2009年12月31日木曜日

ブログの孤独 つづく

「ラアーラア、ラーアラーア」飲み暮らしているうちに、年が変わろうとしている。反省はあるが、反省はしない。抱負といわれても特に無い。


日付の変わった頃に起き出して、飯を仕掛け、だし汁をとり、高野豆腐を煮た。酢ゴボウ、酢レンコンは後で作ろうか。とりあえずは、姪っ子(といっても二十歳をとうに過ぎたレディーなのだが)が食いたいという「餅ピザ」の用意をしよう。頭の中ではもう作り始めている。
餅をチンで少しく柔らくして、フライパンにオリーブオイルをたらし、(一人当てはふたつ、みっつだろうか、)餅を放り込んで、ヘラで押しながら炙る。餅と餅がくっついて一枚のピザ生地になれば、あとは、いろんな具を載せてオーブンで焼くだけだ。コツといえば、出来るだけ薄く餅を延ばすこと、それと時間があれば、カリカリにやいた方が香ばしいことぐらいか。

ひとなみに、年末年始をキネンして、歌会をしてみてもいいか。やんごとなき方面の方もすると聞く。

年末篇

「おなじ未(ひつじ)年の友に//きみは日記を焼いたりしたことがあるかい おれはあるんだよ、五十になった頃の秋だ 天城の尾根で三冊のノートを捨てた 生きたくも死にたくもない変な気持ちだった  過去との断絶、そんなことは不可能だ 紙切れはなくなっても記憶は残るからね それでもノートはできるだけ遠くへ投げたよ センチメンタルだと笑われるかねえ  「風立ちぬ、いざ生きめやも」 戦争前に覚えたこの言葉を戦争が叩き潰した おない年に生まれて先に死んだやつの顔 悪を知らなかったあの顔が忘れられるものか 生きてゆくとはそういうことだろうかねえ おれがおりてきた薄(すすき)の尾根道も長かったよ」

年始篇

「きのうはあすに//新年は、死んだ人をしのぶためにある、 心の優しいものが先に死ぬのはなぜか、 おのれだけが生き残っているのはなぜかと問うためだ、 でなければ、どうして朝から酒を飲んでいられる? 人をしのんでいると、独り言が独り言でなくなる、 きょうはきのうに、きのうはあすになる、 どんな小さなものでも、目の前のものを愛したくなる、  でなければ、どうしてこの一年を生きてゆける?」

いづれも中桐雅夫詩集『会社の人事』晶文社1979年より写した。尚、本編の縦書きを横書きにした、行替えは一字あけ、二字あきは大きな行替え、題と本文との間に//を入れた。
彼は数年後1983年に死亡、「生きてゆく」ことをやめ、「しの」ばれる側に移った。

もう少し続けてもいいか。
と書いて晩年の彼がどんなに進歩したかを書こうと思ったが止めた。詩論、評論には多少の理屈が必要だ。「理屈と飯粒はどこへでもつく」のだ、新年早々うんざりしたくない。

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