2010年11月25日木曜日

わたしは、こうしている

私はこうしている
このブログの、良き読者兼批評者、O先生に賄賂(新米の玄米)を持参した。先生は、金が無いのなら収穫物があるはず。と、資本主義以前の搾取をはばからぬお代官だが、金が無いのならオンナをと言わないのは、余程オンナに痛めつけられた過去がお有りなのだろうか。
それはそれとして、先生を前に、「今度のブログのテーマは『お手上げ運動』にしようと思う」と言ってみた。先生は、小粒なりといえども、マスコミの編集長であるから「運動」なる言葉には食いつきがいい。「そりゃあなんでえ」と身を乗り出す。
我々の日常は、歩いている時間より、車に乗っている時間の方が多い生活だけれど、車と車の付き合い方は難しい、互いに譲り合わなければならない場面は避けられない。相手への「感謝」をどう表現しているか、だいぶ前から私は意識して、手を上げて「感謝の意」を表わしている。オンナの人は最初こそ戸惑っていたが、最近はオトコと変わりなく、手を上げ返してくれるようになった。云々。
負けず嫌いなのか、先生は「そんなこたー、みんなしてる。ワシもしとる」という。譲ってもらっても平然としている者が多いので意識的に始めたのであるが、そうでもないらしい。

私が、車(バイク)を運転し始めた時は1960年代末だった。今よりうんと狭い道に車は溢れていて、「そこをどけ」「じゃまをするな」みたいなのが、一般的運転マナーだった。必要な時はもちろん、必要でない時も、クラクションをプープー・ブーブー鳴らすのが流行っていた、大きな音量の出るそれに付け替えて出陣する輩も珍しくなかった。そう「交通戦争」と呼ばれた時代だった。混み合った道で、バイクに乗った私の右足にさっきから何かが当たる、見てみると、車のバンパーが当たっていた。そんなことも思い出したぞ。
やんごとなきお方が、お手をちょっと上げて挨拶するように。知り合いにバッタリ合ってヤアというように。見知らぬ運転者同士が、挨拶する事が定着しているのであれば、それは成熟社会に近づきつつあるということなんだろう。

こんな事は、わざわざ(ことさら)こうしていると言い立てるような事ではあるまいに。私も負けずぎらいなのか、「スーパーのレジではどうしている。」と話題を変えてみた。みんな黙って品物を差し出して、黙って金を払って味気ないと思わないか。私はレジ係のヒトにまず「よろしいか」と声をかけ、支払いを済ませれば、「ありがとう」か「おせわさま」と言う事にしている。すると先生は、「わたしゃー、半額狙いで、たいてい閉店間際に行くから、店長まで顔見知りで、ヨー来てくれたと歓迎されとる」と相変わらず負けず嫌いなんだけど、これって、成熟社会の話題とどう繋がるんだろう。「貧困」とは繋がっているみたいだけれど。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

うっかり手を挙げて返礼したら、「関係を疑われるかも」と、女性は思うのかしらね。
譲った方が、つまりは早く目的地に着けることが多いという経験の積み重ねもありますし。
で、玄米のほかに、野菜も賄になりうるかも…。

野良通信 さんのコメント...

匿名さん、コメントありがとう。女性のこのあたりの判断は、どうなっているのか良く解らない。男でも見知らぬ者から、「合図」を貰うと戸惑うところがあるから、それと同質のそれかもしれないし。それとは違い、こちらがイケメンでなかったせいかもしれない(これは検証しようがない)。いずれにせいよ、ココロの平安のためには、検証しない方がいいでしょう。
ヒトのココロは、相手の謝意を喜ぶ側面があるから、「お手上げ」は良しと思っています。(男など喜ばすことはない!とお思いの女性は手など上げてはいけません)
お代官様には、ダイコなどかなり献上しています。