2011年9月13日火曜日

「飯待つ間」の月

正岡子規。「子規」と読むだけで、あるイメージがそれぞれの頭に湧くほど有名だ、「原発」と読めば今では一定のイメージの湧くように。彼が負けず嫌いの競い好きで、そのうえ説教大好きで、ヘキヘキするほどの強情持ちで、なお優れた随筆を残したということは余り知られていないのではないか。
私の認識が間違っていればこんなこと書く事は無駄なことなのだけれど。

『飯待つ間』に「句合の月」というのがある。「句合(くあわせ)」という俳句の出来を競う会のために彼が「句」の想(題は月)を練る。その過程の一部始終を書いたものだ。一読して、こんなに自由に書いてもいいんだ。こんなに奔放に、にも書けるんだと感心して忘れることなくいた。明治31年というから1898年、今からざっと110年前に書かれた文章だけれど、古びることなく益々新しい。
「先ず最初に胸に浮かんだ趣向は」「こういう趣を考えたが、時間が長過ぎて句にならぬ。そこで」「とやってみた」「とんでもない句だから、それを見捨てて、ふたたび」というような調子でとめどなく彼は考えを巡らせる。彼についてゆけば、森の小道に誘われ、大河の辺に連れてゆかれ、小舟に乗せられ、見れば傍らに酒徳利があったりする。彼は水滸伝の薀蓄を始めるけれど、真面目に聞くことはない、どうせまた場面が変わるのだから、その後は「イギリスの埠頭場へ持って」ゆかれる。そこで、夫婦の別れのシーンにつき合わされ、『「桟橋に別れを惜しむ夫婦かな」とやったが、月がなかった。』と、ウッカリ間違いにまで付き合わされるはめになる。最後に先生「こんなに長く考えたことはなかった。」「これがよほど修行になるような心持」「此後もこういうように考えて見たいと思う。」とご満悦のようすで、あくまで自分勝手なのである。
世の中は広いようで、この子規の文章を好む者もいるらしい。ここに全文が載っていた
子規に触発され、110年後に書いた私の句を載せてみよう。編集権は私にある。文句があるならポチットすればいい。
「夜半に目が醒めゴソゴソ起き出す。秋なのでか、ゴキブリがやたら目につく。「不殺生」と戒められているが、ゴキにはこの箍(たが)が外れてスリッパを振るったところだ。今日の一句『名月屋団子供えてゴキと見る月』」
壊れてきている、風呂にでも入るか。

4 件のコメント:

ゆりひなな さんのコメント...

こんにちは。ゆりひななです。
いつも「軒づけ日記」へのご訪問、ありがとうございます。
野良さんは岡山の人だったんですね~。
ブログって、遠いとこの人の考え方だけでなく、生活そのものも、こっそり覗いているみたいで楽しいですね。
これからも、よろしくお願いします!

野良通信 さんのコメント...

コメントありがとうございます。こちらこそよろしくお願いします。
~~てるけど~~ちゃうん。鋭いツッコミ楽しみにして見ています。

sansan さんのコメント...

こんばんは。
しばらく前に赤磐にある天文台に月を見に
行きました。
でも、やはり、離れて風景と一緒になった
月もいいものです。
年齢とともにそう思えるようになりました。
海や川の向こうに反射する月など最高です。
でも、、、
ゴキと一緒に月はちょっと無理。。。
人それぞれですね。

野良通信 さんのコメント...

コメントありがとうございます。私は月を、ゴキは団子を愛でたのでした。後日、彼のブログに「名月屋、団子供えてジイと見る月」とありました。スリッパ痛かったか。