2010年2月2日火曜日

ブログの孤独 つづく

言語力の不足


NHKを見ていたら、「言語力が足りない」というテーマで放送していた。先月の末の事だったか。サッカーで負けた事も、国際競争力が低下している事も、諸々のよくない事々の原因がそこにあるらしい。なんだか、クニ全体で叱られているみたいで不快だった。こんな番組を見せられて、「よし、明日から言語力向上に励むぞ、グローバルに乗り遅れるな」みたいなことに世間ではなっているようだ。

と、昨日ここまで書いて、それから先が書けない。この話題はボツにしようかと考えた。しかし、不肖私も「言葉を集めて つづく」などとやっている手前、もう少し進んでみよう。

まず、「言語力」なる言葉が耳新しい事に気づいた。調べてみれば、文部省あたりから出てきた言葉らしい、だからか、「言語力検定」なるものもあるらしい。なんだか「漢字能力検定」を思い出した。

次に、言葉、「言語力」の意味は、と文部省の発表文書をチャラ読みすると、論理的に考え、他人に解るように表現する能力。の事らしい。ありゃ!こんなことなら、「学校で」私も、私の子供たちも、やらされてきたぞ。あれはなんだったんだろう。もっとも、作文の課題に『自分の思った事を書け』などと自分も考えも無い教師が指導するのだから結果は散々だったのだが。

こうしてみれば、官民挙げてのチンケな「国民運動」みたいな帰結しかこの事柄の中身は無かろう。なぜなら、論理を使い考え、それを表明する事は「批判」を生み出す重要な要素であり。そして、それは、否応なしに、「権力と支配」に向わざるをえぬからだ。つまり、言いだしっぺには両刃の刃なのである。
考えたり調べたりその上書いたりするんじゃなかった。どうりで、放送が「ハウツー」に偏っていたわけだ。

それはそれとして、政府発の「自己責任論」にとびついて、異国で拘束された若者を袋叩きにするような国民には、文部省のいうところの『言語力とは、情報に関する知識と経験、論理的思考、情緒などを基盤として、他者とコミュニケーションを行うために言語を運用する(考える、聞く、話す、読む、書く)のに必要な個人に内在する能力』がどうしても必要だろうとは考える。

しかし、チャカスようでわるいが、この文部省の文章の言語力をどうにかしてもらいたい。

余計を付け加えれば、論議するならば、「この国の人々に元々言語力なるものがあったのか。」とか、「自分の意見を持たないでこの国で暮らす利点」とか。そんなことを論議すべきだろう。

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