2010年1月9日土曜日

言葉を集めて つづく

歌会始め 2


手練の自白調書「あとがき」を鵜呑みにするわけにはゆかない、「墓地のある風景」を書き写してみよう。

『松や樫の枝が覆いかぶさる暗い石段を上がっていくと、タイムトンネルをくぐっている気分だ。九十三まで数えて昇りきると、そこから視界がひらけ、階段状にひろがる旧陸軍墓地である。足もとから玉砂利の道がまっすぐにのび、正面はるかに石塔が聳えている。曇天である。人影はなく、物音もしない。
 
 第一段は上等兵の墓地である。腰の高さほどの墓石が四列縦隊で整列し、百九十二柱ある。前に立つと「故陸軍工兵上等兵、昭和八年八月十九日於旅順陣歿、行年二十三才」「故陸軍歩兵上等兵、昭和八年九月八日於岡山衛戍病院戦病死、行年二十二才」などと直立不動で答える。 
 第二段も上等兵の墓が続いて百二柱あるが、途中から伍長の墓に変わってこれが百二十四柱である。伍長は上等兵より背が高いので境界は一目瞭然である。
 第三段は軍曹、曹長、准尉の墓地で六十四柱である。墓石は階級が進むたびに高くなり、准尉になると首までくる。
 第四段は少尉からはじまり、これが頭の高さである。中尉、大尉、少佐、中佐とますます高くなり、手をのばしても届きかねる大佐で終わっている。この段は敷石もゆったりしていて三十六柱である。 
 第五段には「満州事変忠死者之碑」(昭和八年三月建之)の石塔を中央にして「歩兵第十連隊戦病死将兵合祀之碑」と「工兵第十大隊戦病死将兵合祀之碑」の石柱が高く天を突いている。それだけである。大佐以上の墓と上等兵以下の墓はどこにも見当たらない。
 第六段は最近山を削って造成した墓地らしい。およそ縦三メートル、横六メートルに及ぶ大きな碑が建っている。黒光りする模造大理石に「大東亜戦争戦歿者慰霊碑、昭和五十二年建之」と彫り込まれ、県知事の署名がある。それだけである。満州事変以後の戦病死者はあまりの多数にのぼったためか、敷地がなかったためか、墓石は階級のいかんにかかわらずいっさい省いてある。 
 そして第七段はない。墓地も山もここで行きどまりである。もう碑一つ建てる余地もない。  

戦争の世紀から回れ右をして下界へ降りかけたとき、頭上のぶあつい雲が切れ、陽光がさっと射してきた。そのまぶしい閃光に照らしだされて、尾根伝いにつらなる住宅団地が浮かび上がった。それは階段状に山裾を下りながら眼下の市街へなだれこんでいき、まるで真新しい墓石の群れのように光っているのであった。』

以上である。全文である。一読して「レポート」である。観察記録である。『風景の中の風景』集中16篇のなかで私はなぜこれを好むのか。

以下つづく

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