2009年12月4日金曜日

ブログの孤独 つづく

・ 「オリオン座を」


犬と共に夜の散歩に出ると、建て込んだ昔ながらの家並みの道で「オリオン座を」見上げた。屋根越しの「オリオン」は全体をいちどきに見渡せない程デカイ。東方に星座を追って歩けば土手沿いから山越しに見える「オリオン」はいつもの大きさに戻っている。こんなのを「目の錯覚」と言ったりするのだろう。そこに実際にある物でさえ、こうだから社会現象の見え方は「認識の錯覚」に満ちているだろう、と考えた。
(つづけて考えたことを以下に記す。)

ところで『差別』もその「錯覚」のひとつだろう。最近の新聞記事から、ふたつ例を挙げてみよう。
ひとつは、「同和問題」。「結婚約束破棄」は「人権侵害」であると公務員が処分されたと記事にあるのは、近しい者の教えるところによれば身分差別に起因したことらしい。新聞に載るだけまだましとも言えるものの「人権侵害」としか書けないのは、この問題の深刻さを物語っているだろう。
もうひとつは「思想差別」。マンションに共産党のビラを配ったということで、最高裁で有罪(住居侵入罪)となった。これが仮に他の政党であったらこういう結果になったであろうか。通報、逮捕、起訴、そして控訴、といくつものハードルを乗り越えて最高裁に至る経緯をみれば、単なる法の解釈と運用の問題ではない「共産党だから差別されて当たり前」という、政官業中枢の成文化されていない意志をそこにみる。

いずれのケースも、差別される者を萎縮させることになる側面があることはいなめない。結婚(婚約)をためらわさせ、ビラ配りをためらわさせるだろう。
しかし、たとえそれが為政者にとって今のところ有益なことであるとしても、差別を放置している為政者は、やがてこの差別のメカニズムに自らが苦しめられる事になるであろう。これは歴史の教えるところである。

ここまで、考えたところで、家に帰りついた。「今日はどうしたものか、おとなしい」と庭に座った犬どもが思案の私を見上げている。

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