「盆」には先祖が帰ってくるという。さて私にとっての先祖とは、と考えてみたが、見知った数名が思い浮かぶだけで、その先はおぼろである。「盆」とはいえ、見知らぬ者どもにドヤドヤ上がり込まれても、こちらは戸惑うばかりであろう。「わしゃ~、あんたのじいさんのじいさんになる。これは嫁」と杯を差し出す赤ら顔に酒をつぎながら「そうなんですか、で、そちらの方は?」。
そんな、やくたいもないことを考えていたら、室生犀星 1889~1962年(M22~S37)の詩を思い出した。
切れ切れの記憶をもとに、インターネットで検索してみた。「好めるオモチャ」「あみがさワラジのたぐい」「おのれちちたるゆえ」を「犀星」とともに検索にかけると『靴下』が出てきた。
『 靴下
毛糸にて編める靴下をもはかせ
好めるおもちゃをも入れ
あみがさ わらぢのたぐひをもをさめ
石をもてひつぎを打ち
かくて野に出でゆかしめぬ
おのれ父たるゆゑに
野辺の送りをすべきものにあらずと
われひとり留まり
庭などをながめあるほどに
耐へがたくなり
煙草を噛みしめにけり 』
(室生犀星「忘春詩集」) 1922(T11)犀星33歳。
年賦によれば、32歳で授かった子(溺愛したと書いてある)に33歳の時に死なれている。その時の体験をコトバにしたものらしい。
「会うは別れの始まり」であるから、残念ながら誰でもいとおしい者を失う。しかし、ここまで、簡素に鮮明に、記録したものをあまり知らない。
「をも」の連発の仕掛けは、文(文章)は初めの一行目から順番に読み進めてゆくという法則を巧みに操っていると感心する。「石をもてひつぎを打」つ空しい音が聞こえてくるようではないか。90年前の事だ、今は見かけなくなった縁側のある家での情景を想像した。
しかし、何より、私がこの詩をいつまでも忘れられずにいる理由はそんなことだけじゃないだろう。ここには、近代になって初めて表現しえたところの精神のかたち(ある意味で雄雄しいそれ)があるからではないだろうか。
付記。たとえば、宮沢賢治「永訣の朝」と読み比べてみてください。かたや信者としての別れ、かたや宗教を媒介とせずに、いとおしいものとの別れのかたち。
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