2011年11月22日火曜日

T氏のこと

「大廻り・小廻り」のT
『環境ネットニュース』に書いてと頼まれた。引き受けたのはいいが、「書いちゃダメ」と言われれば俄然書く気になるのだけれど、「ここに書いて」と言われたら書きにくい事を発見した。それでもこうして書いているのは、どうしてもT氏の事を書いておきたかったからだ。
彼と私の共通している所は「自覚的?産廃被害者」であることだ、10年ほど前に彼の方から連絡があって彼を知ることになった。(その彼の行動力は今の彼を支えているだろう。)「産廃で私の人生(設計)はくるわされた」と彼が言っていると聞いて、疎遠になっていた今の彼に会ってみたくなった。(それは、否応無く、私のこの10年を見直すことになるだろう)
約束の時間に「大廻り・小廻り」山の彼を訪ねる。雑木に蔓の垂れた鬱蒼とした山道を軽トラのエンジンを吹かして登ってゆく。彼は使い込んだ剪定鋏を腰に付けて、迎えてくれた。
訪れた理由を説明すると彼は否定した。
彼の略歴と暮らしを記しておけば、県立農業大学校在学中に「大廻り・小廻り」山を見て「こんな美しいところはない」「ここでのんびり暮らしたい」と卒業後二十歳の時、ここに一町五反の土地を求め入植した。当時(30年前)ここ草ヶ部は葡萄の一大産地だった。ところが入植して一年目、公共事業で農業用の潅水タンク施設を山の中腹に作る時、道を広げ、ダンプカーが行き交う様にすると、たちまち山は残土捨て場、産廃処分場の食い荒らす所となった。以来30年。彼はここで暮らしている。
彼は、私の問いを否定して「いや、産廃で人生は豊かになった、Kさんともそのおかげで合えたし、あなたとも知り合えた」という。そうかもしれないが、「人生(設計)が変わった」のは確かだろう。
彼の主食は畑で出来る(米はできない)サツマイモとジャガイモ。采の野菜は自家製だ。他にキィーウィー・モモ・クリ・カキを作っている、市場に出すけどお金にはあまりならない。
必要の現金は賃仕事で稼いでいる。数年前ガソリンが高騰した時、車に乗るのを止めて今は自転車で移動している、電気代は月3百円。この夏は5百円かかったか?と言う。「ガス」は?使わない、薪で煮炊きする。近くには三軒しかないので「町内会長」をしている。とも言う。
私のところではイノシシが出始めている「獣害」はどう?と聞けば「カラスぐらい。そんなの来たらかなわん」という。
彼の畑には栗の木もある、その下で拾った
再会を約して、山を降りる時、見晴らしのあるカーブで下界を見下ろした。カメラで展望を撮る。驚いた事に、この西大寺の北、瀬戸町に接するこの山(標高200m)から、私の棲息する児島半島が見える。眼下には江戸から明治にかけて開発された田園が広く見える。直接には見えないが吉井川はすぐ近くを流れる。ここは国指定史跡「大廻り小廻り山城跡(おおめぐりこめぐりさんじょうあと)」であった。(七世紀に作られたと推定されている)
千年を遥かに越えてその昔、ヒトビトが暮らしを立てるために「恐怖の想像力」を駆使して建てた山城の跡である。わたしは「呆然」と考える。「この時代のロケットも戦車も戦闘機も核兵器も軍事同盟も、その同じ恐怖の想像力の産物であろう」と。「それらは、いづれ雑木の下に埋もれ、蔓覆うことになるだろう、それまで、我々は我々であり続けているであろうか」と。いや、こうも考えた、先祖伝来のこの「恐怖の想像力」は今こそ、災害に発揮すべきだろうと。「巨大地震・津波・原発事故」これらはすでに「想定」の領域に入った。その時「電力は食料は医療は守れるのか」。3.11で失った物を取り戻すには何十年かかるか解らないけれども、「恐怖の想像力」は今日からでも働かせることが出来るのであると。
聞くのを忘れたけど、独身のT氏にはこれと決めた相手はいるのだろうか。二人(或いは家族)で暮らせば彼の言うようにあんな「のんびりと、なお、美しい所はあるまい」
我々はその時代の経済の制約を受ける、その経済の制約のなかで我々は我々の生活を計画せざるを得ない。しかし、平地に暮らす我々に比して彼の選択幅は格段に広いのである。

ここまで、辛抱強く読まれた方は、「産廃のこと何処に行ったん」とお思いであろう。産廃のことは、彼、T氏を含めてこの「環境」紙上で論議すべき問題なのである。私も参加したいと考えている。

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