2016年8月25日木曜日

行き違いには

おふくろが少し離れた町の病院に入っている。昨日のことだ、顔を覗けると、まっていましたと言わんばかりに、彼女から注文があった。補聴器の電池を買ってほしい。遠藤周作『沈黙』を読んでいるが文庫本なので文字が小さくて読みづらい、彼の他の本を読んでみたい「彼の書くものは面白いから」という。さらに、家で読んでいた新聞「毎日」を病室で読みたいとも言う。
死にかけて担ぎ込まれたヒトにしては随分な回復ぶりだ。
遠藤周作についてはネットで「ユーモア小説集」というものを注文しておいた。それにしても今時彼を読んでいる読者はどれくらいいるのだろう。
新聞はその町の「毎日新聞販売」を調べて電話して置いた。
さて今朝のこと、朝七時におふくろからの電話。何事ならんと聞けば「山陽新聞がきとんじゃけど」。ん~?となって昨日の販売店との会話を思い浮かべた。
「毎日新聞販売ですか、〇〇の病院の〇〇室に入院している××に新聞を届けてもらえますか」と頼み、こちらの連絡先も相手に知らせておいたのだが~。確かに「毎日新聞を」とは言わなかったな。
事ほど左様に、ヒトとヒトとの意思疎通は誤解と思い込みの障害物レースのようなものなのだ。換言すれば、ヒトとヒトは互いの思い込みによって繋がっている存在なのである。
街なかのカップルが人目にも憚らず必要以上とも思える接触行動を行う理由はこの辺りにあると考えた。言葉のやり取りなんて彼ら彼女らの「切実」には対応しきれて居ないのである。
さて件の販売店に電話して「行き違いが有ったみたいだ」と告げるとスンナリ誤解は解消された。オトナは「行き違い」には慣れているのだった。

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