2010年10月22日金曜日

茸を前に

茸を前に考えた

「ほんにのうや」の郷(つれあいの実家)から茸を貰った。




さっそく、出汁をひいた。これに茸を放り込んで食おうと思う。味噌でゆくか、醤油でゆくか、塩でゆくか。その汁に豆腐を入れてもいい、うどんもいい、飯を入れて雑炊はどうだ。こうして欲望は果てしなくひろがる。

豊作だというから、今年は茸があっちの家からこっちの家、こっちの里からあっちの街に贈答されているのではないか。それは、地縁であったり、血縁であったりする。政治家がらみの贈収賄と違って、すべて無償だろう。
すさまじい勢いで、あらゆる物が商品となってゆくのが、この時代の特徴だと考えるが、市場経済の枠から外れているこんな、昔ながらの「もの」の遣り取りもある。
ところで、市場経済の最先端を走っている、インターネットの世界で、無償が巾を利かせているのは、面白いと思う。このブログの記事だって無償である。(私からのささやかなプレゼント・いやならポチッとすればいい)
さて、この先のこと、無償が有償を取り込むのか、有償が無償を取り込んでしまうのか。それとも、こんな問題の立て方は間違っているのか。茸の汁をすすりながら考えようか。



2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

天然もの茸がたっぷりで羨ましい。美味しそうです。…かったでしょうね?
 さて、すべてが商品になる社会の典型は、1票が売れることだと思います。と言っても未だに売ってくれと言われたことはありませんが…。ペットボトルに米を入れたら、水入りのほうが高いという。考えもなく買う人がいるのが悪いのか、売らんかなの企業が悪いのか?こんなことがいつまで続くのでしょうね?話がどこかへ行ってしまいました。

野良通信 さんのコメント...

左はシイタケで右はナメコらしい。どおりで汁に少しトロミがついた。
インターネツトを利用しているヒトは、人口の半数におよび、ブログを開いているヒトは数百万に及ぶらしい。
そのうち、無償でパホーマンスしているのはすべてじゃないにしても、かなりの数でしょう。このことの意味は無視できない現象だと思うのです。どういう風に考えたらいいか、ナメコ汁では答えはみつからなかった。
またコメントください。