2011年7月15日金曜日

御祇園さんの笛

先の日曜日のこと。我が村では「おぎおんさん」があった。祇園祭(会)のことである。家にいたら、遠くから「ピーヒャラ・ピーヒャラ」と笛の音が聞こえてきた。次第に近くなれば、話し声や、足音も混じってまことに祭りの気分になる。
笛の音を聞いているとひとつのパターンを繰り返していることに気付く。繰り返すということでは、物売りにも似ているし、廃品回収車にも似ている。しかし、何をもって来ようとこれが元祖であろう。

「ぴーぴーひゃらら、ぴーひゃららァ
 ぴーぴーひゃらら、ぴーひゃららぁ
   (繰り返し)
 ぴーひゃらぴーひゃら
  ぴーぴー。」
ことばに表わしてみるとこんな感じである。小さい「ァ」の部分は音程が上がり、小さい「ぁ」の部分は下がる。最後の「ぴーぴー」は少し間延びしていてまことにもの悲しくもある。と考えていると。
こんな詩を思い出した。

「      ふるさとにて

ほしがれひをやくにほひがする
ふるさとのさびしいひるめし時だ

板屋根に
石をのせた家

ほそぼそと ほしがれひをやくにほひがする
ふるさとのさびしいひるめし時だ

がらんとしたしろい街道を
山の雪
りが ひとりあるいてゐる」


田中冬二
1894明治27年) - 1980昭和55年)の詩である。
我々はこの時代になって、初めてミゼラブルな我とわが身を映し出す鏡(近代的精神)を手に入れて、さかんにこんな詩が作られたのである。
原発の時代を映す鏡を我々は何時になれば手にすることが出来るのだろうか。

ついでに、こんなのも思い出した。


これは見なかった事にして欲しい。

追記。7月16日夜。犬の散歩をしていると、この村の祭りの笛を吹いているS氏に会った。同世代の彼も犬を連れている。「ちょっと、教えて」と祭りの笛のことを聞いてみた。
彼の言うところによれば「おぎおんさん」の笛は二曲あって。私の聞いた「ぴーひゃら」は祭り(を知らせて?)の道中に吹く曲だそうで、もうひとつ、山車(ばあさん達の愛用する乳母車を大きくしたみたいなものだが)を停めて要所要所で吹く曲に比べれば簡単な方であるということだった。
「秋祭りには違う曲?」と聞けば。「全然、別の曲」という「全部でどれくらいある?」「さー、何曲ぐらいじゃろうか」とそれほど多いみたいだ。
私の思うに、映画音楽やTVドラマのバックに流れる音楽、みたいに祭礼の場面場面に合った曲が用意されてあるらしいのだ。こうしてみれば、お囃子方は、まるでオペラの楽士ではないか。
これは、ブログを書く事で得た、ちょっとした発見だった。








4 件のコメント:

sansan さんのコメント...

今朝から雨です。
「詩は跳躍で、散文は歩行」という言葉を
聞いたことがありますが、私には詩を味わう
心がとぼしいようです。それでも、ときに
詩から感銘をうけることもあります。
また、そのときの心の持ちようや、出会いの
状況によって、普段なら気にならない詩に
思いを深めたりします。
ほかの人のブログで紹介された詩との出会いも
面白いものです。

野良通信 さんのコメント...

コメントありがとうございます。
毎日毎日、膨大な量の言葉が使われて、役目を終えれば捨てられてゆきます。
時には、捨てるには惜しいような言葉があってそれを文字に記録して繰り返し、再現して楽しむ。
詩や散文の意味はといえば、そんなところでしょうか。
日本語に限らず他の数千の言葉も同様なようで、これはヒト人類の悪癖?でしょうか。
これからも、楽しめる言葉のコレクションを提供する試みをつづけてみましょう。
機会があれば読んでやって下さい。

玉井人ひろた さんのコメント...

お囃子は数多くあるのですが、楽譜と言うものが存在しないため、教えるほうが覚えているものだけになりどんどん減っていくというか‘統一化’が進む運命のようです。

野良通信 さんのコメント...

コメントありがとうございます。
祭りといえば、近頃は「ラッセイ・らっせい」と縦ノリのリズムが席捲しているようで、摺り足のもの(この笛のような)は忘れられつつあるようです。
「保存会」も半世紀も前からあります。でも、「あれいいなー・演奏してみたい・聴いてみたい」と「好き」がなければ廃れて行くでしょう。