2011年11月6日日曜日

2011.11.6の百閒

2011.11.6の百閒
どうも、気の向くところが定まらない。仔猫のジャレテいるようである。いい大人のする事ではない。とここまで書いて、そういえば、私は、良いオトナではないと気づいた。
この気ままが、気侭の対象が分散し塵となって消えてゆくものか、それとも思いもかけず収斂してゆくものか。私には解らない。
ここ数日、「内田百閒」を読んだ。そして、感心した。見慣れた絵の中に、思いもかけぬ筆使いを発見したみたいに。
「暗い横町の角を曲がって、いい加減な見当で歩いて行った。今まで、大通りで向かい風を受けていたのに、急に風の当たらない向きになったので、頸から顔がほてって来るように思われた。しかし、その所為(せい)ばかりでもないらしい。軒灯に照らされている表札を見ながら行くと、その家の番地が、だんだん近くなっている。道端に寝ていた犬が寝返りした拍子に、私はびっくりして、飛び上がった。」百鬼園随筆(福武文庫)所収「地獄の門」書き出し。
百閒といえば借金と汽車の旅。これは、高利貸しを初めて訪ねる場面。不安な気持ちが、犬の寝返りを使って表現されている。上手いな~と思う。犬はいなかったんじゃないかと私は思う、実際の犬が寝返りをしたりするのは、日溜りで暖められた背中が痒かったりしてあをむけでゴリゴリするときぐらいであるから。百閒先生の「してやったり」の顔が浮かぶ。
彼の書いたものは、なんの為にもならない。新たな知見も無ければ、人生の教訓もない。あるのは、ウルトラD難度の超絶技巧だけなのである。彼は、生家の酒造所が米を磨いて最後は水のような酒を造ったように、コトバを駆使して純度の高い「水」を作ろうとしたのであろう。誰しも、水ばかり飲んでいては、生きては行けないが、時には無性にうまい水を飲みたくなるのだ。

0 件のコメント: