2011年8月5日金曜日

むかし読んだ本を

むかし読んだ本を探した。
開高健氏の書いた本。戦争直後の大阪の話。エネルギー溢れる「アパッチ族」が出てくる小説をもう一度読みたいと探した。ところがそういう書名の本がない、諦めたのは半年も前のことだった。
先だって、小松左京氏が亡くなって、その追悼記事を読んでいたら「日本アパッチ族」という本は小松氏の著作にあるという。「ずいぶんな思い違いをしていたものだ」とキツネにつままれていたら、開高氏のおなじテーマの小説は「日本三文オペラ」であるとその記事の続きの部分で知る事になる。それならばどこかにあるはず。
汗まみれに家なかをひっくり返して、埃まみれに探すのも億劫だ、本屋に行って「オトナ買い」した。514円。手に入れてみれば、活字が大きくなっている。年寄りにはやさしい気配りだ。それだけでも500円の価値はある。

探していれば見つかるものだ。見つからなければ探していることを忘れればいい。

『なくしもの
ごくつまらぬ物をひとつなくした
無いとどうしても困るという物ではない
なつかしい思い出があるわけでもない
代わりの新しいやつは角の店で売っている
けれどそれが出てこないそれだけのことで
引き出しという引き出しは永劫の迷路と化し
私はすでに三時間もそこをさまよっている

途方に暮れて庭に降り立ち夕空を見上げると
軒端に一番星が輝きはじめた
自分は何のために生きているのかと
実に脈絡のない疑問が頭に浮かんだ
何十年ぶりかのことであるけれど
もとよりはかばかしい答えのあるはずがない
せめて品よく探そうと衣服の乱れをあらため
勇を鼓してふたたび室内へとって返すと
見慣れた什器が薄闇に絶え入るかと思われた』

谷川俊太郎詩集『そのほかに』1979年 集英社 P10より


二十歳過ぎの私は、この詩によって、「軒端・のきば」「什器・じゅうき」などの言葉はこのように使うのだと教えられたように思う。これまでに使いこなせたかどうかは別として、こんな憶え方は忘れないものだ。

2 件のコメント:

sansan さんのコメント...

「日本アパッチ族」は高校生のころに読み
ました。
開高健の本も結構読みましたが、流亡記が
一番きにいっています。
オーパシリーズは大学のころに読んで、
ルアーフィッシングを始めました。
いずれも思いでの本。
懐かしいおもいでブログを読ませていただき
ました。
開高健も小松左京も彼岸の人。
好きな作家に限って早くなくなられるような
気がします。

野良通信 さんのコメント...

コメントありがとうございます。
時に、突然、むかし読んだ本がよみがえることがあります。
「日本三文オペラ」を思いだしたのは、中国の列車事故のニュース映像に、土に埋まっている列車の残骸をツルハシで掘り起こしているのを見たからでした。金属を回収していたのでしょう、いくばくかの収入にするために。