2009年11月26日木曜日

ブログの孤独

「土の中の純」
いまさら、こんなことで百性が驚いていては、職業詐称と言われても仕方ない。でも私は、土に育った、ダイコン、ジャガイモ、等、野菜に包丁を入れる度に、その身の「純」なことに驚く。泥の中に生きながら、その身の中に、外部を入れぬその、メカニズムに不思議を感じる。
時は可逆ではない、すべて存在する物は、時につれて、交じり合い、化合しあい、時には核融合もして、平均に複雑に至る過程である。科学はそう教える。しかし、その法則さなかにあって、泥の中に「純」を創り出すこの現象を「命」と呼ぶのであろうか。

今の、若いヒトは経験がないかも知れぬ、私の育った頃の飯にはよく、石(砂粒)が入っていた。「ジャリッ」ときて、そのあたりを舌先でさぐり、見つからなければ、そのまま飲み込んだものだ。これは収穫の過程で混じり込んだもので、米ひとつぶの中に砂が入ることは無い。

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