2015年10月9日金曜日

言葉はことばだ

しょせん言葉は言葉でしかない。しかし、母語ニホン語のヒトビトは人生最後の言葉を「もっと光を」英語で、「息が苦しい」をラテン語で発する事はまずあるまい。例外なくヒトビトは断末まのときでさえ母語の言葉を発する。このことは我らの使用する言葉がここにあるというだけで幸福な事なりと言うべきなのだろう。方言を駆逐し、植民地においてはニホン語を強要したこの国では。ところで、
我が気持ちを「言葉」に翻訳?して記述することを面倒なりと思い始めている。 
 発端は「毎日新聞」2015、10、4日2面の記事。見出しだけ記述する。「シリア遠のく和平・自国利益で介入相次ぐ・米大統領露を批判」記事の趣旨はロシアがシリアで空爆を始めたということ。それだけだ。それだけの中身に「シリアをめぐる相関図」まで添えて2面のトップに載せる毎日新聞編集部の意図は何か。それは「嫌ロシア」の世論の形成だろう。この記事には「自国利益で」アメリカが以前から空爆をしていた事、それへの批判は無論ない。だって客観報道だもの。母語の使われるこのクニは「自国利益」のためにどうしているかの記述もない。だって客観報道だものな。我が国においては縦横無尽に上空を占拠しているアメリカがシリアにおいてもそうである事、あった事に今更「毎日新聞」は驚かない。換言すればそのに独処にロシアが割って入った事が「ニュース」なんだろう。

内閣が替われば「提灯記事」(ヨイショ記事)、「ご祝儀記事」を書くことがマスコミの習いだった。しかし今回(内閣改造)の場合「毎日」は違った。わざわざアンケートまでとって、否47%、諾22%と報じている。毎日安倍と一緒に寿司をつまみつつあるわりには辛口だな。裏側から見れば安倍一族慢心の証ということであろうか。
 
「民主主義」とはなんだろう。多数に従うこと。少数の意見を尊重すること。そんなありきたりの説明に腑に落ちぬ思いがしていた。昨日のことだったか3.11震災犠牲者の身元不明遺体の特定過程がニュースになっていた。それを見て「そうなんではないか」と思った。「ひとり」を、タダのひとりであっても、(いやそれだからこそ?)多数と同じように尊重する。この事の意味。
多数者のひとり、少数者のひとりはどちらも「ひとり」として尊重されてあたりまえ。そんな価値観。
良くも悪くも「個人主義」などという物はそんな土壌からしか生まれないのではなかろうか。  

「右を見て左も見てもみんなが渡らなければ渡ってはいけないよ青信号」近くの交番のポスターに有ったような無かったような。

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