2011年8月11日木曜日

今年も池水を つづき

今年も池水を つづき
水引もきょうで三日目、5時前に野良に出た。すると、東の空が燃えだした。オウ、今日のはスゴイ。あいにくカメラを持っていない、慌てて小走りで家に取って返し、家の中でもドタドタ急いで、カメラを手に闇のまだらに残る路地を東に走った。(稲も作らずこんなことにかまけている)




 足元のO氏の稲はこんな具合、今年も米は取れそうだ
 西の空も染まっていた
程なく輝きは失せる
今日も暑くなりそうだ
どうして私はガラにもなく急いだのか。私にはその燃え上がる空は、ほんのひと時の輝きにすぎないと解っていたから。
その輝きをあるものの象徴として絵に残したい。私のその時の、その衝動を分析してみれば、そいうことになるだろう。
絵に託して、なにを象徴したかったのか。それは、地表のあらゆる命の輝きもまた同じではないか。という私の一瞬の感慨に尽きるだろう。
それは、私の価値にすぎない?ブログ載せて私はそのことを問うているのである。

2 件のコメント:

sansan さんのコメント...

うーん。
生活にゲイジュツは必要です。
会社帰りに色合いの変わっていく夕空をながめ
遠い昔に読んだ本に思いをはせる。
開高健は東南アジアの夕焼けを「炎上する
宮殿」といいましたが、そんな夕日をみて
みたい。いままで何度か東南アジアにはいき
ましたが、そんな空にお目にかかったことは
まだありません。
でも、ゲイジュツはもっと身近にありますね。
会社帰りの夕空など。
すみません。毎度、まとまりのないコメント。

野良通信 さんのコメント...

コメントありがとうございます。
「オウ」はあらかじめ、用意する事ができない。
「オウ」のその時、何を思うかも準備などできない。
でも、「オウ」なしの人生は味気なく、殺風景なものでしょう。