2012年11月23日金曜日

新聞

「新聞」を配達してもらっている。私は活字依存症なので、一ヶ月、三千円の値を「高い」とは思わない。これまた依存症のタバコ「一箱、四百四十円」に比すれば安いのではなかろうか。
コンビニに買いにゆく「新聞」に比べて配達されるものは何が違うか。「チラシ」が折り込まれているのだ。それを読む楽しみ、比較して読む楽しみが、私の中にあることに気づいている。
今朝のことだ、めずらしく、チラシを見ていた「つれあい」は「安いなー」と感心している。ことほどさように、この女史は世事に疎い。(昨日買ったバナナ一本の値は十円でっせ)
三つ四つのチラシを比べて「どうしてこんな値段で?」と感心しきりである。スーパー業界の苛烈な競争の事はさておいて、私は「どんなに安かろうが、買う原資、つまり、お金を持っていなければ、高い安いは関係ないわけで。その事こそ問題になるのじゃーないか」と水を持っていくと、「この空弁、駅弁、美味しそー」と興味はまた別のところにあるのである。
「日本文学史序説」は二百頁まで読み進んだ。遅々として進まない。しかし時として「読むことの喜び」がある。

追伸
翌日、つれあいは、駅弁をふたつ抱えて帰宅した。彼女のココロの中で膨張し殺到しているはずの「売り場」は虫眼鏡で探さねばならぬほど「ちっチャ!」なものだったらしい。その話を肴に駅弁をいただいた。「感想」は?と聞かれれば「駅弁」は汽車の中で食うものでしょう。と答える他ない。

1 件のコメント:

玉井人ひろた さんのコメント...

活字は、なんといっても自分のペースで読める、そして何度も読み返せるところが良いところですね