2010年8月25日水曜日

池のこと

池水を抜く




雨は降らない。今日は朝から池水を抜きに上がった。

排水路に水は無い


水はこのくらい。池は大きな茶碗みたいなものだから、このくらいでもあと半分あるかどうかだろう。ちなみに下に8月10日の絵



抜けば涸れていた沢を水は落ちて行く。

沢音を後ろに聞きながら降りてゆけば、「稲の葉先に時をきめて昇る水玉」(永瀬清子詩集・私は地球)をみる。




ところで、どうして池水を抜きっぱなしにせず、断続して抜くのか。その理由は以下

1.ひでりがいつまでで続くかわからない

2.池の水には限りがある

3.断続排水の方が、水の消費は少ないだろう

さてこうして、三日にあげず池水を抜いている訳だが、人里では何事もなく水を待っている訳ではない。10日ほど前の夕方、百姓仲間がたむろしているところに行き合わせた。「もうワシの田には水は来た、池は止めたらどうか」とか「なんで、わしの田の水口を止めたんなら」と百姓根性丸出しの文句ばかり。皆さん私よりも歳は上だから私には好きな事をいう。稲を付けていないギャラリーもヘラヘラ笑って見ている。私の頭の後ろの方でプチンと何かが切れた音がした。「○○さん言うとくけど池を抜いとる時には、水のことはワシが判断する」、以下、理由を私は「まくしたてた」が、合理的でも、論理的でも無かったと後で考えた。全ては私の判断のしからしむる所なのであるから。私は百姓なのでいつも鎌ぐらいは持ち歩いている。そちらの方が説得したのか、その場からギャラリーはコソコソと三々五々にいなくなり、百姓仲間も不承不承に散開した。

限られたものを、平等に分配することは、そんなに簡単なことではない。池水の分配。こんな「ちっぽけな公共」でさえこのありさまである。
さて、野良に棲息するヒト人類どもにメンタマをひんむいた私の矜持とはと私に尋ねれば。
「文句があるなら、あんたがしなさい とは口が裂けても言わぬこと」その上で
「この先、雨なしで池水が枯渇し、稲の収穫に支障が出た場合、私は、まず私の田の稲を犠牲にする。そうして、そうしたことは、口外しないこと」であるようだ。

おお、コドモっぽい「ヒロイズム」だと笑わば笑え。「こうさせてもらいますから、私には、こうしてもらえますよね」みたいな野卑な論理しか、今は流通していないのではないのか。それに比べれば少しはましだろう。

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