コンバイン3
晩秋になれば、稲田をこま鼠のように、走り回っているコンバインの歴史も、こうしてみれば最近作られたものなのだ。我々は激動の時代を生きている。流れの中にいれば気づかぬだけだ。今日の常識は明日の非常識になるし、今日の非常識はあすの常識になるやも知れぬ。その中で変わらぬものは何か、変えてはならぬものは何か、いや、変えなければならぬものは何か、をこの一連のブログでは追求しているつもりなのだが。
話を戻して。
さて、この機械を一言で表すとすれば、と半日考えて、「大道芸のひとり音楽隊」を思い付いた。前に小太鼓を下げ背中にはシンバルを背負い、頭にはラッパを載せ、口にはハモニカのあれです。チンジャラ、チンジャラ、タッタカ、ジャヤーン、プー、歩くたびに、シンバルを鳴らして。
この機械は前で稲を真っ直ぐに起し、そろえて掴んで切る。だけでなく、それを、運んで腹の部分で稲を横向きにして脱穀をする、そして落とした籾は袋かタンクに溜める。その上に、藁を、後ろに送り、切り刻んで撒く、お好みとあれば括(くく)って差し上げます。という驚くべき機械なのだ、それも移動しながら連続してそうする。あの機械の中に少なくとも三人のヒトが入っていて忙しく働いているイメージを思い浮かべてみてください。思い浮かばぬか。
ここまで書けば、前回述べた、ベルトの多さも理解していただけるか、つまり、エンジンからの力を、刈り取り部、脱穀部、切り刻み部、に送るには少なくとも三本。その上、移動のためにも、油圧ポンプ駆動のためにも、まだまだベルトはいる。では、どうしてベルトなのかについては、私なりの答えはあるが、またの機会にしよう。
この八面六臂、「ひとり音楽隊」のコンバインからみれば、百姓の使う他の道具、「草刈り機」は危ない刃物を振り回しているチンピラなだけだし、「トラクター」は図体のわりに土を掻き混ぜているだけの単細胞である。「運搬車」に至っては、「運ぶだけ?何それ!」なのである。
ここまで書くと、「田植え機」はどうなの?という声が納屋の隅から聞こえてくる。ベルトの一本も無いようなヤツが生意気な口をきくな。春まで待て。
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