2011年10月29日土曜日

雑感 2

新聞を読んで。今日の一句。「年金開始年齢引き上げ」の記事を読んだ。冷静に、逃げ水の如くに遠ざかる年金をみて詠める。「ルールならばと・参加せしも・胴元ならばと法を変え・カエルの面の・ションベンか」ん~、つぎ。「ヒトの命は限りありとどく頃には遠のく年金」「あの方はどうして暮らしを立てていると問えば年金暮らしなりとそれも聞かれぬ世になりケルカモ」だんだん壊れてきた。いや、始から壊れているか。続けて「年金の話題も絶えて、同窓は病の事のみ語る、幻を見てきたか我等は」やや置いて今日の決定版「我は敗戦の国の兵なりと年金受け取りを断りし叔父あり 彼の思いはこの無惨な山河で在りしか」


産業廃棄物処理施設反対(見よこの日本語の造語能力)の集会に行った。講師(弁護士)の「現行法の厳格に厳密な適応を求めれば、処理施設の建設も運転も不可能であること。」その論理を目から鱗の落ちる想いで聞く。
その上で私は、住民・行政は何故簡単に産廃を受け入れてしまうのかその理由を考えた。
私の得た仮説はこうだ。今日聞いた法の論理は近代産業社会の作り上げた法の体系の論理メカニズムである。ところが往々にして産廃施設はそれ以前の(産業社会以前の)農耕社会の法の論理が支配する地域に作られようとする(つまりそこは田舎だ)近代産業社会法の免疫のないところに感染症の如く産廃施設ははびこり、地域社会は忽ち喰い散らかされるこの構造。
伝統的社会構造に基づく法。近代産業社会に基づく法。このふたつの法体系の違いを意識化しない限り、新たな地平も、これまでの教訓も得られぬのではなかろうか。

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