2009年11月21日土曜日

言葉を集めて つづく

・ 「トシヲヒロウ」


メモには「年をとる」と書いてある。薄い辞書には無いが、分厚いやつにはある。方言なんかではない。年50を過ぎて、馬齢を重ねるにつれ、この言葉がちょうど、体に合った服を着たみたいに、ピッタリ我が思いを表してくれる。

ところで、年齢の数え方は、そんなに簡単ではない。このクニには「かぞえ」と「まん」がある。あなたは、どちらで身過ぎしているのだろうか。墓参のついでに、いくつで死んだかを見れば、「かぞえ」で記してあるのが多いようだ。さればとて、生きてある時は、「まん」を表明することで、身過ぎせよと「法」によって定められていると、さっき調べて解かった。いらぬお世話だと考えた。
そういえば、誕生日なるものがあって、身近の者のそれを、憶えていて、その日に忘れずに「何かを」というのは面倒だ。いや、「その日」を忘れていたら、もっと面倒な事になるだろう。年齢なんか、その場その時で自己申告にしたらどうなんだろう。芸能界みたくに。「生年月日」を市役所に届けることで、われわれは、「管理社会」にすでに所属しているのだ、これ以上管理されることはなかろう。

とここまで、書いて、そういえば「アーサー・ビナード」が詩かエッセイで「かぞえ」の不思議を書いていたのを思い出した。探しに行けば、積み上げた本は微妙に崩れていて、一冊抜き出せば、また、新たな秩序を求めてもっと崩れるだろうから、明らめた。で、この冬は本棚を作る事にした。本棚が出来たあかつきには、「ビナード」君の書いたものが、出てくるだろう。

それはそうと、「命」なるものはDNAとDNAが絡まって、ひとつの秩序が生まれた時から始まり、その秩序が解体(開放)される間の過程であるらしい。それでなんだろうか、どうもヒトは自らがどこから来ているものかを、明らかにしたがるものだ。いや例えば、それなしには、いてもたってもいられぬと、不幸にして、生き別れになった人が、親を探して彷徨う物語に我々は共鳴する。

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