生は不肖の弟子の私のように言葉で遊んだりしない。言葉はただただ、事柄や気持ちを伝える道具なのである。おそらく、先生は、7文字の収まりのいい数では、この自棄(やけ)は表現しきれないと考え、8文字にしてやっと相応しいところに落ち着いたのだろう。ところで、先生だけかと思っていたら、ちらほら、使う人物はいるのである。たとえば、「コタをカク」の女史。どうやら、ネイティブ地元はそう言い暮らしてきたらしい。

常套句は慣用度の高いほど、元々の気持ちから離れて行く。言葉は常にそれが妥当な攻撃力(衝撃力)を持っているか否か、検証される運命にあるのである。いまどき、常套句を疑問も無しに連発しているのは、言葉で飯を食っているところの、マスコミ(テレビ・新聞)、役人、政治家ぐらいのものなのである。

2009年12月14日月曜日

言葉を集めて つづく

・ 「ボニホットイテ」

メモには「放っておいて。いそいで。」とある。「ウロウロしょうったらボニホットイテ行かれた」(ぐずぐずしていたら置いていかれた)のように使う。ボニは強調の言葉だろう、ブン投げる、ブッ飛ばす、クソ暑い、バカでかい、のように。こうしてみると、「ハ」行が多いな。そういえば強調方言にも、ボッケー、ボーレー、デーレー、モンゲー、バンコ、と「ハ」関係が多い。この事について、これ以上詮索すると面倒だから、これは置いておいて。「ボニ」はどういう言葉(字)から来ているのか、しばらく、傍らを眺め考えた、ひらめいたのは、「傍(ボウ)」だ。「かたわらにおいておく」これではないか。わが故郷はどうやらやっている事はえげつないことでも、言葉においては古式ゆかしく、折り目正しくあるらしいのだ。

2009年12月13日日曜日

ブログの孤独 つづく

デザインのこと


これは、ソバ猪口である。世話になっている、写ってはないが酒が入っている。最初は5個程あったが、次々に割れて(落としたのはほとんど私)これだけになった。早朝に限りなく近い深夜、ネコ供も引き払い、新ためて模様をながめた。「模倣に模倣を重ねているうちに、オリジナルから遠く離れてここに至ったのであろう」と想像した。「そうとしても、思い定めて、抽象に変化しょうとする思いも無いようだ」と考えた。こうしてみれば、「日々の暮らしを彩る物、いや、我々そのもの、もこのソバ猪口みたいなものではなかろうか」、と思い至った。本当に新しいもの(オリジナルデザイン)は、100年に一度現れればいい。さて、一眠りしよう。

2009年12月12日土曜日

ブログの孤独 つづき

紫蘇(シソ)のこと


シソは青いものと紫のものがある。どちらも前の年の種が落ちていれば、放っておいても生えてくる。それを苗にして、一列にでも二列にでも何列にでも作ればいい。ただ、注意することは作り過ぎぬこと、丈はヒトの肩までになり、虫も病気も寄り付かず、おまけに丈夫ときているから、持て余すことになる。シソは香りのものだから、何にでも混ぜ込んだらいい、汁に飯に肉に梅干に。

さて、春に芽吹き、夏に茂り(その葉をもらい、散々食い散らかした)、秋に葉を落とし、冬にすっかり枯れてパリパリの枝と茎だけになったシソを片付けた。四つ目鍬で倒していると、夏に楽しんだシソの香りがあたりに漂う、シソはいつまでもシソなんだ、と妙に感心した。香木はその香りを何百年も保つという、話を思い出したりした。

2009年12月11日金曜日

ブログの孤独 つづき

ネズミ騒動始末記 つづき


時ならぬ、騒ぎに階下におりてみれば、我が家の廊下でネズミに出会った、それも傍らにネコを従えて。私には威丈高を常とするつれあいが「ヒャー」と言って逃げまわっている。あんなに浮き足立って「ザマアミロ」と思うが、どうしたらいいものであろうか。何処で何を食ってそんなに大きくなったものか、こいつはネズミのイメージをはずれて大きい。「どこからでもかかっていらっしゃい」と身構えている様子だ。ネコを見れば、規格はずれの大きさにおじけがついたものか、目を細めて眠ったフリなどしている。犬猫に加えネズミを飼うわけにはいかない。しばらく前から天井裏を駆け回っていたのはこいつだったのか、そこにそのまま居ればいいものを。金バサミを持ち出して、エイと摘んで捨てた。(ネズミもこのくらいになれば、金バサミをカリカリと齧る)
眠ったフリのネコは、「ようやったな~、偉いな~」とつれあいに頭を撫でてもらったりしている。

とりあえず、平穏は戻った。二階でこれを書いている。と、いつもは下から大声で用事を済ませるつれあいがめずらしく上がって来る。「何事だ」と聞く前に、「犬が仔を生んどる」と言う。さて、どうしたものか。

2009年12月10日木曜日

言葉を集めて つづく

・ 「ショウヤク」

やはりこれは方言なのだろうか、それももっぱら百姓の用いるところの。分厚い辞書にはない。『ほんにのうや』にもない、『方言辞典』には「処理する、整理する。」とあった。この説明では靴のうえから足を掻くような気持ちだ。具体的に書いてみよう。農作物を収穫する、土や枯れた葉や髭根はまだ付いたままだ。これを持ち帰り、「ショウヤク」しておいて、と家の者にたのむ、すると土は落とされ、不用の葉は外され、髭根はむしられるのである。つまりちょうど、八百屋の店頭に並ぶ野菜のようになる。この行為が「ショウヤク」なのである。思うにこうした、「整える」作業が廃れぬうちはこの言葉は身近からは無くならないだろう。
それはそれとして、どういう字を当てればいいのか、検索してみれば、岡山辺りでささやかに流通している言葉らしい事は解かったが、字までは解からない。「整約」「要約」「集約」「総約」「性約」「処約」と当ててみても、どれもいまひとつだ。解からないとしておこう。

ショウヤク、ショウヤクと頭の中で牛の如くに反芻していると、数学の教師が黒板に数式を書き並べ「ここまでをショウヤクすると、こうなります。つぎに~」と説明していたような気がしてきた、これは「証約」「小約」「抄約」だったのだろうか。方言の「ショウヤク」はこのイメージに近いような気がする。
それにしても、数学の記憶が言葉づかいの記憶だけだ、というのはいささか寂しい。

と、書いて半日。「嘗役」はどうかと思い至った。農作物栽培において、土と水と太陽による養い役は収穫によって終わり、後は手のみの役(約?)が始まるのである。

2009年12月9日水曜日

言葉を集めて つづく

・「アラツカ」

実(まこと)にものを知らぬという事は辛いことではある。「糟糠(そうこう)の妻」を「アラツカの妻」とつい最近まで読んでいた。いつから間違えていたか、おそらく、つれあいと連れ合って後だろう。年月を数えることもはばかられる。

ところでこの「アラツカ」は方言なのである。『ほんにのうや』には、「あらつかな」の項目に「荒っぽい、粗野な。」とある。「何事にも雑であること」がその意。「荒」ではなく「粗」が相応しいだろう。分厚い辞書にはアラツの項目に「放つ」とあるがそれでも大勢は変わらない。家には、時として「粗つ神」が居たのかもしれない。私にはボーットした記憶しかない。

2009年12月8日火曜日

ブログの孤独 つづく

「脱官僚依存政治」

呼ばれもしないのに、騒ぎがあれば顔をのぞけて一言口を挟む人物を「イッチョカミ」と云うらしいが、どうも私もそうらしい。民主党の新しいルール「陳情一元化」をめぐって、「イッチョカミ」してみよう。
最初から、調子が低くてゴメンナサイだけれど、残念な事に私は国に「陳情」した経験が無い。まして官僚ではないから、「陳情」を受けた経験も無い。したがって、これまでの自民党的陳情システムの弊害がまずピンと来ない、現場を知らないのだ。
一方、「脱官僚依存政治」を目指すという民主党が、そのためには「陳情一元化」がどうしても必要であるとする論理も今ひとつピンと来ない。「官僚依存」しないで政治をやりたいのはいいとしても、「窓口はひとつだけ」、というのは揚げ足を取るようで恐縮だが、あまりに「官僚的(お役所的)」発想と思われる。

さて、私の「窓口はひとつ」の経験を述べてみよう、相手は「市」だ。苦情、要望、お願い、言葉はあれこれでも「陳情」だろう。「市」に直接連絡すると、時としてしばしば、「町内会を通して」。と言われる。町内会を通してもいいが、いまひとつ市に届くものかどうか解からない不安がある。おまけに、直接「市」と交渉したりすれば、越権であると町内会の機嫌が悪い。「窓口はひとつ」は私にとって何もいい事は無かった。これが、私のささやかな「陳情一元化」の経験である。(単なる任意団体の町内会を、行政の末端機構のように扱うのは、「役所の手抜き論」を超えた問題がある、これについては、またの機会に)

これ以上書くことは無い。ただ一言付け加えれば、今、議論を呼んでいる、「事業仕分け」「陳情一元化」が彼らの弱さの表現で無い事を祈るのみだ。パホーマンスの成功体験を持つ者はまた、偽りのパホーマンスに躓くものだ、二度目は喜劇として。帝国で80年、ついで世界最強国の属国となって65年、人口1億2000万を擁し、世界でも指折りの工業国である国家をコントロールする難しさは想像を超えるものがあるとしても。

言葉を集めて つづく

「方言」

これは方言である、とか、方言ではない、とか散々書き散らしてきた。敗戦に至る記念の日(1941年12月8日、このクニの愚かな支配階級がアメリカ軍真珠湾基地に攻撃を仕掛けた記念の日、見方を変えれば、帝国から現在のこのクニの在り方に変化した画期の最初の記念の日)朝風呂に浸かって、鼻歌マジリに居ると、「世に言葉は無数にある、それをこれは方言これは違うと仕分けする基準は何だろうか」と思い始めた。私は手元の『ほんにのうや』『方言辞典』に載っているか否か、で決めている。それはそれで、イイとしても、普遍的方法ではなかろう。風呂につかり、あれこれ考え合わせ風呂から上がり調べてみたが、どうやら、正解は無さそうだ。よし、これで、もっと気ままに、言葉の仕分けができるぞ、と考えた。「いい加減な事を言うな」という輩には「いい加減でない基準は何だ」と言い返してやればいいのだ。

ところで、方言といえば、「地域における言葉の特徴である」のは、そうとしても、たとえば、特定の集団にも独特の言葉がある。これらを方言としてもいいのではないか。こうしてみれば、どうやら、永田町方言、霞ヶ関方言もありそうだ。

2009年12月7日月曜日

何を食らうか つづく

焼きソバ
レタスの間引いたのが、スーパーのカゴ一杯に出来た、どうして食らおうかと考えた。牛ならばの其のままを三口でたいらげるが、いかんせん、こちらは、資格を疑われつつも、ヒト人類だ。冷蔵庫を漁れば、イカの刺身の残りとやきそばの麺がある、これでいく。
中華なべに少しの油をたらし、麺をカリカリに炒めた、(どうも、焼きそば麺は、いったん水分をとばして、それに野菜の水分を入れた方がいいみたいである)上にイカをのせて、クルット反転させる、「ジュー」と音がして、しばらくはそのままにする。冷静になれば、料理は残酷な行為の繰り返しなのだ。10秒もすれば炙りイカになっている、さて、今度はレタス。中華なべから溢れるほど放り込んで、また反転、「ジャー」と水気がとんでいる、前後に揺すったりして、しんなりするまで待とう。その間に、お好み焼きソースを用意した、これを麺に絡ませて出来上がり。あんなに嵩高かったレタスは一握りにしおたれている。歯応えもいい。
後で思うに、これは小麦粉抜きのお好み焼きではなかったか。

ブログの孤独 つづく

09.12.7完璧な日記


午前5時起きだす。晴天であろうか、外は暗闇。耳を澄ませば、風音あり。枕を下に、なにを食らうか考える。イワシの干したのが軒下にある。昨日20センチ位の鰯をスーパーで見かけて買った。活きは良さそうだ。干し物にした。手で頭を取り、腹をヒトさし指でこそげ、親指を腹の尾の側から入れて、スーット頭のあった所まで滑らせる、こんどは頭の方から尾びれに向かい背びれのところまで深く親指の腹で背骨を探りながら尾まで行く。包丁はいらない。それで開きをつくる、塩を適当に溶かした水を平たい器に作り、それに、(洗おうと洗うまいと、勝手だ、)開いたイワシを漬ける。漬けるのは、30分でも、3時間でも、一晩でもいい。ただし、漬けた時間と、入れた塩の具合により、辛い甘いは決まる。それから、干す。風があって、いちどきに表の水気を持って行ってくれた方が旨いようだが、こればかりは、天気任せだ。

焼いてみれば、メザシ程の塩気であった。

料理は「勝手流」でやっている。思い返せば、子の小さい時の保育園で「食べ物の好き嫌いをどう直すか」の論議の席。「お願いしてまでも、食べてもらわないでもよろしい」と発言して冷笑と沈黙を作った時から、「勝手流」は始まっていたのか。私が、食いたい物を食いたいのだ。それ以外に人生の目的があれば教えて欲しい。

(以下略)

2009年12月6日日曜日

ブログの孤独 つづく

09年12月5日の完璧な日記


午前4時過ぎ、起きだす。今日は何を食らうか、枕を下に考えた。大根で何か。卸して?干して?炊いて?よし「おでん」を作ろう。土曜日だし、家の者も終日いる。食べる時も定まらぬ事だし作っておけば、あとはストーブの上で温めておけばいい。「おでん」は大根の食感とスープを味わうための「メニュー」だ。

スープは鶏ガラ。生姜、ニンニクの切れ端を入れてコトコト炊く。ついでに昆布、イリボシも入れてみようか。その間に、皮を剥いた大根を輪切りにして面取りをする、コンニャクはホークの先で筋に傷を付けて、牛スジ、昨日掘ったジャガイモも入れよう、練り物は竹輪でいこうか。具の連中を下ゆでして置いて、出来上がったスープと合わせ、大根とジャガイモに火が通れば出来上がり。塩気は「おでんの素」でも放り込んでおけばいい。それよりも、大根に味を染ませるためには、いちど冷まして置いた方がいい。朝飯にはやきそばを作る事にした。炒め物は、材料を強い火でイジメに苛める、(以下、略)。

新聞の折り込みをながめていたら、つれあいが通りかかる「あんたの好きなソーセージが248円」と教えてやると、「チィーセー」と私のシミッタレを一言でカタズケル。そのくせ、次に通りかかった時には「どこで?」と聞いてくる。彼女は食い物に極端に弱いのだ。

午後は、畑に行く。レタスを間引いていると、「ザー」と西風が吹き始めた。音のする山の方を見れば無数の木の葉が真横に東に流れている。風の音は空気が物に当たって擦れる音であるが、この時期のこの音は独特である。飛び去る木の葉同士が擦れあう音も混じっているのだろう。紅葉もおしまいに近くなれば、ほんの少しの風でいちどきに、葉は落ちるものなのだ、その昔、タマネギ苗を植えていると、突然、滝のように木の葉が落ちてきて驚いた事を思い出した。

「光」は対象物に当たってはじめて、その姿を現す。今日の私の意識もまた幾つかの対象物に遭遇したようだ。

2009年12月5日土曜日

言葉を集めて つづく

・ 「トマヲフク」


メモには「肥が良く効いて、茂りすぎているようす」とある。方言である。しかし、方言辞典には無い。「フク」は「噴く」あるいは「吹く」だろう。「トマ」は何か「苫小牧」の「苫」だろう、「すげ、かや」のことらしい。「苫を噴く」。とここまで書いて、自信が無い。これは「ラエ」の先生が使っていた言葉。意は明らかなのだが。

2009年12月4日金曜日

言葉を集めて つづく

・ 「ブッツケテ」


メモには「全面的に」とあり、用例として「ぶっつけて草が生えとる」とある。方言でも、古いことばでもない。ただし、「衝突させる」という意ではなくて、「容赦無しに発散する」の意(草が隙間無しに容赦なく生えている)。「感情を~」、「気持ちを~」ぶつけると同じ用法。ところで、「ぶっつけ本番」の意は、どちらなのであろうか。

ブログの孤独 つづく

・ 「オリオン座を」


犬と共に夜の散歩に出ると、建て込んだ昔ながらの家並みの道で「オリオン座を」見上げた。屋根越しの「オリオン」は全体をいちどきに見渡せない程デカイ。東方に星座を追って歩けば土手沿いから山越しに見える「オリオン」はいつもの大きさに戻っている。こんなのを「目の錯覚」と言ったりするのだろう。そこに実際にある物でさえ、こうだから社会現象の見え方は「認識の錯覚」に満ちているだろう、と考えた。
(つづけて考えたことを以下に記す。)

ところで『差別』もその「錯覚」のひとつだろう。最近の新聞記事から、ふたつ例を挙げてみよう。
ひとつは、「同和問題」。「結婚約束破棄」は「人権侵害」であると公務員が処分されたと記事にあるのは、近しい者の教えるところによれば身分差別に起因したことらしい。新聞に載るだけまだましとも言えるものの「人権侵害」としか書けないのは、この問題の深刻さを物語っているだろう。
もうひとつは「思想差別」。マンションに共産党のビラを配ったということで、最高裁で有罪(住居侵入罪)となった。これが仮に他の政党であったらこういう結果になったであろうか。通報、逮捕、起訴、そして控訴、といくつものハードルを乗り越えて最高裁に至る経緯をみれば、単なる法の解釈と運用の問題ではない「共産党だから差別されて当たり前」という、政官業中枢の成文化されていない意志をそこにみる。

いずれのケースも、差別される者を萎縮させることになる側面があることはいなめない。結婚(婚約)をためらわさせ、ビラ配りをためらわさせるだろう。
しかし、たとえそれが為政者にとって今のところ有益なことであるとしても、差別を放置している為政者は、やがてこの差別のメカニズムに自らが苦しめられる事になるであろう。これは歴史の教えるところである。

ここまで、考えたところで、家に帰りついた。「今日はどうしたものか、おとなしい」と庭に座った犬どもが思案の私を見上げている。

2009年12月2日水曜日

言葉を集めて つづき

・ 「アメツユモラサズ」つづき


11月30日に「あめつゆもらさず」を書いて後、どうもスッキリしない一日を過ごした。「天駆ける~」、と言ったりするじゃないか、「あめ」は「天」を含んでいるような気がしてきた。「あめつゆ」をほんの少しずらして「あめつち」とすれば「天地」である。天地もらす事なしに。こうではなかろうか。「いっさいがっさい」「細大漏らさず」の意は変わらぬにしても、この方が落ち着きがいいようだ。「天地を網羅して」とまでは行き過ぎとしても。
それにしても、我等が先輩の造語力には敬服するほかない、雨露と天地を掛けてなを意は同じである。この言葉は「ラエ」の先生から聞いた。

余計を付け加えれば、マスコミで「天下り」を「適材適所」などと擁護する論調もみられるが、ほとんどがそうでないから問題なのだ。百のうちひとつの例外を挙げて、九十九もそうだとするのを詭弁と言うのではなかったか。