2011年8月15日月曜日

県北の墓

墓と系図
昨日のことだったか、「盆」の話題を書いたら、県北の墓のことを想い出した。それを書いてみよう。
歳三十過ぎの事だから、かなり前の事になるが、(岡山)県北に一年ほど足繁く通った事があった。そこで見た、県北の墓(石塔)は、夫婦仲良く入っている場合がほとんどで、(それなしには墓など残らないという事情もあろう)。
形式はどこでも見かけるものだった、正面に並んで戒名がある、両側面に俗名欄。しかし、この一群の墓にはちょっとした工夫があった。それは、妻の俗名の続きに嫁いできた先、つまり、彼女の故郷の親のことも刻んであったことだった。たとえば「・・郡・・村、字・・。・・(父親の名)の次女。享年・・」のように(記憶で書いている)。
私の地域では、祖父の代から「家族墓」に移行しつつあり。こんな墓の形式が珍しいこともあって記憶にのこった。
思えば、これは石に刻まれた家系図である。この一群の墓を辿れば、家系図を起こせるのではないか、それも、父方も母方もどちらも等しく。と考えた。
この壮大な目論見を発明した県北の構想は「万事において、チャラチャラした県南とは違う」と感服した。戦後数十年かけて、我々が抹殺してきたものの厚みは、「チャラチャラ」が想像するよりも遥かに厚い。と思い知らなければならぬのではなかろうか。

さて、これで、墓の事は書いた。ついでに系図つながりで書いてみよう。本の系譜のことである。
ある本を読んでいたら、その記述に本のことが書いてある。食欲(読書欲か)をそそられるように。それで、そのそそられた本を読めばまた、違う本をそそられる。こうして読書系図(系譜か)は作られ、捨てるに捨てられず、の本が足もとに溜まるのである。しかし、ヒトは無限のこの悪癖を何時かは絶たなければならない。物理的な制約(置いておく場所がない)、時間的制約(人生はいつも思うより短い)は待ったなしであるから。この無限の系譜システムに感謝しつつ、扱いに悩むのである。
右の本「阿部昭」を読んで、そそられて左の本を手に入れた。
大久保訳「博物誌」。
むろん古本である。いや、どちらも古本でしか手に入らない。

余計な付記。
ネコについての、我等の時代の名著のひとつをあげておこう。 『ネコに未来はない』長田宏。片手間に、ではなく、ネコについて書き下ろしたものだ。この若書きを長田氏は生涯、超える事は出来ないだろう。そのみずみずしさに於いては。これなど参考に。

3 件のコメント:

名無し さんのコメント...

父方の祖父母は、お骨をお寺に納めただけだと思います。
祖父の遺言だと思いますが、家業存続のために一子相続にし、争いは無かったようです。
家の成り立ちからか、お墓や系図への関心が薄いですね。
臨済宗の坊さんの「持たない」(拘泥しない)とか、親鸞の「はからわず」とか、在るがままに頂いて、何とかしていきましょう、が慣わしみたいです。

有馬賴底『禅、「持たない」生き方』 - 三笠書房
http://www.mikasashobo.co.jp/book/ISBN978-4-8379-7877-0/?select=author&search=%CD%AD%C7%CF

玉井人ひろた さんのコメント...

それは興味深いですねえ。沖縄に行ったとき沖縄の墓は洞窟上になっていることを地元の戦前生まれのタクシードライバー聞かされ驚いたものです。
さらに、太平洋戦争中はその墓穴が隠れ場所になり、泣く赤ん坊を日本兵が黙らせるため銃剣で殺したことなど聞かされました。

わが地域は墓誌と言う石碑を立て代々の没した人の戒名を書く習慣は有ります

野良通信 さんのコメント...

コメントありがとうございます。
なぜ、そのような形式が選ばれたのか。私には確たる答えはありません。
ある家の系譜は檀家寺に行けば残っています。これは寺受け制度の名残?
したがって、手間をかけて石に刻む必要がどこにあったか。仮説ですが、安定した檀家寺が失われる事があったのでは?被差別身分の関係かも?と考えますが、解りません。いずれにせよ、弔いの形式としては洗練されている。長男の嫁だけでは終わらせない所が拍手ものです。