2012年3月12日月曜日

孤独死考

孤独死


畑に「生ゴミ」を持参していると、I氏宅の前に「ストレッチャー」が置いてある。物々しい。そういえば、昨日の事、救急車の音が近くでしていた。亡くなったものらしい。I氏宅近くの掲示板を見れば、「通夜と葬儀」の日程が記してある。「密葬」に限りなく近く弔うのだろうか、他の掲示板には張り紙がない。ほとんど家を出ない、おふくろに「〇〇さんが死んだらしいで」と教える。この地に嫁いで60年の彼女には、それぞれの家系図が、インプットされているらしく、たちまち、亡彼女の生涯が再現される事となった。何処から嫁いできたか。夫婦仲はどうだったか。家計を何で支えていたか。持病は何だったか。子は何人で、行方不明何名。現在、親元に出入りするのは誰か。「昔ながらの暮らしを貫いた最後の世代だった」とは、私の合いの手の感想だ。「歳に不足はなかろう」と私が言うとおふくろは、色を成して「否定」する。聞くと「私と同い年だから」という。残念ながら母親を「お母様」という感性は持ちあわせていないから「自分の歳を考えてみたら」。ということになる。いずれにせよ、こういう環境では、「孤独死」は「不可能」だろう。と考えた。「孤独を望んでも、孤独はあり得ない」。ひるがえって、巷間話題の「孤独死」を考えてみれば、と書いてそれ以上の記述は不要であろう。


2 件のコメント:

玉井人ひろた さんのコメント...

わが地域も、他人の内でも鍵がかかっていなければ中まで勝手に入るのが一般的なので、孤独死というのは起きにくい気がしますが、若い夫婦の家などを中心にその慣習も変化しつつあります。

野良通信 さんのコメント...

コメントありがとうございます。「なんぼ呼んでも返事がねえから」と台所で飯を食っていると大根を提げた隣の婆さんが立っている。というのも無くなってきました。家の中と外がデジタルでくっきり別れて来つつあります。夏の夕方家の前に縁台を出して、涼むというのも見なくなった。曖昧な空間、曖昧な近所付き合いが無くなりつつある。これは家制度を基本とした地域社会を解体した結果でしょう。「共同」ではなく「競争」が労働者の生きる法則です。この流れは止めようもないし、これは近代化の宿命でしょう。むしろ、このクニよりも先にその流れに突入したヨーロッパは「孤独死」をどう処理しているのか気になるところです。