2010年4月7日水曜日

ブログの孤独 つづく

親をどう扱うか


朝、新聞を読んでいると小泉(元首相)の息子(親の地盤看板おまけに金庫番を引き継いだ世襲議員の典型)の話題がある。扱いは「イラクで自爆テロ」50名死亡の記事よりも大きい。マスコミのアサハカがここに現るだろう。いまだにマスコミは、「コイズミ」話を好むらしい。さんざん稼がせてもらったもんな。ところで、息子はこういう扱いをどう感じているのだろう。

親の扱いはむずかしい。ヒトと「事を構える」事が多い私は、しばしば、「どうしたんで、おとうさんは、もっと穏便だった」と言われて来た。あの人はタマサカ親であっただけ、「関係ない」とその場で言い切れない事にコダワッテキタ、「どうしてそうなるのであろうか」と。

親の扱いは簡単だ一心同体と思えば。たとえば、記事にあるコイズミの息子のように。でもそれでは息が出来ないんだな。「自分」というものがあるとした場合。と生意気に若いときから親を否定してかかって、すでに数十年、やっと最近、親父は喧嘩好きだった事を発見した。ただ、ケンカの仕方を知らなかっただけなのだ。とも思った。彼のケンカは連戦連敗。晩年の将棋ゲーム(任天堂やつをテレビに繋いで)も同じだった。それなりにいっぱいいっぱいでやっていたのだ。おやじまた「ピロピロピンをやってる」

ひるがえって、自分の勝敗表は自分でつけるわけにはゆかない、まだゲームは終っていないのだから。

余計を付け加えると、コイズミの地盤、「横須賀」に近い、「鵠沼」(くげぬま)の作家、「阿部昭」は親と子の葛藤をテーマにした優れた小説を残した。たとえば「司令の休暇」。こうしてみると、一心同体に地域性があるということではないみたいである。

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