2010年9月20日月曜日

また池のこと

また水を落としに

6月半ばに田植えをした稲は10月半ばに稲刈りになりそうだ。中国山地のそれよりちょうど一ヶ月遅い。どうして遅いか?その理由はひとえに「水の供給」事情にある。その複雑なココロは以下。
1.梅雨と台風の時、雨水を溜池に補充しやすい。できれば、梅雨と田植えが重なれば、池水を使うことなくこの時期を乗り越えられる。
2.秋の水不足は米粒の出来る時期なので避けたい。
3.梅雨前に落とした水は梅雨時に補充できる。以後、ひたすら台風待ちで秋まで池水を持たせたい。今年のように、台風が来そうに無い年はちょっとシンドイ。

今年に象徴されたように、溜池の水を頼りの稲作りは、いつから池水を落とし始めるかによって田植えの時期が決まる。いやその前に籾まきを何時にするかが決まるのである。

私たちの地域では、慣例として6月の第2日曜日に田植えが出来るように、したがって、6月第1日曜日頃から水を落とす。稲の生育の出発点、籾まきは、逆算されて5月半ばの特定の日となる。

話は少しややこうしくなるがお許し願って、少し抽象化すれば、こうした、共同による水供給システムは、私が「連れション体質」と密かに名づけている。同一の行動、同一の価値観を生み出すだろう。そして、それは構成員への共通行動、共通価値の「強制」、と表裏なのである。

ほとんど例外なく、そこでは、「全員一致」が何より求められる価値であり、一方「全員一致で何を決めたか」についてはほとんど考慮されることはない。

こうして、我々の棲息する社会の「ある特有な性格」は歴史的農耕社会のこういった仕組みからもたらされたものであろうと私は考えている。パンツの中には尾てい骨がしまわれているのだ。

このことがもたらす様々の結果の良し悪しはまた別に判断するとして、まず、意識の上に「こんな様にも考えられる」と載せておくのも必要なことだろう。もしこれから先、我々が自前の民主主義を模索しようとするならば、その時のひとつの枷(カセ)として、ひとつの課題として。

さて、まだ水を落としている。これが最後になるのかどうかは、お天気次第である。水面から池堤を見上げて一枚。




さらに見上げれば秋の空。

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