2009年10月4日日曜日

言葉を集めて つづく

・ 「タダカラソロソロ」
只からそろそろ。97.4.18メモには「値段をつけるとき、物の売り買いをするとき、使うことば。値打ちのない物にも使う。この耕運機は売っても、只からそろそろじゃからと使う」とある。
百姓は独立自営農民であるから、会社勤めとは違い、市場経済に直接に肌をさらしている。だから、物の値段がどんなルールによって決まるのかについては切実な問題なのだ。百姓のことはともあれ、物の売り買いなしにわれわれの日々の暮らしは成り立たない。
売るときは高い方がいい、買うときは安いほうがいい。このルールはすでにわれわれの血と肉となっているように思える。しかし、また、物には適正な値がある。というこのルールも我らの血と肉の中にはあったのである。(タダカラソロソロ。この言葉の中にそうであってはいけないよな~、のメッセージを読み取るのは私だけであろうか)
考えてみれば、ある物の背後にはそれを生み出す労働があった、とすれば、ある物の値にはそれに見合った労賃があったのである。言い換えれば、100円の安い物の後ろには100円に見合う労賃しかないのだ。それがルールです。と市場原理主義の神はのたまう。
今にして思えば、需要と供給ルールについての素朴な信頼はすでに市場原理信仰の域に入っていたのではないか。
と、神の「バイブル」メモをこっそり覗き見ればこう書いてあった。
『1.愚かなる民よ。すでに我々は、恣意によって起された戦争による恣意的需要に供給でまかなう時代に入って久しい。
2.愚かなる民衆よ。すでに我々は、扇動による欲望と、創られた不安による、架空の需要の求めに応ずる以外に生活を支えられぬようになって久しい。
3.目覚めよ。そこには、「儲け話」を「ビジネスチャンス」と言い換えて、口を拭っている、下衆な精神が跋扈(ばっこ)している。』
教えにしては、少し変だとメモの表紙を見直せば、[Bible]バイブルではなく[Bubble]バブルとある。なるほど。

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