2011年6月26日日曜日

沖縄島 6.23

今朝方、新聞を読んでいたら、6月23日は慰霊の日(沖縄島で日米軍の戦闘が終わった日。1945年)だったと知った。むろんのこと、この日を節目としているだけ。この日以後もこの島では多量の血が流されつづけたのである。どうして、明らかに勝敗の決した戦争をやめることができなかったか。8.15までどれだけの血が流され続けたか。そんな事を考えていると思い出した。
その昔「野良通信」というB4版一枚裏表のミニコミを作っていた事があって、それにこの村の戦死者のことを書いた事があったはづ。さてどこにやったか、家の中をあちこち探して見つけ出した。「2001年9月号」に書いていた。ついでに、それを書いた時の資料も出てきた。『岡山県戦没者忠魂録』(これは県か市の図書館にある)



染みのついたページをめくれば、ひとり一人について、写真・名前・生年月日・遺族の名・最終学歴・職業・軍歴・戦死の月日・戦死の場所の順に編集されている。詳しい。(しかし、戦死の月日はかなりおおまかと考えたがどうだろう。看取る者のいないのが戦場の死ではないのか)
無作為に選び、記述を写せば「高等小学校卒業。船員。昭和19年4月海軍に入隊、昭和19年8月2日太平洋方面にて戦死。」「高等小学校卒業。農業。昭和17年12月25日大阪歩兵隊入隊、昭和18年12月7日ニューブリテン島に於いて戦死。」こんな文体で書かれている。
この本『岡山県戦没者忠魂録』についての感想を書いておこう。「戦没者」としながら、兵のみの記載である。この不備を次に「忠魂録」とすることによって免れている。しかし、いかにも姑息な方法である。言葉の使い方としても間違っているのではないか。「~~戦没者録」と「~~忠魂録」は同じではなかろう。

さて、「野良通信」に戻って記事を要約すれば、「私の集計によれば、この村の戦死者は26名。戦死した場所は、中国大陸9名、東南アジア12名、沖縄3名、その他2名。平均年齢30.6歳」と書いてある。戦時下の人口は調べていないが現在は約500名。おそらく当時もこれくらいだったとすれば、戦死率が出てくるだろう。男子を人口の半分として、兵役年齢該当者をその中から選びそれから、~~、これは私の手に余る、山勘で20%強か?

私は、愚かにも生きている。その上こんなブログを深夜に書き付けている。しかし、死者は誰かの代弁なしには何も語ることはないのである。

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