2011年11月2日水曜日

遠野・物語・序文 1

「遠野」「物語」「序文」
中秋の名月にちなんで九月十三日に、子規先生の我がまま気ままな文章、そのくせ見事な身勝手を読んだ。(「飯待つ間」の月)そうしたら、これまた大先生柳田国男「遠野物語」序文を思い出した。これがまたおもしろい。さて、と書いて。
もう一時間も『遠野物語』を探している。
3月(3.11)の時、津波の項目を読んだ記憶があるから。それから何処へ置いたか。
子規・漱石の明治のおおらか、風通しのいいユーモア。それがこの本の「序文」にもあった。
見つけた。意外に近いところ(枕の横)にあった。少し書き写そう。「初版序文」の書き出し部分「この話しはすべて遠野の人佐々木鏡石君より聞きたり。昨明治四十二年の二月頃より始めて夜分をりをり訪ね来たり、この話しをせられしを筆記せしなり。鏡石君は話上手にはあらざれども誠実なる人なり。自分もまた一字一句をも加減せず感じたるままを書きたり。(略)願はくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ。この書のごときは陳勝呉広のみ」

文語で読みにくいけど、1910年(明治43)に書かれた文章としてはこれぐらいが平均だろうか。1904年(明治37年)漱石によって書かれた「吾輩は猫である」が斬新・異例なのだ。有名な「平地人を戦慄~」のフレーズがここにあることを書き写していて見つけた。ちなみに「陳勝呉広」とは「きっかけ・さきがけ」という意だそうである。柳田氏この時三十五歳、若者らしい率直な語り始めが好ましい。
さて長居は無用だ。この序文の肝。
「思うにこの類の書物は少なくも現代の流行にあらず。いかに印刷が容易なればとて、こんな本を出版し自己の狭隘なる趣味をもちて他人に強ひんとするは、無作法の仕業なりといふ人あらん。されどあへて答ふ。かかる話を聞きかかる処を見て来て後、これを人にかたりたがらざる者はたしてありや。そのやうな沈黙にしてかつ慎み深き人は、少なくも自分の友人の中にはあることなし。」
そうなんだなー。書いちゃあいけん。出しちゃーだめ。と言われると余計にしたくなる。ガマンなんか出来ない。文語のわりには読みやすいのは彼の文才による。柳田民俗学を支えているのは科学の方法、統計の駆使、厳密な論理構成ではなくこの文才に負うところがあると私は密かに思っている。彼は後年民俗学の大家になる。なったのちの悠々とした語り口は私には面白くない。
1935年(昭和10年)の再版覚え書きには、初版は、佐々木氏など関係の者に渡した後、「その他三百ばかりも、ほとんど皆親族と知音とに頒けてしまった。全くの道楽仕事で、最初から市場にお目見えをしょうとはしなかったのである。」と書いている。350部ほどしか刷らなかったらしい。(知音は知恩ではなかろうか)
商売にならない。市場が相手にしてくれない。儲からない。ブログの読者がいない。そんな悩みを持つ者には、この一連の序文は多いに励みになるのである。
これで、「遠野」「序文」はすませた。あとは「物語」。本文の中身を材料にして私見を述べたい。

2 件のコメント:

つらつら さんのコメント...

父が柳田國男の研究やってました…
子供心に「めんどくさい事やってるな」と思ってました…
今は尊敬してます。

野良通信 さんのコメント...

コメントありがとうございます。「物語」部分について、書こうと思いながら後回しにしていました。「遠野物語」は我々が現在楽しんで、享受している「ドラマ」の基本が詰まっているというのが私が書こうとしている趣旨でした。
『生(性)と運命と死』。我々がこの生存過程に於いて常に対峙していること、そして一番の興味をいだくこと。「遠野」の中に溢れているそれ。
一行たりとも、書くことは「読み手」を想定しなければ成り立ちません。犬の遠吠えが確かな相手を想定しているように。コメントありがとうございます。