2015年10月9日金曜日

2015.10.9の日記

しんぶん赤旗2015.10.9「潮流」http://www.jcp.or.jp/akahata/aik15/2015-10-09/2015100901_06_0.htmlを読んでいたらあることを想いだした。加藤周一のベクトル。鶴見俊輔の「歴史学の生きた課題」。

ニュートリノ。「存在はする」のだが何でもかんでも反応なしに通過してしまう物質を「反応」を感知することで見つけたのだと読んだ。(ニュートリノに触発されて、ニューメキシコ、ニュージヤージー、ニューヨークを思い浮かべた。ところでニューバージニアは何処に有るのかしら)

「反応がなければ」その存在は感知されない。そういう事になろうか。

たとえば光。光を反射スルことでモノの存在は認識される。(良く磨かれたガラスは時としてヒトに悲惨な結果をもたらす。)いや、ヒトにひかりの知見をもたらす網膜もまた光を受けて反応する。

反応がなく認知されない存在が微細でとるに足らぬモノ(無視しても良いモノ)とは言えまい。イヤむしろ、そういったそういった存在によって我々の今が規定されているという考え方も認められるだろう。

加藤周一。鶴見俊輔。おふたりとも故人になられた。彼らは今まで述べた「見えないが見えている物よりも重要なモノ」を追求されて来た。

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