2010年3月12日金曜日

ブログの孤独 つづく

風呂に始まり風呂で終わる話  漱石つづき

漱石の仕掛け(作為)は巧妙である。冬になると毎年のように何度も読み返しながら今回初めてこの話は、風呂に始まり風呂で終わる。仕掛けが潜んでいることに気づいた。

『永日小品』の中の「火鉢」。あらすじは、と書いて、書くほどのあらすじはない。作者が冬の寒い日、布団の中で目を覚ましてそれからのなにげない半日の話。美味しいところを写して見ようか、うんと短い作品だから、全部写してもしれているが。

「思い切って、床の上に起き上がると、予想よりも寒い。窓の下には昨日の雪がそのままである。風呂場は氷でかちかち光っている。水道は凍り着いて、栓が利かない。」
これを書いた100年前の東京はやはり寒かったみたいだ。「火鉢に手を翳(かざ)して、」「掌(てのひら)だけは煙(けむ)が出るほど熱く」なるが「足の先は冷え切って痛い位である」これでは「とても仕事をする勇気が出ない」子供はぐずっている、下女は病気みたいだ医者を呼んで診させる、来客はといえば金の無心をするばかり、自分は「まだ、かじかんで仕事をする気にならない。」凍りついている風呂を焚くのはあきらめたのか「とうとう湯に行った。湯から上がったら始めて暖ったかになった。清々して、家(うち)に帰って」

これから、何度読みかへしても、美しい数行が始まる。
「妻が出て行ったらあとが急に静かになった。全くの雪の夜である。泣く子は幸いに寝たらしい。熱い蕎麦湯を啜りながら、あかるい洋燈の下で、継ぎ立ての切炭のぱちぱちなる音に耳を傾けていると、赤い火気(かっき)が、囲われた灰の中で仄(ほのか)に揺れている。時々薄青い焔が炭の股から出る。自分はこの火の色に、始めて一日(じつ)の暖味(あたたかみ)を覚えた。そうして次第に白くなる灰の表(おもて)を五分ほど見守っていた。」
無手勝流にまとめてみても、漱石はあらゆる物が凍りついている描写から始め、火鉢の中に見ている炭の焔の描写で終わらせていることに気づかれるだろう。日録の体裁をしていても騙されてはいけません。手練の一太刀に切られて、心地よいばかりなのでは在りますが。

付け加えれば、岩波文庫『夢十夜』にも「火鉢」は入っていて、これには、読むに価する阿部昭氏の解説が付いている。気難しくシャイな阿部氏であるが、漱石に切られて、思わずに本心を露呈しているみたいだ。彼の最良の文章がここにある。
次は「阿部昭」氏を。と考えたが、これは楽しみに取っておこう、誰の楽しみか、それは、私の楽しみである。

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