2011年8月18日木曜日

今度こそ「水引」のこと



水引の旗。この旗には書いていないが池の名前の下に「水落相談」と書き込むのが正式な旗である。作り直すときにはそう書こう。
説明は以下に
今度こそ水引のこと
「水引」をしている。と構えて「水引の事」を書いていない事に気づいた。脱線しないように『レポート』風に。書けるかしら。
 今年は、七月二十日から雨が降らずにきている。河原の水も無くなった。八月九日に一回目を抜き、今日で二回目の池水抜きになる。
午前五時、池の堤から対岸の街灯の粒々を望遠モードで
池水を抜けば
沢に勢いよくザーと音を立てて落ちてゆく
沢に落ちた水を水路に引いて
田まで一気に落とす

さて、水引に関する「しきたり」について書いておこう。この「しきたり」は文字に書かれているわけではない。無文字のルール。不文律。なのである。説明は以下に。
まず、田の水が欲しいとなると、「そろそろ水を落さんか」と誰でもいい、言い出すわけだ。すると水引は旗を立てる。(以下は、その旗を関係の者がすべて見るという前提にたっている)
そして、一日おいた次の日、池水を抜くのである。一日置くのはなぜか、田によって、今回は水の要らないところはイデをしめる。あるいは、水引にその旨伝える。欲しいところは十分に入るようにイデをあける。つまり、準備の期間が一日あるわけだ。
次の日から、旗の出ている期間は各戸のイデは田の耕作者であってもいじれない。イデは「水引」だけが動かす事が出来るのである。「水引」は皆の田にだいたい水が行き渡ったと判断すれば、旗を仕舞う。この時は、まだ水路には水が流れている状態である。旗が無くなれば、それぞれは、欲しいだけ、イデを開けて水を入れたり、また止めたりできる。(これを「水のかけひきをする」と言う)
そして、日照りが続くかぎり、この一連のしきたりを繰り返すわけだ。
旧弊な田舎のしきたりといえども、旗一本でコントロールをする、なかなかよく出来たシステムとは思いませんか。
今日夕、旗をしまおうと野良に行くと。O氏に会った。畦を歩いてきて、顎の辺りを掻きながら「流すだけ、流して。なんにもせんから」と独り言のように私に言う。「だれがなんにもせんのなら、そいつはだれで」とわたしは声を荒げて聞き返す。無文字のルールにはこのくらいの諍い?も薬味なのである。O氏は立ち去り。私は、旗を仕舞いに行く。
わたしが、稲を付けていないのに「水引」をしている理由のひとつは、一番最初に水不足になる田の持ち主に「水引」を任せると、いらぬ軋轢が起こるだろうからである。誰もいなければそうも言っていられないのだが今年は私がやっている。どんなちっぽけな公でも、「我田引水」は宥されないのである。


注、ブロガーという投稿の仕掛けがうまく動かない。写真の場所のコントロールが出来ない。この投稿は「以前のエディター」なるものを使ってやっとこさの結果だ。ブロガーの調子が直れば書き直すつもり。

0 件のコメント: