2012年1月25日水曜日

オデン・筑前煮・干し秋刀魚

昨日のことだ、食料の買出しから帰ったら、おふくろが筑前煮(鶏肉・ごぼう・コンニャク・ダイコン・ニンジン・しいたけ・高野豆腐・小芋などを煮たもの。汁は煮詰めて具に絡める)を作っていた。

それはそれで喰えばいい。しかし、煮物が重なるにしても、私は予定していた「オデン」(たっぷりの汁・牛の筋肉・ダイコン・ゆで卵を浮かべたもの)を作った。筑前煮と材料が重ならないようにした。

これが我が家の「メニユー係」私の工夫である。練り物(ハンペンなど)とコンニャクはいつでも汁の中に投入できるようにしている(むろん下湯でしてからの事になる)。
この判断について、誰にも文句は言わせない。ひとつの家に主婦(主夫)は一人しか棲息できないのである。

「個性」と「全体」との軋轢と融合これは、我々の日常生活における永遠のテーマではなかろうか。と書いて後、止せばいいのに、この寒風でしか出来ない。と秋刀魚の生(解凍)を開いて塩水に漬け、干し網に仕掛けた。

我ながらいい出来だ
さて、オデンと筑前煮と秋刀魚干しの行方はいかに。

書くまでの事ではないけれど、我々の「日常茶飯事」は文字どおり「食い物」を中心にして回っている。事件は現場でそれも、食卓の上で起きているのである。皿にひとつだけ残った「牡蠣フライ」を誰が食すか。互いの間合いを計り、力関係を考え、恋の行方ほどにも、悩むのが「我々の習性」なのだ。このケースの場合、「あんたの手元にあるソースの乗った皿、それをこちらに寄越しなさい。残ったソースがもったいない」とのつれあいの一言で解決したのであるが。
これを書いていると、雪が降ってきた。


地球はまだ美しいか

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