歌会始め つづき 1
言葉は長い間、ヒト特有のもの、と思われてきた。最近では、犬もネコも鯨もゾウも、言葉を使うらしいということになってきた。鯨やゾウは身近にいないが、犬猫はいる。私の使う言葉で彼らと話をしたことは一度もないが、鳴き方、吠え方、こちらを見るしぐさ、でやりとりをしている、で、不自由はない。もっとも、「私が」であるけれど。
さて、ヒトは書く、文字までも。書くだけで好しとせず、ひとまとまりにしてそれを、「歌」だの、「詩」だのと名づける。公平に言って、かなり、不遜にして大胆な行いであるといえるだろう。
今回は、それをとりあげたい。
『風景の中の風景』坪井宗康詩集と表紙にある。1986年、手帖舎刊。「あとがき」として「夫は、この散文詩集を出そうとしていた矢先に、急死しました。卓上のノートに次のような走り書きが記されていました。『私は瀬戸内のこの町に生まれずっとここで暮らしている。町の風景は毎日見なれた風景である。しかしふとした折々にその見なれた日常の風景の中に動く時代の影や自分自身の姿を見出して足をとめることがある。そんなとき私は初心な画家がたどたどしく絵の具を重ねるように、不器用な手つきでことばをかさねながら我流の風景画を描いてみるのである。』この遺志を、いま詩集の形にすることができましたことは(以下略)」
簡素にして意を尽くす「あとがき」である。彼は良き妻を得た。
もう脱線している。話を戻そう。
どうして、もの書くひとは、晩年になると良くなるのか。集中、「墓地のある風景」を読んでみよう。
(以下続く)
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