2010年1月16日土曜日

言葉を集めて つづく

歌会始め 3 


一月九日に、「『風景の中の風景』集中16篇のなかで私はなぜこれを好むのか。以下つづく」と書いたきりだ。どうして、スラスラつづきが書けないのか、おのれの中を探ってみた。
そして、「何を好むか」は、たやすく言えるが、「どうして好むのか」を言うことはむつかしい事を発見した。

話は少しずれるが、幼いココロは、互いの愛の証を互いの犠牲の量で計ったりする。しかし、どんな犠牲も愛の証明にはならないのである。好き嫌い、愛憎は計れない。計れぬものはいつまでたっても計れないのである。

そうは言っても、つづけてみようか、集中最初の詩「あるビルの風景」(これも素晴らしいできばえである)を引用し「墓地のある風景」と比べてみよう。

「その建てかけのビルは、郊外の土堤ぞいの原っぱに立っている。マンションにでもなるんだろう、一階と二階には等間隔に鉄のドアが付いていて、数えていくと各階十八部屋ずつある。三階と四階はコンクリートの枠で仕切ってあるだけなので、がらんどうのの部屋がすけて見える。五階と六階はまだ鉄骨のまんまだ。

 このビルを見ながら通勤するようになってから十一年、まわりにはカラー屋根の建売り住宅が建てこんできて人も住み始めたが、ビルにはいつも人影はなく、工事が進んだ気配はない。壁には鉄錆がしみ出し、土台に隠れてしまっている。

 なぜ、資金を無理算段しても工事を完成してしまわないのか、あるいはいっそ倒壊してしまわないのか。その決断を何千日も一日延ばしにしているこいつは、なんと優柔不断なやつだろう。

 いや、これはひょっとすると、別の決断のあらわれかもしれない――今まで思ってもみなかった考えが突然浮かんできたのは、わたしがこの十一年くりかえした病気のすえにとうとう無念の休職届けを出して、その帰り途だったせいか。

 こいつは、金も力も才覚もここまでがせいいっぱいなのに、いつかは、いつかはと歯を食いしばって、見えない努力をつづけているのかもしれない。人が住めるビルになるのが自分の仕事だから、たとえ何千何万日かかろうとも諦めるわけにはいかないのだと。その不断の努力が、不断の時の流れと拮抗しているがために、ただじっと立っているだけのように見えているのかもしれない。

 暮れかけの空に、未完のビルはくろぐろと立ちはだかり、突き出した鉄筋の先が、むきだしの神経のようにぴりぴり震えていることに、わたしははじめて気づいた。」

どうですか。私は今は無いこの「その建てかけのビル」を知っていた。そして、優れた書き手に掛かると、こう料理されるのだ、とこの詩を読んで感心した記憶がある。しかし、心の在り方をあらわす手段として、物や事を比喩として使う手法を身につければ、優れた詩人(書き手)はここまでは行くのである。いや、この手法こそ「詩」である「教えましょう」と先生がいたりするのである。そして凡百の詩が生み出される。

しかし、いざ、物そのもの、事そのものを言葉の内に現そうとすれば、「墓地のある風景」のように、そのものを「レポート」するだけで、その中に作者の国家観や歴史観が、いや、その人そのものが、いちどきに表現されてしまう優れた対象を待つしかないのである。
そんな対象には、十年に一度遭えるか、いや生涯に一度も遭えないかもしれない。それでいいのである。
歌会始めはこれでおしまい。

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