2012年4月24日火曜日

タケノコノコノコの事

タケノコのこのこの事

いちどイイ思いをしたら、「もう一度同じ思いを」とノコノコ出かけるのがヒト人類の弱点でもあり、可愛いところでもあるだろう。そうでなければ、パチンコ業界、いや「東京証券取引所」もまた存続できない。私はと言えば、もう一度タケノコを獲りに出かけた。場所は前回と同じ古い家の庭。今回は買ったばかりの新しい「カメラ」も持参した。

それで撮った絵を載せよう
向こうの竹藪がお目当ての所だ。石垣の上から竹の根が降りてきている。

中に踏み込んでも目が慣れるまで、タケノコは見えてこない。この絵の真中付近にタケノコはある。
こんな感じで、タケノコはある。目が慣れてくれば
こんな所にも
こんなものも、見えてくる。「ヒト」の目は、いや「命は」と言い換えてもいいか、「保守的」であるから、「新しい芽」はなかなか見極めることが出来ないのだ。見ようと目を凝らす「ヒト」にしか見えないものがある。

買い物カゴに溢れたので獲ることをやめた。半分は糠を使わずに湯で、湯掻いて自家用に喰うことにした。半分は「パソコン先生」に持参しようか。先生は「何時でもおいで」と言ってくれているがその言の意味は「何か持っておいで」とも言っているのだ。持参ついでに「新しいカメラを自慢する」チャンスもあるぞ。

湯掻いたタケノコで、木の芽和えを作ってみた。烏賊と白味噌とタケノコを和えた。食ってみれば、もう少しタケノコに歯応えがあった方がいい。つれあいの感想もそうみたいである。「どんなんなら」「こんなもんじゃない?」。さて、うまい「木の芽和え」を目指していま少しタケノコを探すか。
ココだけの話。料理に関して、言葉(批評)はあまり当てにならない。料理を作る者は、食うヒトの、箸使い、食器の立てる音、歯とスプーンの当たる音、息荒く食うスピード、等々でその料理が成功したかどうかが判る。私は、ずいぶん長く家で料理を供しているが、「オオ、心より欲して食っている」と感じたのは数回しかない。それでいいのだ。旨かった記憶は生涯残るのだから。

1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

ごちそうさまでした。おーさんより。